親のないガネットの手を引いたのは、いくつも年上の翼人ふたりだった。
 彼らの結婚も確かに見届けた。友人同士であったふたりの間に育まれた、どこか甘やかでひりついた空気を、当の本人たちよりも先に感じ取ったのは幼いガネットだ。それとなくそそのかし、背を押して。めでたく結ばれた瞬間の花のような笑顔を、生涯忘れることはないだろうと思った。
 膨れた腹をさすって微笑む母親、それを見守る父親。肖像画のようなひとときを引き裂いたのは、翼人管理官によって保護区域に持ち込まれた細菌だった。
 ――聞けば、管理官は新人だった、という。
 殺菌の徹底が行き届いていなかった。指導官の監督が甘かった。そんな問答の果てに、責任の在りかは曖昧にされていった。
 あとに残されたのは、翼人の夫婦が一組、高熱の果てに命を失ったという事実だけ。
 引き取り手のいなかった子供は、その後孤児院に預けられたという。親から授かった名前を、ただひとつ、愛されたあかしとして握りしめたまま。

「ガネット」
「お願い」
「あの子を、どうかあの子を、お願いね、ガネット」

 死の間際の懇願が、くり返し鼓膜をひっかいては血を流そうとする。
 ガネットが右手にナイフを握ったのは、その日だった。



 腹の上にのしかかった青年を、ガネットはあきれながら見上げていた。
 彼の体調が優れないことは、顔色を眺めるだけでよくよく伝わってくる。引き結んだ唇は青く染まり、あごはがたがたと震えていた。
「ずいぶん無理をしたね」
 ガネットを押さえつける力は赤ん坊のそれも同然だ。容易に振り払えることを知りながらも、ガネットはただ大人しく体を転がしていた。
「翼人にはきつめの量を飲ませたはずだけど。外に出て、いくらか免疫がついたかな」
「……いつまで」
「うん?」
 フレイが目蓋を震わせる。そのさまは親にそっくりだ。唇の裏を噛んだガネットに向け、彼は必死で言葉を紡いだ。
「いつまで、見のがしてくれるんだ」
 声に、ガネットはちらりと壁時計を見やった。
 フレイに風邪薬と称した鎮静剤を投与してから約三十分。最も効果が表れる時間帯だ。意識を保っているのもやっとの状態で、彼はそれでもガネットを睨みつけようとする。
 フレイもまた、気付いているのだ。ガネットがそれを望みさえすれば、今からでもアンゼリカを追いかけて捕獲することさえ容易いということを。
(頃合いだね)
 深く、細く、息をついた。抱えていた毛糸玉を、ころりと手放すように。
 代わりに言い聞かせる。――親代わりでいるのは、もうおしまいだ。
「フレイ、あんたの願いがすべて叶うだなんてことは、この先決してありえない」
 告げる。フレイがごくりと唾を飲むのを、ガネットは確かに視界にとらえていた。
「アンゼリカが親と暮らすことはできないし、あんたがアンゼリカと過ごすことも許されない。……翼を持たずに産まれた子供を、都市が保護区域に連れ戻すことはないんだ。どんなことがあろうとね」
 一字一句を刻みこむように吐き出しながら、ガネットはフレイの表情を見すえていた。彼は否定にも眉ひとつ動かさず、無言を貫き続ける。
(聞かん坊が、ずいぶん我慢強くなったものじゃないか)
 ならばアンゼリカという娘に彼を預けたのも、無駄ではなかったのだろう。ひとりでに笑みの形を取ろうとする唇を、ガネットは強いて引き結ぶ。
「だからこそ、あんたは選ばなきゃならない」
 自らに打ち得る、その、最善の一手を、迷うことのないように。
 フレイの背で純白の翼がさざめく。彼自身よりも雄弁にものを語ってきた翼は、けれどもその瞬間、力なく羽先を下ろしてゆくばかりだった。――それが答えだ。ガネットはついに堪えられなくなって、ゆるゆると眉を下げる。寂しさは風のように胸をさらっていった。
「アンゼと一緒にいたいんだ」
 人のことばで、フレイはそう伝えた。
「方法は分かってる。父さんも、母さんも、……ガネットさんも、怒るかもしれないけど」
「知ったふうな顔で語るんじゃないよ」
 後先を考えられるほど、フレイもアンゼリカも大人ではなかった。彼を託された日のガネットもまた。そうして振り切ってきたわがままを受け止めて、背負いこんで、そのとき初めて声が聞こえてくるのだ。
 ――どうか自由に、と。
 いつ何時も自分を許し続けてきた、その声が。
「だから、お願いします。ガネットさん」
 フレイは大儀そうにガネットから離れる。露わにされた背中からは、根を張るようにして一対の翼が伸びていた。ガネットがその付け根に触れると、フレイは硬く身をこわばらせた。
 しばらくの躊躇が挟まれる。「あのさ」と声を発したのはフレイだった。
「俺、ガネットさんなら、母さんって呼べたのかな」
「……冗談でもやめてくれないか、こんなにでかい子供を持つような歳じゃないんだ。そもそも私の子供はもっと賢くてかわいいに決まってる」
「ひっでえ」
 ころころと笑う声に、ガネットの肩から力が抜けていく。翼と翼のあいだに手を乗せて、腰元から引き抜いたものは鉄製のナイフだ。フレイが本能的に身を震わせるのも、意識から追い払った。
「死ぬほど痛いよ。覚悟しな」

