ばかじゃないの、と、バジルは出しぬけに言い放った。
 その日の午後、家事をすべて終えてバジルの家を訪れたときだった。両親にめいっぱいの説教を浴びたあとのシルヴィアは、すでにとがりきっていた唇を、彼の言葉のおかげでさらに突きだすことになる。
 バジルはそれにうろたえこそしたものの、前言を撤回する気はさらさらないらしい。そもそも他人の顔色をうかがってものを言うような少年ではないのだった。
「なにをどうしたらそんな喧嘩になるんだよ。女同士で殴りあいなんて」
「バジルには関係ないわ」
 シルヴィアはつんとそっぽを向いた。バジルは鼻白んだようすで、ああそうと切り捨てる。
「シルヴィアとジゼルのことだから、どうせ仕様のないことでぶつかったんだろう。どっちも変に意地っぱりなところがあるから」
「そう思いたいならそう思っていればいいわ。ジゼルがどうかは知らないけれど、私は自分が間違っているだなんて思わないもの」
「ならその膨れ面をどうにかしてもらいたいところだね」
 指摘されて初めて、シルヴィアは自分がむくれた顔をさらしていたことに気付く。ごめんなさいとは謝るものの、下がりきった唇の端をもとに戻すことはできそうにない。バジルはなにごとか言いたげにシルヴィアを見たきり、それ以来はジゼルとの喧嘩に口を出すことはしなかった。
「前に言っていた手紙のことで呼んだんだ。どうせいつかは似たことを仕事にするんだし、シルヴィアの代わりに手紙を書くのは構わない。紙もインクも手配できる。ただ、内容は僕ひとりじゃどうしようもないから」
「考えろってこと? いまここで?」
「できることならね」
 前々から伝えておいてほしかった、とバジルを恨めしく見るものの、彼にはどこ吹く風だった。助け船を出すつもりはさらさらないようで、早くしろと言わんばかりのしかめ面でシルヴィアを見つめている。
 悩む時間が許されるわけもない。シルヴィアは咳ばらいをしたあと、やけになって口を開いた。
「ええと、それじゃあ。……はじめてお手紙さし上げます。私は領主さまのお屋敷で下仕えをしている、シルヴィア・マーシュと――」
「ちょっと待って、メモを取るから」
「先に用意しておいてくれればいいじゃない、もう……!」
 バジルが紙の切れはしとペンを用意するのを待って、シルヴィアは渋々同じ二文をくり返す。ちらりと目を向けた窓の外は、すでに夕闇に染まりつつあった。
「先日は、川に溺れていたところを助けだして下さってありがとうございました。一度は死を覚悟した身でしたが、ふたたびこうしてお嬢さまのもとにお仕えできるのも、テオさまのおかげです」
 ぽつりぽつりと続く言葉の断片に、ペンが机を叩く音が重なる。シルヴィアは考えこむふりをしながらバジルの横顔を眺めていた。彼が文字をつづっているところを見るのも、思えば数年ぶりのことだったのだ。
 幼いみぎりの雨の日、彼がシルヴィアを溺れさせたのだときつく叱られたことは知っている。シルヴィアはすぐにそれを否定したけれど、少年が大声で非難されたという事実は決して消せないままだ。思い返して、シルヴィアの胸はちくりと痛む。
「それで」
 バジルがふいに顔を上げたので、シルヴィアは肩を震わせた。彼はペン先をぽとりと手に叩きつける。
「いつ本題に入るんだよ。お礼だけで紙を使いきるつもり」
 彼の手元には、すでにまばらにインクのしみが残った紙切れが置かれていた。シルヴィアはうんうんうなり、いくつか言葉を添えたものの、また口を閉ざしてしまう。
 出てこないのだ。テオに伝えるべき想いの、そのひとひらさえも。
 ようやく縋りついたと思うたびに、言葉は指の合間からするりと抜けだしてゆく。そうしてシルヴィアがバジルの瞳に目をやった途端、霧散して見えなくなってしまうのだ。泣きだしたい思いで唇を引き結び、結局首を振った。
「たとえば、あなただったらどうするの」
 言葉を紡ぎだせない自分への、苦し紛れの言い訳だった。声には子供じみた拗ねが混じり、シルヴィアの舌に苦みを残す。
