エリューヌ川に溺れた経験は、なにも、テオに救われたその日がはじめてだったというわけではなかった。
 シルヴィアが分別もつかない幼子だったころ。エリューヌ川の支流の支流、こどものくるぶしを濡らすか濡らさないかほどのせせらぎは、彼女にとって格好の遊び場だった。日がな目付け役のバジルを連れ回し、水を浴びせかけては彼に迷惑げな顔をされたものだ。
 けれどもシルヴィアにも、決して濡らすまいと決めていたものがある。すなわちバジルの抱えた書物、紙切れ、ひいてはてのひらほどの断片にいたるまで。彼が紙のたぐいを手にしているときは、シルヴィアは彼に向かってひとつぶの水滴すら弾き飛ばすことをしなかった。自分から少年とのあいだに距離を置き、はなれた場所で水遊びにいそしんだのだ。
 そんな日が続けば、彼も徐々にシルヴィアのあしらいかたを悟るようになる。紙とペンを手から離さなくなったバジルは、次第に川辺の木陰に残されることが多くなっていった。
 シルヴィアはひとり上流から下流までを行っては帰り、バジルに報告をくり返す。年いちばんに咲いた河原の野花、子供をつれた狐の母親、川から見えた季節の移り変わりのなにもかも。水に入ることをかたくなに嫌がるバジルも、そうした話にだけは渋々耳を傾けてくれる。それがうれしくて仕方がなかった。
 今日はずっと川上のほうまで行ってくるわ、と言い残したのは齢五つの春先のこと。道中に降りだした小雨を意にも介さず、シルヴィアは意気揚々と川の流れをさかのぼっていった――急激に水位を上げた川の水に、足を取られるそのときまで。
 エリューヌ川の名を冠した記憶が、よいものであったためしがない。次に目を覚ましたシルヴィアが見たものは、自分の部屋の遠い天井。窓の外で少年が叱られているのを、聞いていることはできなかった。

「ああ、そんなこともあったわねえ」
 うなずきながら、ジゼルが井戸水をくみ上げる。抱え上げられた桶の中では、冷えた水がちゃぷりとしぶきをあげた。
 昼餉の準備どき。水くみに走ったシルヴィアは、井戸端でジゼルに出会ったのだった。水で満たされた自分の桶を受け取り、代わりにいまだ空のままの彼女の桶を手渡す。ジゼルはポンプを上下させ、再び桶に水を注いでいった。
「あのときは村じゅうが大騒ぎだったのよ。雨が降っているのにシルヴィアもバジルも帰ってこないし、川の水は目に見えて増える一方だし。川下で二人が流れてくるのをじっと待っていた人までいたんだから」
「じゃあ私たち、そこまで流れていったの?」
「そんなわけないでしょう。もう、本人はのんきなものよね」
 ことの顛末は、シルヴィア自身よく理解していないのだった。幼かった彼女が憶えているのは、それから自分が風邪をひいたこと、川遊びを禁じられたこと、そしてバジルが家にこもりがちになったということだけだ。
 ジゼルは子供を眺めるような目でシルヴィアを見やり、仕方がない、とばかりに首を振る。
「大人が総出で探しに行ったのよ。バジルはすぐに見つかったけれど、あなたひとりが見つからないから、ずっと川上のほうまで行ったみたい。そうしたら途中の岩に引っかかって気を失っていたって兄貴が」
 そのまま流されていったらと考えるとぞっとしなかった。十年も昔のできごとに、シルヴィアはほっと息をつく。
「あぶないところだったのね」
「ほんとうに! シルヴィアって、いつもいつも自分のことには無頓着なのよね。……あら、噂をすれば」
 手ぶらのバジルを目に留めて、ジゼルが肩をすくめる。少年は露骨に顔をしかめると、ジゼルとシルヴィアを交互ににらんだ。
「なにを噂していたって?」
「十年前にシルヴィアが川に流されかけたことよ。あなたもずいぶん怒られたみたいじゃない」
「ああ……」
 渋面でうめいて、バジルが唇の端を引き下げる。彼はふり払うように一度まばたきをすると、それより、とシルヴィアに顔を向けた。
