夜告げ鳥が鳴いている。つられるようにまぶたを上げて、あれ、とシルヴィアは何度かまばたきをした。木張りの天井、そっけない一部屋に、あかあかと夕陽が差し込んでいる。そこは昨日出ていったばかりの自分の家に違いなかった。すぐに頭がつきりと痛んで、シルヴィアに自身の失敗を思い知らせる。
 度数の高い酒類を、誤って一気飲みしたことは憶えている。気が動転していた自覚もあった。あっという間に気を遠くして、それからの記憶はシルヴィアには残っていない。
 体を起こす力も湧かないまま、ゆさぶられるような頭の痛みに耐え続ける。階段をのぼる足音さえ今のシルヴィアの身には毒だった。しばらくして部屋の扉を開いたのは、しかしシルヴィアの想像した背格好をしていない。
「ああ。起きたんだ」
「バジ――、う」
 シルヴィアはとび起きようとして、その瞬間に殴られるような痛みにうめく。頭がぽとりと枕に戻るのを、少年は呆れ果てた目で見下ろしていた。
「寝ていたほうがいいんじゃない。酒にやられたみたいだし」
 湿った布を、彼は慣れない手つきでシルヴィアの額に乗せる。シルヴィアは目を細めた。
「どうしてバジルが」
「たまたま外に出ていたら、きみを乗せた馬に行き当たったんだ。なにかと思った。マーシュさんたちはまだ畑だし、手が離せないみたいだったから、代わりに面倒を見ることになったんだよ。許可はいま取ってきた」
「私、家に帰されたの……?」
「看病なんかしている余裕がなかったんだろ。きみを送ってきた人――たぶんどこかの貴族の従僕だろうけど、その人が言うには、一日休んでから来いって。お嬢さまからの言伝」
 枕元にリボンが下ろされる。バジルはためらいもなくシルヴィアの椅子に腰を下ろし、はあ、と長いため息をついた。
「だから注意が散漫だって言うんだ。今回は倒れるだけで済んだからいいようなものの」
 続きかけた諫言は、バジルがシルヴィアの表情に目を止めた途端に勢いを失っていく。しばらく迷うようすをみせてから、彼はよそを向いて言った。
「……なにがあったんだよ」
 角の取れた声色が、彼にとってせいいっぱいの譲歩だったのだろう。崩れかけたシルヴィアの顔はその一言でくしゃりとゆがんだ。両手で目元を覆えば、ひきつるような嗚咽が漏れる。
「テオさまに……話しかけられ、て、私っ、なにも、答えられなくて」
 バジルは青年の名前を知らないに違いないのだ。けれども説明をしている余裕もなにも、今のシルヴィアには残っていなかった。単語を吐き出すごとに、泣き声がのどを震わせようとする。すん、と鼻をすすれば、目元は火花を散らすような痛みに襲われた。
「せ、せっかく、こちらのことばで話しかけていただいたのに。お気を使わせてしまって。お嬢様の手まで、煩わせてしまって」
 思い返すたびに、シルヴィアの顔からは火が出そうだった。しかし醜態はそれに留まらない。わけもわからず客人用の酒をあおり、挙句の果てには昏倒して家に追い返されたのだ。
 まぶたの裏に、残念がるクローディアの表情が浮かんでは消えた。彼女は失敗を責めるような人物ではない。だからこそシルヴィアは、かけられた信頼を裏切るわけにはいかなかったのだ。――だというのに。
「もうお顔も合わせられないわ、こんな……こんな、私なんかじゃ」
 シルヴィアの自責を、バジルは口を挟まずに聞いていた。
 そうしてついに嗚咽以外にはなにも漏れなくなった段階で、そう、と相槌を打つ。開かれたままの窓から、冷えた秋風がざわりと吹き込んだ。その風は熱を帯びたシルヴィアの頬をさらって、ひとときばかりの安らぎをもたらす。
「僕がなにを言えるわけじゃないけど」
 前置きをして、バジルは椅子を立つ。きいと床板が鳴いた。
「ことばぐらいどうとでもなるんだよ。わからないなら勉強すればいいし、お嬢さまや僕みたいな人間が通訳をすることだってできる。身振りだって、道具だって、いくらでも代わりを果たしてくれる。でも、伝えることをあきらめたら終わりだ。なにもかも」
 ずり落ちた額の布が、彼の手によってかけ直される。布はその途中、当然のようにシルヴィアの目元をぬぐっていった。
「好きなんじゃないの」
 声は、シルヴィアの耳元に響いた。
 枕元にしゃがみこむバジルの表情はうかがえない。ベッドに身を寄せたまま、彼はしばらくそうして黙りこんでいた。静寂に沈むはずの一室で、シルヴィアの心臓だけがただただ鼓動を刻み続ける。
