よくよく見れば、キーファのくせ毛はルゥのそれと同じものだった。アンゼリカは服の袖を握って思案する。
「引き渡すつもりがない、ってどういうことですか。外へ連れ出されるだけなら従うことはできません」
 罰を逃れるために部屋を飛び出したわけではないのだ。挑むようにキーファの顔を仰ぐと、彼は不思議そうに目をしばたかせた。
「保護区域を目指していたのだろう。私はそれに手を貸そうと言っているつもりなのだが」
「連れて行ってくれるんですか? でも」
「なに、ただの恩返しだ。この言っても足りなければ」写真を元の通りにしまい直し、キーファは瞳を和らげる。「きみがまたあの子と遊んでやってくれるなら、それで十分だ。私も妻も家を空けがちで、ルゥを一人にしてしまうことが多くてな。あの子には寂しい思いをさせてしまっていた」
 そんな彼女が、嬉しそうに一日の冒険を語ったのだ、という。
 アンゼリカお姉ちゃんとフレイお兄ちゃん――心配でたまらなかったルゥを勇気づけたという二人の話が、まるで別人の物語のよう伝えられる。フレイの正体こそ約束通り伏せられてはいたものの、それも彼には悟られていたのだろう。キーファは寂しげに笑い、首を振る。
「金糸雀でも、きみでも。誰でもいい。ルゥの傍にいてやってほしい。私たちの代わりに」
「……代わりなんかいません。どこにも」
 思わず口にしてしまってから、恥じ入るように目を逸らした。
 誰かが付き添っていたとしても、きっとアンゼリカはひとりだった。アンゼリカの両親に育てられながら、孤独ばかりを抱えていたフレイと同じように。
「ルゥと友達になることは、構いません。あの子と一緒にいることだって。でも、本当にルゥを寂しさから救ってあげられるのは、あなたたちしかいない……と、思います。だから」
 いくらかの沈黙に耐えきれず、アンゼリカは唇の裏側をかむ。その頭にてのひらが載せられたのは、キーファが小さく笑んだときだった。
「違いない。……きみも、そうだったんだな」
 落ち着かせるように二度頭を叩いてから、キーファは廊下を踏んだ。
 彼の先導に従ううちに、空気には微かに薬剤の臭いがにじみ出す。指示のもとで靴を脱ぎ、消毒液に手足を浸した。定期的な清掃と殺菌が行われているのだろう、ひとつ扉を抜けてからは、廊下には塵のひとつも見つからない。
 歩きながら、キーファはふたつ確認を取った。
 ひとつ、アンゼリカを保護区域の中に入れることはできない、ということ。細菌を持ちこむ可能性を鑑みれば当然のことだった。翼人と直接会話ができるのは、完全な消毒を行った管理官のみだ。
「もうひとつは――」
 そこで人影が近づいてくるのに気がついて、キーファは眉をぴくりと跳ね上げる。そうしてアンゼリカに囁いた。
「――なにがあっても、私に話を合わせることだ」
「オルコット管理官! こんなところにいたのか。中は大騒ぎだぞ……うん?」
 男もまた、キーファ同様に翼人管理官の制服を身に着けていた。アンゼリカに目をやり「そちらは」と問う。
「知人の娘さんだ。管理官の仕事に興味があるというので同行させている」
「許可は下りているのか」
「もちろん」
 知らず掌を握りこんだアンゼリカだったが、キーファの返答にはそつがない。男はもう一度疑いの目をアンゼリカに向けたものの、それ以上の追求はしなかった。
「施設から保護区域を目指している子供がいるらしい。警備員が捜索にあたっているが、まだ捕まっていないとのことだ。出入り口には鍵をかけたから、入り込むようなことはないだろうが」
「翼人たちには伝えたのか」
「まさか。余計なストレスがかかるだろう。……そういうことで、心当たりがあるなら連絡せよとのお達しだ」
「わかった、注意するとしよう」
 会話を切り上げて、キーファは再び廊下を抜ける。その先にそびえた鉄製の大扉に手をかけると、一息に開け放った。
 そこはまるで、昼と夜の境目のようだった。
 照明の落とされた大部屋は、扇形の軸を切り取ったかのような歪な形をしている。扉の真向かいには、厚い硝子越しに別世界が広がっていた。等間隔に植えられた木々、咲き乱れる花々、とこしえに光の差す幸せの園。その一角の外側から、アンゼリカは楽園――翼人の保護区域を見つめていた。
「……ここは」
「保護区域を囲むように、施設にはいくつか部屋が置かれている。ここは最も低い位置にある観察点だ。人も少ない」
 部屋には数人の管理官が座り、書類や保護区域を眺めているばかりだ。アンゼリカは彼らの視線を気にしつつ、硝子に歩み寄った。
 ぺたり、と硝子に触れる。徐々にてのひらへ伝わってくる熱は、保護区域の暖房がもたらしたものだろう。遠くで転げまわる少年たちの背に翼があるのを眺めて、アンゼリカはほうと息をついた。
(私、あそこにいたんだ)
 分別もつかないころの記憶は曖昧だ。しかしゆるやかに胸を満たすのは、アンゼリカの体に確かに染みついていた郷愁の念だった。かり、と硝子に爪を立てて、アンゼリカは唇を引き結ぶ。
 キーファはアンゼリカを見下ろし、ためらいがちに口を開いた。
「その硝子は特別製だ。外から中を覗くことはできるが、中から外を伺うことはできない。翼人に負担をかけないためのつくりだ」
「……じゃあ」
「保護区域は固く施錠されているだろう。他の部屋に連れて行くことはまだしも、きみが内側に干渉することまでは許してやれない」
 そこが限界だ、と、言葉の裏に線を引かれる。
 指先を握りこんだ。駆けていく子供たちはきゃらきゃらと笑いあっているのに、その声だけは届かない。彼らはアンゼリカが自分たちを見ていることにも気づいていないのだ。
「上の部屋に向かうとしよう。あまり留まっていると警備員に見つかるともしれん」
 アンゼリカは目を細め、ややあって小さくうなずく。
 ――りいん、と、歌声が届いたのはそのときだった。