終章
「アンゼ、台拭きは上の棚だっけ」
「そうそう、片付けが済んだら洗濯物も取りこんでおいてね」
「りょーかい」
 てきぱきと足を動かす青年を、アンゼリカは居間の机から見送った。
 フレイの歩みに迷いはない。ようやく自分の体に慣れが回ったらしいとアンゼリカは息をつく。背中一面に包帯を巻いていたころは、彼は急激な体重の増加についていけず、戸惑っては転んでをくり返していたのだ。
(目を離してもよくなったのは進歩かな)
 ほっとして、再び向き直るのは、翼人の体のつくりを図解した資料の山だった。
 ここ数ヶ月で思い知ったのは、ガネットという女性が世話焼きであるという事実だった。フレイの生活調査と称してアンゼリカの家を訪れるたび、彼女は一抱えほどの研究資料を置いて帰っていくのだ。
(ありがたいことではあるけど……)
 ところどころに下線の引かれた紙束には、持ち主の几帳面さがうかがえた。アンゼリカの疑問を先取りするかのように、ページの空白には細かな書き込みが為されている。その気配りに舌を巻いた。
「届かないな」
 道は遠い、と思う。
 けれども目指すと決めた場所だ。アンゼリカが筆記具を握り直したとき、その手元に影が差した。
「アンゼ」
 両手いっぱいにシーツを抱え、その脇からフレイが顔を出す。アンゼリカはぎょっとして立ち上がった。
「し、シーツは二階! って、教えてなかったっけ」
「聞いた気がするような、しないような……」
 フレイが言葉を吐き出すごとに、山積みの洗濯物がぐらりと揺れる。アンゼリカは両腕を上下させ、ついに放り出しかねて階段に足をかけた。のっそりとあとに続きながら、フレイはああと声を上げた。
「今日ルゥが来るって。友達連れて」
「ルゥ? ――きゃっ」
 駆け足で階段を上っていたアンゼリカが、くるりとふり返る。その拍子に足が宙に浮いた。慌てて腕を伸ばしても、手すりは指からすり抜ける。
 視界が真っ白に染まった。覚悟していたはずの痛みは、いつになっても襲ってこない。
 支えられた、と気付いた直後、代わりに空からは幾枚ものシーツが落下した。アンゼリカはその重みに耐えきれず、やっとのことで体を反転させる。はずみで階段に座ってしまったのは不可抗力だった。
「……あのさ」
 呆れた声は、すぐ上から降ってきた。
「アンゼ、もしかして不注意なんじゃないか。前にも木から落ちてた」
 重なった布の中に低い声がこもる。その声はわんわんとアンゼリカの鼓膜を震わせるくせに、肝心の意味が頭に届かない。目の前の足だけを見つめたまま、アンゼリカは呼吸を止めていた。
 シーツが微かに揺れる。頭がこつりと叩かれた。
「聞いてないだろ」
「え!? き、聞いてるよ! ごめんなさい、ありがとう」
 アンゼリカはシーツの下から抜け出して、フレイの頭からその一枚を取り上げる。そそくさと踊り場まで引きずってから、今度は注意を払って折りたたんだ。そこで自分を見上げる視線に気付いて、なあに、と拗ねた声を出す。フレイがそっぽを向いた。
「いいや。なんにも」
「慎重になれって言いたいんでしょう、気を付けるってば。まだなにか?」
「それでいいって。シーツ貸して、俺が運ぶから」
 残った一枚を乱暴にたたんで、フレイが不満そうに唇をとがらせている。
 仕事を取られるのは嫌なのだろう。悟り、アンゼリカは素直にシーツを返す。二枚の布を抱え直したフレイは、一度のため息のあとにひょいひょいと階段を上っていった。
 それを見送って、アンゼリカは小さくくしゃみをする。見ればむき出しの腕には鳥肌が立っていた。階段から転がりかけたとき、自分を受け止めたフレイの腕がそこに触れたことを自覚して、ああ、と彼の仏頂面の理由を悟る。
(……薄着すぎたかな)
 体の線が見て取れるような服装を着たのは久しぶりだ。アンゼリカの身を包む半袖の部屋着は、彼女の記憶よりこころなしか小さくなっていた。
 ルゥが遊びに来るというのであれば、そんな格好で迎えるわけにもいかないだろう。友達を引き連れてというならばなおさらだ。
 いつからか耳に残っていた熱をふり払い、アンゼリカは自室へと潜り込む。鏡に映した体つきはあいも変わらず貧相だ。背中にはまっさらな肌が広がっているのみで、羽の一つも見当たらない。
 けれども、もう、鏡に語りかける必要はなくなっていた。
「おねえちゃーん!」
 外からかかった声に、アンゼリカは小さく笑って上着をかぶる。窓の外には手を振るルゥと、指先を組み合わせる少女の姿があった。彼女たちに手を振り返して、上ったばかりの階段を下りる。上機嫌の足は自然とリズムを刻んだ。
 ――アンゼリカ。
 呼び声が胸を支えるから、もう寂しさに潰されることもない。

「いらっしゃい、ルゥ」

 二人の天使を出迎えに、アンゼリカは扉を開く。
 耳元で、りいん、と風の音が響いた。





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