都市の天球から、雨粒を模した水滴が降り落ちる。その気化熱で気温は低下し、アンゼリカの体温もまたじりじりと奪われていた。
走りながら、街並みを見回す。定期降水の日に外に出るようなもの好きはいない。夜が近いともなればなおのことだ。ぽつぽつと続く街灯の光は、人工の雨をわびしげに照らしだしている。
アンゼリカはついに足を止め、小さく身を震わせた。
「なにやってるんだろう、私」
うつむくアンゼリカの首筋を、生ぬるいしずくが伝っていった。
フレイを口汚く罵ったことへの自覚はある。あのとき、それまで受けてきた痛みをそのまま押し付けようとするかのように、アンゼリカは彼との繋がりそのものを否定したのだ。それだけのことをしておきながら、彼を探して、今さらどうしようと言うのだろう。
考え、その無意味さに気付いて、冷えきった笑いをこぼした。
「……見つかるはずないのに」
フレイには帰る場所がある。傷つけば逃げ込むことのできる家、迎える者のいる家が。それはアンゼリカが、どんなに願っても踏み入ることのできない場所だった。
――本当にそこに留まっていたいのは。
鼓膜の内側で、ガネットの問いかけは何度も反響する。
(わかってる、そんなことわかってた。……私は、なりそこないでいたかったんだ)
喉元がひくりと震えて、鼻の奥がつんとした。それに耐えようと、アンゼリカは奥歯を食いしばる。
手紙を送ることさえ許されない両親、長い長い離別の時間。ふたりはもう、自分のことなんて忘れてしまっているのかもしれない――忍びよったそんな不安は、いつからかゆるやかにアンゼリカの首を絞めつけていた。
(だって楽だった。翼がなかったからいけなかったんだって、私のせいなんかじゃないって、そう思っていれば楽だったから)
本当は認めてほしかった。
翼がなくても、翼人でなくても。あなたはたったひとりの天使だ――と。
ただそれだけでよかったのに。
アンゼリカの視界は、いつからか透明に歪んでいた。まなじりで雨と涙が混じり、曖昧になってこぼれてゆく。まばたきの狭間でようやく移ろい始めた世界に、ふいに純白がよぎった。
みどり、黒、そして白。視界を埋めつくす光の粒が形を取り始めたとき、アンゼリカは大樹の葉の陰に、求める相手の背中を見つけ出した。
「フレイ」
よろよろと近付いて、呼ばう。濡れそぼった頭はアンゼリカを振り向き、翡翠の目がまんまるに見開かれた。
「アンゼ?」
梢に座った青年は、いくらか迷いをみせた後にふわりと舞い降りる。天使みたいだ、と、アンゼは唇だけで呟いていた。その羨望を隠すことも、もうしない。
「ごめんなさい」
深く、深く腰を折って、きつくまぶたをつむった。
「私、フレイが羨ましかったの。お父さんとお母さんに引き取られて、育てられて……私の居場所に居座ったフレイが、羨ましくて仕方がなかった。けど同じぐらいに、フレイがいなくなるのが寂しくて。身勝手だって分かってるのに」
吐息は嗚咽の形をとって、アンゼリカの唇を滑り落ちた。
自分の汚さに直面するのが嫌だった。それでも訪れる空白には耐えられなかった。私を見ないでと泣きながら、置いていかないでと袖を掴んでいる――そんな、どうしようもない自分に気付いてしまう。
「アンゼ」
呼ぶ声に頭を上げる。大樹の根元に座り込み、フレイは叱られた子供のような顔で唇を結んでいた。
「一緒だよ」
言葉に続き、フレイの表情がくしゃりと歪んだ。
「俺だって一緒だ」
りいん、と風が鳴る。言葉にならない心を、代わりに伝えようとするかのように。
青年が翼をはためかせたのは無意識のことだったのだろう。束の間だけ木の葉が揺れて、雨のしずくが降り落とされた。フレイは膝元のショールを抱きかかえ、その雨粒からかばおうとする。
布の間にちらりとのぞいたのは、湿った紙きれだった。
「それ……」
「手紙。……アンゼの父さんと母さんから」
幼子を見つめるかのように、フレイの瞳がやわらかく細められる。