     *

 壁に手をついて、アンゼリカは深く息を吐き出した。
 怒声をかいくぐって走り続けてはきたものの、多勢に無勢だ。警備員にはすでに報告が行き届いているのか、どこへ逃げたところで必ず人の影がある。けれども一度あきらめに走ろうとすれば、その瞬間にアンゼリカを叱る声が聞こえるのだった。
(会いに、行かなきゃ……フレイが背中を押してくれたんだもの)
 止まりかけた足を殴って、もう一度走り出す。すぐに追跡の足音が重なった。もっと早くと強いて腿を上げたとき、つま先は曲がり角にからめとられた。
「わっ」
 衝撃を覚悟して、ぎゅっとまぶたを閉じる。しかしアンゼリカの体は柔らかなものに受け止められた。驚いて身を離すと、翼人管理官の制服をまとった男が立っている。
「アンゼリカ・ローデン……きみが?」
 気付けばアンゼリカの腕はしっかりと掴まれていた。
 成人した男の力に抵抗できるはずもない。身を凍りつかせたアンゼリカに、しかし男は敵意を見せることはしなかった。
「心配せずとも、人に引き渡すようなことはしない」
 その声を裏付けるように、彼はすぐさまアンゼリカを施設の一室に放り込む。そのまま閉められた扉越しに、アンゼリカは男と警備員の会話を聞いていた。
「……ええ、少女ならあちらのほうに。保護区域を目指しているのでしょう、最短経路を目指しているのでは?」
「ご協力に感謝します、管理官」
「構いません。くれぐれも保護区域内部には入れないように。よろしくお願いしますよ」
 了解しました、との声を最後に、いくつもの足音は遠ざかっていく。心臓を強く脈打たせていたアンゼリカは、再び扉が開かれると同時、「どうして」と問いかけていた。男はちらとよそを見て、胸ポケットを探り始める。
「きみには多少の恩があって……といってもこの顔に憶えはないだろうが」
 そうして引きだしたのは手帳だ。挟まれた一枚の写真を、男はおもむろに差し出した。中には一人の子供がにっこりと笑って立っている。アンゼリカはそれをまじまじと眺めて、あっと声を上げた。
「ルゥ……それじゃあ」
「私はキーファ・オルコット、この子の父親だ。きみのことは話に聞いている。金糸雀の件、私の口からも、改めて礼を言わせてくれないか」