「え……?」
耳を疑ったのはアンゼリカのみではない。そばに立つキーファも、感情のこもらない目で机に向かっていた管理官たちも、いっせいに顔を上げて音の主を探した。
「風鳴り」
誰かが呟いた。鳴りやまない風の歌は、どこか悲痛な色を伴って施設に反響する。幾枚もの書類が浮かび上がり、アンゼリカの髪はひらりと舞った。
軽く、踊るように、風を呼び、硝子の壁さえもすり抜けて、先へ。
――そうして、呼んでいた。
産まれたばかりの赤ん坊のように、親を見失った子供のように、ただ懸命に叫んでいた。ひとりにしないでと泣いていた。言葉を失ったアンゼリカの声まで、まるごとさらって。
「フレイ……」
だから、歌ったのは、彼以外にはありえなかった。
保護区域の空を、二つの影がよぎる。翼をひらめかせて庭園に舞い降りると、その男女は息を切らせながら歩き回る。
赤い髪を結んだ女性と、すらりとした骨格の男性と。ふたりは必死に誰かを呼んでいる。唇の形をなぞって、アンゼリカは首を振った。
「ここ、」
全身の力を込めて、硝子を殴りつける。管理官たちがぎょっと目を剥いた。
「ここに、いる、……ここに!」
アンゼリカの叫びが届いたはずもなかった。しかし硝子の振動は、その向こうに立つ誰かの存在を伝えたのだろう。女性はおぼつかない足取りで地を踏んで、壁際にまで歩み寄る。
――アンゼリカ?
唇が呼んだ、名前。
声が聞こえなくとも、それがアンゼリカのすべてだった。
壁越しにてのひらを重ねて、それに抱かれた日のことを思う。温もりさえも忘れてしまった過去のことを。薄れかけていた両親の輪郭は、確かな形を取ってアンゼリカの網膜に焼きつけられた。
「お母さん、お父さん」
会いたかった。なにを伝えられなくとも、ただ、ここに生きていると。片時もふたりのことを忘れたことはなかったと――そして。
「ありがとう」
届け、と、硝子を叩いた。
女性の腕がぴくりと震える。驚きに染まっていた表情は、見る見るうちに歪んでいった。彼女は硝子に身を投げ出し、縋りつくように腕をかける。アンゼリカ、アンゼリカ、と、音を伴わない唇がくり返し呼んでいた。
「アンゼリカ・ローデン!」
怒声が響いたのはそのときだ。今しがたアンゼリカらが開いてきたばかりの扉から、警備員たちがなだれ込む。彼らは瞬く間にアンゼリカを抑えつけると、軽々と硝子から引き剥がした。
「い……嫌っ、お母さん、お父さん!」
「離れろ市民、ここはお前が入っていい場所ではない!」
問答は意味を為さなかった。アンゼリカの細腕はあっけなく取り上げられ、二人がかりで引きずられていく。
呼びかけに振動が返らないことに気付いたのだろう、女性ははっと目の色を変える。力の限りに壁を殴りつけたのち、決死の表情でその向こうを睨みつけた。
きいん、と、苛むような叫びが鳴りわたる。
風鳴りの音は部屋に残った全ての者の耳を貫いた。続き巻き起こった風が、並んだ書類の束を空中へと払いあげる。強風は次第に勢いを増し、その場に立つ全員をなぎ倒していった。
声が声を呼ぶ。一人の母親が歌った風鳴りが、翼人たちの翼を震わせる。輪唱する風に包まれたのは施設だけではない。廊下を走り、扉を抜けて、かれらの呼び声が街並みへと伝わってゆく。
閉ざされた鳥籠の都市に、その日、風が吹いた。
*
「ねえアンちゃん、風が吹いてるよ」
ちい、と鳴いた金糸雀が、大きく翼をはためかせる。黄金色の瞬きを目に捉えながら、ルゥは開け放った窓の外に思いを傾けていた。
空に浮かぶのは作りものの星々だ。色とりどりのそれを割ったなら、きっとこんな音がするのだろう。鼓膜を震わせる音色は、今やフォルドハイトじゅうを包み込んでいた。
路上に立ち止まった女性が、不思議そうに夜空を見上げる。ルゥはそれを見てくすりと笑った。
「アンちゃんも、ルゥも、聴いたことがあるもんね」
あれは心の歌だ。たったひとりを呼ぶための歌。
夕暮れの日、ちらりと覗き見た青年の顔を思い出す。あのとき彼は、一体誰を呼んでいたのだろう。――そして今、誰を呼んでいるのだろう。泣き声にも讃美歌にも聞こえる風の音に、ルゥはただ耳を澄ましていた。
「お姉ちゃんとお兄ちゃんが、大好きなひとに会えるといいね……」
そうしたらまた、ルゥと遊んでくれるはずだから。
窓から入り込んだ風に願いをかける。ひとりぼっちの家で、ルゥは両親の帰りを待っていた。