「あきらめないでよ。……そう簡単に捨てられたら、こっちの立場がなくなるじゃないか」
「……え?」
 そのとき抱いた違和感が、肌に爪を立てるようなその声色に対してのものだったのか、思いのほかに低くなっていた幼なじみの声そのものに対してだったのか、シルヴィアには見当をつけることさえさえできなかった。最後にシーツをひっかいて、バジルは部屋を出ていく。階下からは間もなく両親の声が伝わった。
 夜告げ鳥が鳴く。シルヴィアの鼓膜には、ささやかな痺れが残っていた。

「申し訳、ございませんでした」
 深々と腰を折っての謝罪を、クローディアは微苦笑で受け入れた。
 パーティーの翌日。朝早くから屋敷へ向かったシルヴィアを迎えたのは乳母のデボラだった。彼女はシルヴィアの顔色と身なりを確認し、クローディアが目を覚ますころを見計らって、シルヴィアをその寝室へと向かわせたのだ。
 クローディアは目元にうっすらと隈を作っていたが、シルヴィアの来訪を厭うそぶりは微塵も見せなかった。彼女は早々に着替えを済ませ、穏やかに問いかける。
「デボラには叱られた?」
「……いえ、あまり」
 小声で答える。そのことが、いの一番に怒声が飛ぶとばかり思い込んでいたシルヴィアを拍子抜けさせたのだった。
 そわそわと指を曲げ伸ばしするシルヴィアを見やり、クローディアは「そう」とまぶたを下ろす。シルヴィアはそのとき彼女の瞳に浮かんだ安心を確かに目に留め、同時にデボラが黙した理由を悟った。いたたまれなくなって、ふたたび逃げるように腰を折る。
「お嬢さまや旦那さま、奥さまには、大変なご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ございませんでした」
「いいのよ、とは言いにくいけれど……そうね、昨日の今日でよくよく反省したでしょうし、きっとこれからお父さまやお母さまがじゅうぶんお叱りになるでしょうから、私から叱ることはしないでおくわ」
 でも、と、休符を挟むのにも似た間が置かれる。クローディアは姉のようなまなざしをもってシルヴィアを見つめていた。
「あなたを心配したひとたちがいたことを忘れないでちょうだい。もうこんなことはしないように」
「はい」
「遣いに走ってくれた方が言っていたわ。あなたを預けた男の子が、ひどく慌てていたそうよ。彼にもよくよくお礼を言うことね」
 シルヴィアは一瞬だけ顔をしかめる。慌てていた、と形容された相手とバジルの名前が噛みあわなかったのだ。
 倒れたシルヴィアを介抱した少年はバジルの他にはいないのだから、遣いの従僕が見たのは彼に違いない。しかしその一方で、彼にそれほどの心配を受ける理由が見当たらないのだった。
「シルヴィア、どうかして?」
「いいえ……なんでもありません。お嬢さま」
 呼びかけられ、いくらか遅れて理解する。理由は始めからそこにあったのだ――バジルがシルヴィアの身を案じるのに十分な理由は。同時に、先だって彼の口から飛び出した、あきらめるな、という言葉にも納得がいった。
 伝書鳩がいなければ、手紙は届かない。
 知らず知らずのうちについていた胸の傷にようやく気づかされ、顔面は焼けるような熱を帯びた。シルヴィアはそれとなく床をにらみ、頬の内側をかむことでそれに耐えようとする。クローディアに気遣わしげな一瞥を向けられたところで、シルヴィアはそれに応えるだけの余裕を持てなかった。
「今後このようなことがないよう、よく注意いたします。申し訳ございませんでした」
 そう言い残し、逃げるように退出する。
 冷えた空気にさらされても、耳の裏側にはながく熱が滞った。床を踏む足音はやけにかたくなに響く。シルヴィアは領主の部屋へと足を進めながら、どうして、と胸に問いかけていた。
 密約をもちかけたのは自分のほうだ。そもそもバジルの手紙はまだ完成にはほど遠く、他の少年たちからの願いを断るようなことはしていない。クローディアやテオにうしろめたさを覚えたわけでもなかった。
 ならばどうして、こんなにも胸が痛むのだろう。
「気のせいだわ……きっと、気のせい」
 そうでないなら、一気にあおった酒の毒が、まだ体にまわっているのだ。シルヴィアは自分に言い聞かせ、止まりかけた歩みを再開する。もしも気の迷いがあるのなら、領主やその夫人が追い払ってくれるに違いない――耳を裂くような一喝と、手厳しい非難によって。そうであれと願いながら、シルヴィアはただ一心に足を急がせていた。