暴虐を尽くした風が収まったとき、最初に響いたのは、耳障りな電子音だった。
自動的に接続された通信機の向こう側から、雑音混じりに女性の声が伝わってくる。――第五観察所、第五観察所、応答せよ。芯の通った声に、けれどもすぐ返事のできる者はいなかった。
『誰もいないのか? 第五観察所、応答せよ。こちら都市議会、ジュネス・オルコット議員である。オルコット管理官がそちらに邪魔をしているはずだが。おい、第五観察所!』
「……ええ、聞こえていますよ、キーファ・オルコットは確かにここに」声を張り上げ、腰を抜かしていた男が一人、立ち上がる。ふらつきながら通信機のそばに歩み寄ると、空になった椅子に身を落ち着けた。「ずいぶん遅かったじゃありませんか、奥さん」
(……奥さん?)
あんぐりと口を開けたアンゼリカに対し、周囲の監察官は呆れたようにうなだれている。どうやら彼らにとってはその会話も日常茶飯事であるようだった。
『やむないだろう、さっきの今で議会に話を通すような真似を強いられたんだぞ』
「あなたならやってくれるかと思ったもので」
『なにを当然のことを、……と、言ってやりたいが。今回ばかりは翼人に助けられたな』
「はあ」
キーファが相槌を打つ。夫の気のない返事に、通信機の先の女性は鼻を鳴らした。
『今回の一件に対する処理は、翼人の総意に基づくものとする、とのことだ。アンゼリカ・ローデンは都市の“市民”であるすべての翼人たちに無罪放免を望まれている。翼人がただの観察対象ではないことが、めでたく承認される結果となった。議員たちにはご立腹だが』
「それはまた」
『まったく大事を起こしてくれる、議会所も風でめちゃくちゃだ。こんな夜中だというのに……掃除なんてしたことがない』
「早いところ片付けてしまってくださいよ、今晩はルゥと一緒に夕食を取ると言ってあるんですから」
『分かっている!』
憤懣も露わな声を限りに通信は途切れ、再びしんと静まった一室が戻ってくる。
アンゼリカがはっとふり返れば、保護区域には管理官と夫になだめられている母親の姿があった。彼女は通信機を手渡され、もう一度壁の向こう――アンゼリカの座る部屋へと顔を向ける。武骨な機械に、おずおずと声を吐き出した。
『アンゼリカ』
声は耳元に響いた。キーファに差し出された通信機に、アンゼリカは「お母さん」と呼びかけた。
「お母さん、……わたし」
『アンゼリカ、怪我はない? 元気でいる? ひとりぼっちになってはいない?』
心臓を直接つつかれるような心地がした。アンゼリカは唾と一緒に嗚咽を飲み込んで、げんき、と笑う。
「ずっと寂しかったけど、もう、だいじょうぶ。お母さんと、お父さんと……フレイのおかげ。きっと、また笑っていられる。だから」
『アンゼリカ』
「今度は、ちゃんと会いにくるよ。こんな方法を取らなくてもいいように」
どうやって、とは伝えなかったけれど、彼女はその声色に答えを悟ったらしかった。ゆるりと笑って、ええ、とうなずいてみせる。
『大好きよ、アンゼリカ。いつまでもあなたは、私たちの天使』
「うん。……うん、ありがとう」
通信が切れる。名残惜しそうに去っていくふたりの翼人を見送って、アンゼリカは深く息を吐き出した。
大損害を生み出した部屋を見回して、キーファが渋い表情をする。書類の束はあちこちにばらまかれ、机から落下した機器の中には、電線をのぞかせたものさえ見受けられた。環境のためにと置かれていたのであろう鉢植えも、その土を床に崩落させている。
「確かにめちゃくちゃだな……」
「オルコット管理官、私たちはどうすれば」
遠慮がちに手を上げた管理官の一人に、キーファはため息をついてみせた。
「まあ、片付けるほかにあるまい。そこの警備員も、手伝ってもらえるかな」
「は、はあ」
呆然としたまま、しかし人々はそれぞれに立ち上がった。書類を拾い、揃え直しては机上に重ねていく。苦笑いでそれを眺めるキーファに、ひとり、声をかける者があった。
「やあオルコット管理官。片付けついでに、報告をさせてもらってもいいかい」
部屋の扉に手をかけて、ガネットが立っている。彼女の頬には皮肉じみた笑みが浮かんでいた。あっと声を上げたアンゼリカを一瞥してから、ガネットは室内に踏み込んだ。
「彼女――アンゼリカに任せていた翼人フレイは、たった今翼人でなくなった」
管理官たちが揃って目を剥く。
衝撃の気配もどこ吹く風で、ガネットは自身の胸を叩いた。
「このことにおいては私が全責任を負おう。上にも追って連絡を入れるつもりだ。……けどね、管理官。フレイは都市にとって、これ以上ないほどの観察対象になるんじゃないか」
一度言葉を切り、ガネットはにいと唇をつりあげる。
「なにせあれは今、翼を切り落としたばかりの身だ。勝手に翼を落として、勝手に人の体に慣れてしまった私なんかより、よほど研究のしがいがあると思うけどね?」
頭を抱えたキーファを仰ぎ、ガネットの瞳は試すようにぎらりと輝いた。彼女を呆けたままで見上げ、アンゼリカはその色の理由にようやくの納得を覚える。彼女は人間であることを自ら選んだ翼人なのだ。
翼人は保護区域に籠められ、自らの生死を人に委ねるほかにない。彼らはその生活に疑問を抱くこともしなかった。けれども、もし、鳥籠を抜け出したいと願う翼人が存在していたとしたら。
自分の手で翼を切り落とす翼人が、存在していたのだとしたら――。
(なりそこないなんて、どこにもいない……)
ガネットはアンゼリカに手を貸して、軽々と立ち上がらせる。人間と同じだけの力を、頭を、その身に取り戻した翼人は、困ったように笑っていた。
「そういうことだ、アンゼリカ。またあの馬鹿を引きとってもらえないかな」
「で……でも、いいんですか」
「いいもなにも。あれを保護区域に住ませるわけにもいかないんだ、上も納得してくれるだろう。……そうだね、きみがもう一度、ここに戻ってくるまででいい」
アンゼリカと母親との対話を聞いていたのだろう、ガネットは見透かしたように言う。ぱくぱくと口を開閉させたアンゼリカに、力強くうなずいてみせた。
「立派な翼人管理官になって、またここまでおいで。今度は都市に、直接文句をつけられるようにね」
無理を通すのはそれからだ。そう言ってガネットが肩をすくめる。
彼女の瞳に輝く翡翠は、人懐っこく細められていた。