「午後、手が空いたらでいいから。うちに来て。……って、母さんが。伝えたよ」
「午後? 待ってバジル、どうして」
 呼び出される理由に心当たりがない。思わずバジルを呼びとめたところで、彼の瞳のなかには強い光がよぎった。強制力のこもったまなざしに、シルヴィアは口をつぐむ。
「用事があるからって、言っていたんだ、母さんが。いつでもいいからって。いいね」
「う、うん」
 ジゼルの手前、シルヴィアとの約束を口に出すこともできなかったのだ。こくりこくりとうなずいたシルヴィアにふんと鼻を鳴らして、バジルはもと来た道を歩み去っていった。
「……感じ悪い」
 つぶやいたのはジゼルだ。
「よくあんなのと付き合っていられるわよね、シルヴィアも」
「そうかしら? あれでも面倒見はいいのよ」
「ただあなたが放っておけないからだと思うけれど」
「毎日毎日勉強をしているしっかり者だわ。文字も言葉もたくさん知っているし」
 それから、ええと。空回りする頭を必死で働かせようとする。ジゼルはそんなシルヴィアを冷ややかな目で見つめていた。
「今日はやけに肩を持つのね。いつもなら文句ばかりなのに」
「え」
「少しでも幼なじみがけなされるのは嫌? あのねシルヴィア、言っておくけど、あなたもそろそろあいつにかまけている場合じゃないと思うわよ。収穫祭はもうすぐそこなんだから。そろそろ男の幼なじみと一緒にいるのもどうかしら」
 次第に口調に棘が混じりだすのを、シルヴィアはひしひしと感じ取っていた。けれども彼女をなだめすかそうとする意気よりも、ふくれた苛立ちが前に出る。ずいと一歩前に出て、唇から笑みの気配を消した。
「それとこれとは話が違うわ」
「同じよ同じ。騎士さまにお渡しする花冠の算段は立ったの? 当日の服の刺繍は終わった? 好きな相手がいるのにいつまでもあいつを傍に残しておくなんて、まるで――」
「ジゼル、それ以上言ったら怒るから」
 シルヴィアが声を低くしても、火に油を注ぐのと同じことだった。ジゼルはかっと頭に血を上らせる。
「まるで取り置いているみたいじゃない、って言うのよ!」
 ぱあん、と、乾いた音が響き渡る。
 頬を打ったシルヴィアも、打たれたジゼルも、しばらく目を見開いたままで凍りついていた。衝撃が遅れてシルヴィアのてのひらを痺れさせたころ、ジゼルはわなわなと肩を震わせる。
「……っ、やったわね……! 先に殴ったのはあなたなんだから、泣きごと言うんじゃないわよ!」
 体重をこめた体当たりを受けて、シルヴィアはあっけなく地に転がされる。栗色の髪が力いっぱいに掴まれ、外れたリボンが宙を舞った。しかしシルヴィアの側も為すがままになるつもりはなく、自由なままの両手で必死に反撃を試みる。
 その攻防も長くは続かなかった。
「なにをやっているんだお前たち!」
 怒声に続き、シルヴィアにかかった重みはまたたく間に取り去られる。ジゼルを羽交い絞めにしたのは彼女の兄だった。放してよ兄貴、とジゼルは歯をむき出しにしてわめく。
「あっちが先に殴ったのよ! 私はやり返しただけだわ! 謝らせないと気が済まないんだから……!」
「ひ、ひとの幼なじみをけなしておいて、なにがやり返しただけよ! 謝るのはジゼルのほうだわ!」
 ジゼルを引き剥がした青年は、耳元を行き交う高音に顔をしかめていた。次第に集まりだす村人たちを見渡すと、彼は腕に力を込める。
「いいから戻るぞ、いつまで水を待たせるつもりだ。シルヴィアも早く家に帰れ」
「でも兄貴!」
「人様に迷惑がかかるって言っているんだ、考えろ!」
 鼓膜を震わせる大音声に、ジゼルの顔面がゆがむ。それがなによりシルヴィアの胸を突いた。
 ひきずられていく彼女を見送りながら、シルヴィアはじんじんと痛むてのひらをずっと握りしめていた。