翼人だ、どうしてこんなところに、管理官はなにをして――囁き合いはやがて大きな波になり、アンゼリカの耳にも届いてくる。飛び火はちらちらとアンゼリカの鼓膜をひっかいた。
 ――ほら、あの子。保護区域から出てきたっていう。
 ――補助金で高層に住んでいるんでしょう、私たちとは違うわけよね。
(……そんなの、私のせいじゃないのに)
 つきりと痛んだ自分の胸を撫でてやることも、アンゼリカにはできなかった。代わりに歯を食いしばって耐える。なにも聞かなかったふりをする。
 けれど。
「なりそこないのくせに」
 それは、硝子細工を叩き壊すような一言だった。
 アンゼリカの視界は真っ白に染まり、ささめきも耳に入ってこなくなる。ふいの立ちくらみを起こしたように、全身の力が抜けていく。
 直後にぞわりと沸き上がったのは、怒りとも恨みとも知れない、どす黒い感情だった。
(やだ、……嫌、やめて)
 自分ひとりが世界から切り離されたような感覚に、アンゼリカはふらりと首を振る。
 誰も嫌いたくない。嫌ってしまったら、今度こそ自分はどこにもいられなくなってしまうから。アンゼリカは口を開閉させてごまかすための言葉を探る。今まで通り、いつも通りに、なにごともなく、平穏に、収められるように。
「――誰だ」
 しかし組み上げた安寧は簡単に崩れ落ちる。アンゼリカの思考を凍らせたのは、翼人の青年だった。
「今の。言った奴、出てこい」
 地を這うような声がフレイの口から吐き出される。
 知らない、とアンゼリカは唇を震わせていた。――知らない。怒気を孕んだ声も、憎悪を灯した翡翠の瞳も、アンゼリカの知るフレイのものではない。
 人だかりはまるごと息を止め、誰一人として言葉を発そうとはしなかった。フレイが一歩を踏み出すと、幾人かの女性が後ずさる。フレイから苛立ちの気配が漏れた。
「謝れ、謝れよ! なりそこないなんて、いったい何様のつもりで……!」
「やめて、」
 頭に血が上っているのだろう、フレイはアンゼリカの弱々しい制止に気付かない。彼の大声は人々を怯えさせるばかりで、雑言の主が名乗りを上げるはずもなかった。
 フレイへ向けられていた眼差しは、やがてアンゼリカにも同じように向けられる。彼らの瞳が声高に訴えるのは、異質な存在への恐怖心だ。
 ふらりと見渡した人々の間に、アンゼリカは見覚えのある顔を見つけ出した。金糸雀を探し歩いた夕方、助けを求めて声をかけた相手だった。アンゼリカの名前を知りながら、それでも協力を申し出てくれた女性だ。
 目が合う。しかし彼女はアンゼリカの視線に気付いて、そのまま目を逸らしていった。
(……あ)
 胸の穴を、風がすりぬけていったような気がした。
「おい、謝れって――」
「やめて」
 フレイの言葉を遮る。強い口調に、彼はようやく口を止めた。
 アンゼリカは迷わず歩み出ると、人々に向かって腰を折る。彼らの顔のどれひとつとして、正面から見つめることができなかった。
「みなさん、不快な思いをさせてしまってすみませんでした。彼にもよく言っておきます、今日のところは、これで許していただけませんか」
「アンゼ」
「フレイは黙ってて。……翼人が外へ出ることも、ちゃんと管理官の方に許可をいただいているんです。ですから問題はなくて……なにも、見なかったことに。お願いします」
 アンゼリカは一度顔を上げ、再び、より深く頭を下げた。足りなければ地面に額をすりつけるつもりだったけれど、幸い見物人は逃げるようにして人ごみを崩していく。紛れていった女性の背中を見送る間も、アンゼリカの胸は刺されるように痛みを叫んでいた。
「アンゼ」
 呼びかけに振り返る。フレイの神妙な表情が、アンゼリカを待ち構えていた。
「なんで止めたんだ。あいつらアンゼを馬鹿にしたんだぞ」
「あんなこと頼んでない!」
 反射的に叫んだ。肩を跳ね上げたフレイを、アンゼリカはきつく睨みつける。
「あの人たちに謝らせてどうするの、それで私の気が晴れるの? 無理やりに聞きだした言葉で? 謝らせたそのあとは? これから私はどんな思いで仕事をすればいいって言うの?」
 自分の意思で働くことを選んで、ようやく見つけ出した居場所だった。補償金で暮らすアンゼリカに向けられた、白い目にも耐えてきたのだ。どんなに陰口を叩かれても、皮肉を投げかけられても、言葉を飲みこんできたのに――数分足らずの怒声で、その我慢も泡と消えてしまった。
「怒鳴りつけて、人を怖がらせて! あんなのただの恐喝じゃない。馬鹿よ、フレイの馬鹿! あとのことも考えられないの!?」
 アンゼリカの視界に、ちらちらと白い翼が映る。光を集めたかのような色、愛されるに足る純白、自分には与えられなかった翼が。
 見ていられなくて目をつむった。真っ暗になった世界には、もうフレイの顔も映らない。
(だったら)
 心も痛まない。ふんぎりもつく。
 もういい、と思った。
「大嫌い、……大嫌い、フレイなんか。家になんか入れなきゃよかった。こうなることぐらい分かってたのに」
 翼も。翼人という名前も。保護区域も。両親の愛も。
 アンゼリカが手に入れられなかったものをすべて持っている相手だった。それでも一緒に暮らしてゆけるだなんて、甘い夢物語でしかなかったのだ。
「もう帰ってこないで」
 両手で顔を覆って、声の棘だけを投げつけた。
「……もう、私の家に入らないで。私の前に現れないで!」
 踵を返し、逃げるように公園を出る。
 最後までフレイの返事はない。追ってくる足音も聞こえないままだった。