「バジルだってお嬢さまに手紙をさし上げるんでしょう。……そうよ、わたしだけが中身を知られるなんて、なんだか不公平だわ」
「最初からそのつもりで話を持ちかけたんだろう。なにをいまさら」
 いいからと強いると、バジルはうろんげに顔をしかめた。シルヴィアから顔を背け、指先にペンを遊ばせる。
 宵闇はいつしか、東の空からゆるやかに忍びよっていた。山並に沈みゆく夕日は、そのふところに光を抱えこんで、空に茜色の陰りをこぼしている。夜が近づけば外を歩く人影も少なく、夜告げ鳥がただ寂しげに鳴き声を交わしているのが聞こえてきた。
 シルヴィアは音もなく息をついて、切り上げどきを探り始める。手紙もその内容も、急ぐ用事ではないのだ。もう一週が巡るのを待てば、時間を作ることはできるだろう。そう考えてふり返り、
「バジル、」
 呼びかけた先の、わずかなよどみもない表情に、シルヴィアは呼吸を止めた。
 懺悔に臨む僧のように、まとう空気さえもひりつかせる無言。一心に少女を射抜く瞳の色。シルヴィアの影は縫い留められて、微動だにすることさえ許されなかった。
 唇を開き、少年は告げる。
「僕は、あなたのことが好きです」
 声は矢のようだった。
「ずっとあなただけを見ていた。あなたは気付かなかっただろうけれど。その目が僕を顧みてくれたらいいのにと……願いながら、ずっと」
 少年に滞った影は、ひそやかな諦めの形をしていた。シルヴィアに悟られたのはひとつ、彼は視線を向けられる程度の見返りさえ、その言葉を送る相手に、求めてはいないのだということばかり。
 どんなにか幸せなことだろう、と思う。神にささげるものにすら似た想いを受け取る相手は、ともすれば、祝福を授かる花嫁ほどに幸福なのではないかと。ゆえにシルヴィアは言葉を失うほかにないのだ――その声を受け取るのであろう女性の微笑が、脳裏に焼きついて離れない以上は。
「……そんなところじゃないの」
 添えて、バジルはよそを向く。シルヴィアははっとして息を吸い込んだものの、喉を震わせることさえできなかった。
「ごめんなさい」
 代わりに飛び出したのは、謝罪の言葉がひとつだけ。
「もうすこし考えてみる。なんだか頭がうまく回ってくれないの。来週までにはまとめておくから、そのときに……今日はもう遅いことだし」
「シルヴィア」
「わたしから持ちかけたのにごめんなさい、そ、それじゃあ」
 返事も聞かないまま、早足で家をあとにする。
 まどろむような夕陽の色さえ、いまのシルヴィアには自分を苛んでいるかのように感じられた。無我夢中で走り、荒くなる息に任せて速度をゆるめる。道の続くまま足を動かしていたシルヴィアは、いつしか河原に辿りついていた。
 夕暮れどきともなれば洗濯物を洗う娘の影もない。どこからかたなびく煙が、ただ水面に映り込んでいるのみである。ふらりと水際にしゃがみこみ、シルヴィアは胸に両手を寄せた。
「違うのに」
 心臓が鳴りやまない。耳こびりついた言葉は、絶えずシルヴィアの胸を震わせている。少年の表情や告白を思い出すたびに、幼いシルヴィアの声がなにかを訴えた。
「違う、のに……」
 無意識につむっていたまぶたをうっすらと開く。耳を覆う水音が、景色となって飛び込んでくる。足元の流れにはシルヴィアの顔が映り込んでいた。いまにも泣きそうな表情で、頬を夕陽ほどに赤く染めた自分の顔が。
「わたし」
 ほんとうは。
 十にも満たない少女の声が、耳元に囁いた。
 顔が熱いのを夕焼けのせいにはできなかった。一度交わしてしまった約束を、なかったことにはできないように。指先で水の流れを遮ったところで、せせらぎはなにごともなかったかのようにシルヴィアの顔を映しだす。たまらなくなってきつく奥歯を噛んだ。
 嘘をついたのだ。いくつもの嘘で塗り固めて、隠しとおさねばならない嘘を。ふたたび立ち上がるだけの気力も起こせないまま、シルヴィアはながく膝を抱えていた。