「本当は渡したくなかった。でも捨てることもできなかったんだ。アンゼのことも、ふたりのことも、裏切れなかった。ずるいんだよ。俺も、アンゼも、あの人たちも。……だからいいんだ」
髪筋からしずくを落として、フレイはかぶりを振る。
「身勝手でもいい。羨ましがって、欲しがったっていいんだ。ひとりでいるのが寂しいなんて、当たり前のことなんだから」
ぽとりぽとりとこぼれる言葉に、心の隙間が埋められる。誰も同じなのだと笑う、その微笑みが、凍えていた胸ごと温めていった。
アンゼリカは言葉を吐き出そうとして、けれどもそれも叶わず、力なく口を閉じる。おもむろに石畳に膝をつけば、ぱしゃりと水が跳ねた。
「……アンゼ?」
フレイの首に腕をまわして、縋りつくように身を寄せる。掠れた呼び声はアンゼリカの耳をくすぐった。
「ごめんね」
言って、一度鼻をすする。
「馬鹿だなんて……大嫌いだなんて言ってごめんなさい。フレイが怒ってくれたの、本当はすごく、うれしかったの」
だから。
「――ありがとう」
胸がふわりと軽くなった気がして、アンゼリカは深く息をついた。フレイのてのひらが、探るようにその背中に触れる。一度、二度、なだめるようにそこを撫でたあと、よかった、とフレイは呟いた。
ひたり、と水滴がアンゼリカの頭を打って、雨は終わりを告げる。名残を惜しむかのような水音があちらこちらで響いていた。
代わりに空はとうとう暗色に塗り替えられ、都市に夜を運んでくる。星を模した光が瞬きだしたのを見上げて、アンゼリカははたとした。
「フ、フレイ。あの、そろそろ」
服はじっとりと肌に張り付いたままだ。気温が下がって風邪をひくのも恐ろしいけれど、今はそれよりも気にかけるべきことがある。返事がないことにおののきながら、アンゼリカはおそるおそる手を放した。
すると、糸を切ったかのように、フレイの体が傾く。
「え」
虚を突かれては踏ん張りようもない。そのまま後ろにひっくり返って、アンゼリカは身をすくめた。
「え、えっ、ああああああの、フレイっ」
既視感のある態勢だった。しかし今度は状況が状況だ。アンゼリカはぱくぱくと口を開閉させてしばらく、彼を押しのけることも忘れていた。あの、ちょっと、と言葉にならない声をいくつか漏らしてから、頭上の青年がぴくりとも動かないことに気付いて眉を寄せる。
「……フレイ? どうしたの、ねえ」
身をよじってフレイの下から抜け出すと、彼の体は支えのないままに転がった。
そうしてようやく気付く。青年のまぶたは固く閉じられ、胸はせわしなく上下している。我に返ったアンゼリカはフレイの額に触れ、思わず指先を跳ね上げた。
(ひどい熱……ずっと雨の中にいたから)
――私のせいで。罪悪感に押しつぶされそうになる胸を叱咤する。
(謝るのはあと、後悔するのもあと。早く連れて帰らなきゃ……!)
アンゼリカは軽い体を支え、引きずるようにして歩きだす。けれどもその歩みが十を数えたころ、ひときわ高く鳴りわたった靴音が、アンゼリカの足を止めた。
「家に帰るのは、少し待ってもらおうか」
黒髪を雨に濡らし、行く手を阻むように立って、ガネットはアンゼリカの目の前から動こうとしない。翡翠の瞳は月に照らされ、どことなく悲しげに光っていた。
「ガネットさん……? どうして」
急いで看病を、と訴えようとするも、アンゼリカの胸がそれを制止する。ガネットは首を振った。
「すまない、“市民”。きみの役目はここまでだ」
「なにを言ってるんですか! 早くしないと、フレイが」
アンゼリカはそこで言葉を切る。翼人管理官の制服を纏った人々が、音もなく二人を取り囲んでいるのだ。無言の威圧感は幼いころに感じたそれと同じで、アンゼリカを委縮させる。
しかしガネットはアンゼリカの怯えに気をやることもしない。一歩を進み出ると、まっすぐに背筋を伸ばして告げた。
「フレイを返してもらおう。観察実験は終わりだ。……やはり翼人は、保護区域の外に出るべきではなかった」