後ろ手に扉を閉める。アンゼリカの背中で、木の板は叫び声にも似た大音を立てた。
 そうして鍵を閉めてしまえば、ひとりきりの家のできあがりだ。荒れた呼吸に耳を澄ましながら、アンゼリカはずるずるとその場にしゃがみこんだ。
「……間違ってない、あなたは間違ってない、アンゼリカ」
 くり返しそう唱えても、体の震えが止まらなかった。
 目の前の空間はぞっとするほどに静かだ。アンゼリカは膝を抱え込み、腕に顔を埋めて、暗闇のなかへと潜りこむ。それでも足りずに目をつむると、途端に静寂が押し寄せてくる。
 こわい。さみしい。心細い。
 胸を食い破ろうとする言葉たちを、いつからか必死に押しとどめていた。
「私は悪くない。しょうがなかった、どうしようもなかったもの! 私はもう戻れないのに、ここにいるしかないのに、フレイが……!」
 まぶたの裏に浮かび上がる、畏怖の表情。自分とは異なるものに対するそれ。追い払おうとしても消えてくれずに、何度でもアンゼリカを苛み続ける。
 お前は違うと言われるたびに、槍はアンゼリカの胸を刺してきた。
 一度は保護区域を追い出されたときに――そしてもう一度は、人の世界に放り投げられたときに。どこにも居場所をなくしてしまったから、アンゼリカはなりそこないでいるしかなかったのだ。
 それなのにフレイは、フレイが、フレイだけが。
 アンゼリカの脳裏を怨嗟の言葉が埋め尽くす。けれどもそれは言葉にならないまま、嗚咽に変わって口をついた。
「いや、だ」
 こんなに浅ましい自分は嫌だ。それなのに胸はどす黒く染まっていく。
 誰か、とつぶやく。誰かに傍にいてほしい。頭を撫でてくれなくても、抱きしめてくれなくてもいいから、ただ傍に。けほ、と咳をこぼしたとき、アンゼリカの目頭はかっと熱くなった。
(その“誰か”を、追い出したのは私なんだ)
 偉いよと認めてくれたのも、アンゼのおかげだと笑ってくれたのも彼だけだった。いくつもの肯定をもらっても、アンゼリカにはそれを受け取ることさえできなかったのに。
 きり、と奥歯が音を立てる。おそるおそる開いた目には、以前よりずっと明度を落とした居間が広がっていた。
「私」
 どうすればいいんだろう。
 不安に染まった声は、しかし自身の耳にも届かなかった。
 屋根の上、窓の外に、さあ、と水音が広がっていく。アンゼリカはその音にしばらくぽかんとしてしまってから、ようやく今日が定期降水の日であることに思い至った。
 鳥籠の都市フォルドハイトに、外部の雨は届かない。その代わりに都市の整備士たちが人工の雨粒をふるい落とす仕組みが働いていた。下層から上層に至るまで、数時間の降水を行ったあと、ドームの天井には再び晴れ空が広がることとなる。本来ならば、定期降水の数日前にはその通知が配布されるはずだった。
「通知……」
 フレイの介入のおかげで、郵便物を確認するのをすっかり忘れてしまっていた。郵便受けを探ると、確かに都市機関からの降水通知が届いている。
「あれ」
 重ねて入っていた、もう一通の手紙に気付く。封筒にも入れられていない、折りたたまれただけの剥き身の手紙だ。
 業務連絡であれば、定型の白封筒に入れられて送られてくるはずだ。不思議に思って手紙を開く。アンゼリカはそうして一度、思わず顔をしかめた。
「ア……ン、ゼ、へ?」
 字を習い覚えたての子供が書くような文面は、文字というよりもはや模様だ。内容に目を通すのを後回しにして、差し出し人の名前を確かめる。アンゼリカはそこで指先をひきつらせた。
 ――フレイより。
 はらり、と、手紙が滑り落ちる。それを拾い上げることもできなかった。
「……いつ、」
 疑問に急きたてられて、アンゼリカはその場に膝をつく。縋りつくように文字列へと目を走らせた。
 翼人と人間との交渉は禁じられている。フレイが手紙を残すことができたとすれば、アンゼリカと出会って今まで、たった数日の間だけだった。もしかしてと焦る瞳は何度も同じ一列を行き帰りし、アンゼリカの胸を焦らせる。
「フレイ」
 最後に彼の名前へ行きついたとき、アンゼリカは弾かれたようにして家を飛び出した。雨粒が体を叩いても、街路に人の気配がなくても、足は追い立てられるように駆けていく。
 唇がふるりとわなつく。
 大きな勘違いを、していたのだと気付いた。



 ――アンゼへ。

 突然だけど、保護区域に行ってくる。本当なら口で言えればよかったんだけど、用事を思い出したのがついさっきだったから、忘れちゃいけないと思って。アンゼもよく寝ているみたいだから、起こすのもかわいそうだし、手紙にします。
 アンゼの父さんと母さんに、アンゼに会えたことを伝えたいんだ。どうやって暮らしていたか、どんなふうに育っていたか。そのためだけに俺は外へ出たのに、今の今まで忘れそうになってた。アンゼと一緒にいるの、楽しかったんだ。楽しかったんだよ。それが、ちょっと悔しい。
 アンゼは勘違いをしていたんだ、あのふたりはいつだってアンゼのことを話していたし、棚にはずっと赤ん坊のころのアンゼの写真があった。子供のことを忘れた日なんて一度もなかった。ふたりの中にはずっとアンゼの名前があって、俺じゃ代わりになれなかったんだ。
 羨ましくてたまらなかった。だから見てやろうって。アンゼがどんな奴か確かめて、俺が認められるような相手だったら、ふたりと繋げてやろうって思ったんだ。それが恩返しになるなら、十分な理由だろ。
 でもアンゼ。お前は、俺が考えていたよりも、ずっと怖がりで、泣き虫だった。その代わりにずっと優しくて、あったかかったんだ。あのふたりのこどもなんだって思った。思い知らされたんだよ。ずるいよな。こんなのってない。これだからいつまでも、ふたりのこと、父さんとも母さんとも呼べないんだ。
 そろそろ朝になるので、家を出ようと思う。ふたりに会ったらすぐに戻ってくるから。
 だからまた、アンゼと一緒に、ご飯が食べたいです。

 フレイより。