すみきった空のもと、風はあたたかい。庭先に並べられたグラスにはなみなみとワインが注がれ、その水面は雲の影を落としてゆらめいていた。
 談笑を交わすひとびとの間を抜けながら、シルヴィアはテーブルの上に目を光らせる。給仕の集まる一角に戻ってきたところで料理人の男をあおぎ見た。
「中央のテーブルに葡萄酒と、それからバターを少し足した方がいいかもしれません」
「端は」
「お客様が少ないので、まだ補給の必要はないと思います」
 銀盆にワインボトルとバターの皿を受け取る。そのようすを横目に見ていた来客のメイドが、「ここのメイドはあなただけなのかしら」と声をかけた。シルヴィアがひかえめにうなずくと、彼女はふうんと首を傾ける。
「ずいぶんとお若いのね。ロマルタの言葉はご存知なの?」
「いいえ。まだ」
 パーティーの寸前、クローディアから簡単なあいさつと自己紹介の数文を教えられたぐらいのものだ。
 使用人のなかには、中流以上の出自である娘も確かに存在している。彼女らの両親が花嫁修業のために娘を奉公に出させる場合や、主人にあたる貴族が家柄に箔をつける理由で雇用をおこなう場合、理由はさまざまだが、一貫して確かなのは、そうした使用人たちがシルヴィアのような田舎娘を見下しがちであるという事実だった。
 シルヴィアに声をかけた娘も、多分の例に漏れない。今にも嘲笑を浮かべようとする唇を押しとどめてはいるものの、青い瞳には侮蔑の影が色濃く映っていた。
「お客人はしばらくここにいらっしゃるんでしょう。あなたがそんなことではお気の毒ね」
「これから勉強するつもりです。失礼にはならないように」
「どこまで頭に入るものかしら。労働階級の子供の脳は、くるみほどしかないと聞いているけれど?」
 シルヴィアは足元をにらみつけ、言い返さないように、とくり返し自分に言い聞かせる。――彼女たちはただ、主に与えられる鬱憤を、立場の低い人間に押し付けたいだけなのだ。主に恵まれている自分は、ただおおらかな気持ちでいればいい。
「おおい、給仕! ワインが切れたぞ!」
 中央のテーブルから響いた大声が助け船になった。「はい、ただいま」と盆を抱えて駆けていきながら、シルヴィアは背後で娘が鼻を鳴らすのを聞いていた。
 パーティーにおける給仕の仕事は単純だ。テーブルを見渡し、切れかけた食事や飲み物、食器を運ぶだけ。客人に頼まれることがあれば聞き届け、総括する料理人のもとへ伝えにゆけばいい。会場ではシルヴィアのほかにも数人の使用人が待機しているおかげで、忙しく走り回る必要もなかった。
 ひとびとの腹が満ちたころ、シルヴィアは庭の端でこっそりと息をついた。真上にあった太陽もゆっくりと空を下りはじめている。夕暮れを迎えるまでにはパーティーも閉じられるはずだ、とシルヴィアが気合を入れたとき、その太陽を遮る影が落ちた。
「使用人さん」
 奇妙な抑揚のついた声が呼びかける。シルヴィアを見下ろした青年――テオが、すぐそばで手をあげていた。あわてて取り落としかけた銀盆を、シルヴィアは危ういところで受け止める。
「あ、は、はい、なにか」
「川で溺れていた。あのときの子は、きみだね」
 切れ切れの言葉はゴートルードのものに違いなかった。しかし一旦はシルヴィアの耳に入ったそれも、混乱した頭ではかみ砕くことさえできない。ぱくぱくと口を開閉させるだけのシルヴィアに、テオは困ったように笑った。
「言葉は伝わっていますか。発音がまだうまくないかな」
 シルヴィアは大きく首を振る。テオはしばらく考えるそぶりをみせて、それからひらめいたとばかりに姿勢をただした。
『きみの名前を教えてください』
 聞き憶えのある問いかけだった。シルヴィアはあっと声をあげ、やっとのことで、そらんじるほどに練習した一文を引き上げる。
『私……私は、シルヴィア・マーシュです』
 単語にしてわずか四つの自己紹介に、テオは満足したかのように何度もうなずいた。
『スェルタの子で間違いはないかな。お友達の彼は、ロマルタの言葉が流暢だったね。学校には通っているのかい』
「え、ええと」
 ずらりと並ぶテオの言葉の一端も、シルヴィアには理解することができなかった。今にも目のまわりそうな心地でいた彼女の両肩に、ふいに、やわらかなてのひらが置かれる。
『いじめるのはそのあたりにしておいてあげて、テオ。緊張に強い子ではないの』
 クローディアの口から流れるロマルタ語に、一切のよどみはない。後ろから抱えられる形になったシルヴィアは、言葉を失ったままふたりを見上げていた。
『ロマルタ語も、さっき簡単に教えただけだから……申し訳ないけれど、できるだけこちらの言葉で話しかけてあげて』
『発音に不安があってね。すまないことをした』
『そう思っているのはきっとこの子も同じよ』
 会話に耳を傾けているうち、シルヴィアの顔はじわじわと熱を持つ。粗相があったかもしれないと考えるだけでいたたまれなかった。先だって使用人の娘に嘲られたことまでも思い出されて、頭のなかはぐるりぐるりと渦を巻く。
 クローディアの口からちいさな笑いが漏れたとき、シルヴィアの忍耐はついに限界に達した。
「申し訳ありませんでした、失礼いたします!」
「シルヴィア!?」
 自分が笑われたのでないことは、シルヴィアもよくよくわかっていた。けれどもそれ以上ふたりの前に顔を晒していることができなかったのだ。
 客人のあいだをくぐりぬけ、料理長のもとに行きついてぶんぶんと首を振る。抱えた銀盆は熱を持っていた。後悔はおもりとなってシルヴィアの胸にひっかかり、のどにあわい苦みをもたらす。
 走ってきたばかりの方向をふり返ると、ちょうど庭を横切った先で、クローディアとテオが言葉を交わしている。一枚の絵のようなその光景を目にして、彼女の胸はきりと締めつけられた。耳にはクローディアの流れるようなロマルタ語がこびりつき、いつまで経っても離れない。
「どうした」
 ひと仕事を終えた料理長が声をかける。シルヴィアはふるふると首を振った。
「ちょっと疲れているのかもしれません、ひさしぶりのパーティーだったから」
 のどはからからに乾いていた。使用人たちがグラスを片手に一息ついているのを見やり、シルヴィアもまた手さぐりにひとつのグラスを持ち上げる。
 ぐいと一気に飲み下してしまってから、むせかえるようなアルコールの香りに襲われた。
「シルヴィア、それは――」
 ぎょっと叫んだ料理長の声も、もうシルヴィアの耳には届かない。
 脳天を貫かれたような感覚だった。目の前は真っ黒に染まり、平衡感覚を失う。足元がぐらつけばもう立っていることもできない。迫りくる地面を受け入れて、シルヴィアはそのまま意識を失った。