「あっちを向いてろ、って」
きょとんとするアンゼリカに対し、フレイは「あー」「うーん」と言葉にならないうめき声を発する。そうして所在なさげに目をしばたかせた。
「あんまり見られたくないんだ。……その、ちょっと恥ずかしいからさ」
「恥ずかしい? どうして」
「いいから、ほら。早く」
フレイが語気を荒くしたとき、何処からかからんころんと鐘の音が届く。帰宅を急かし外出を諌める時告げの鐘だ。それはフォルドハイトに間もなく夜が訪れることを報せるものだった。
ルゥが素直に背を向けるので、アンゼリカも渋々体を反転させる。フレイがあからさまに息をついた。
「お願いだから、こっちを見ないでくれよ」
渋るフレイに、アンゼリカがしつこいなと言い返そうとしたとき――りん、と響く音があった。
(鈴……じゃ、ない?)
けれども小さな塊を、掌の上で転がすような旋律だった。
耳鳴りのよう、ヴァイオリンのよう、それでいて硝子の割れる音にも似た音が世界を包む。まるで、天から降り注ぎ、風に乗って飛びまわるかのような音楽。鼓膜をくすぐる光の響きだった。
それにつられるかのようにスカートをなぶり、内から膨らませる力があることに気付いて、アンゼリカは息を飲む。
風だ。
外界から遮断されたはずのフォルドハイトに、風が吹いている。
(どうして)
耳に潜りこむ音色の理由をたぐり、アンゼリカは思わず振り返る。そうして言葉を失った。
翼が、歌っている。
フレイの背を隠した翼は、羽の一枚一枚を波のように震わせていた。さざめき、揺れて、天上の歌を紡ぎ出す。夕日に見まごうような都市の照明はその翼を照らし、茜色に輝かせている。
夜へと塗り替えられようとする都市の天井に、金色の翼がきらめいた。花に誘われる蝶のように高度を落とし、小さな金糸雀はフレイのもとへと舞い降りる。彼の差し出した指先に足を乗せ、ちい、と鳴いた。
「よしよし、いい子だな……って、うわ」
背を向けていたフレイが、アンゼリカを振り返る。自分をまじまじと見つめる少女の姿を見るなり凍りついた。
「み……見る、なって、言って」
フレイは口をぱくぱくと開閉させたあと、かっと顔を赤く染める。ぎょっとしたのはアンゼリカだった。
「えっ、い、今のが? 恥ずかしいの? 嘘」
「こっち向くなって。あれだけ」
「だって、ぜんぜん……っ、あんなに、綺麗だったのに!」
薄明を帯びた翼も、風を呼ぶかのような音色も、みな、ただただ美しいと感じていたのだ。浅ましい嫉妬や羨望さえアンゼリカの頭からかき消してしまうほどに。
けれどもフレイはいたたまれないというように顔を背ける。アンゼリカの言葉がそれを煽ったのは明白だった。戸惑って視線を左右させたアンゼリカの横を、ルゥがするりとすり抜ける。
「アンちゃん」
「あ、ああ、そうだった」
ルゥの開いた籠の中に、フレイは指先の金糸雀を離す。止まり木に足を落ち着けて、金色の塊が身を震わせた。
籠の蓋を閉じ、ルゥはへたりとその場に座り込む。そうして膝上の籠を、生涯の宝物であるかのように抱きしめた。
「よかった、……よかった」
小刻みに震える彼女の指先に、アンゼリカはそっと自分の掌を重ねる。ルゥが顔を跳ね上げた。
「ありがとう、おねえちゃん」
「……わ、私はなにも」
縋るようにフレイを仰いだアンゼリカに、彼はゆるく首を振って見せる。
「俺は手伝っただけ。アンゼのおかげだ。な、ルゥ」
「おにいちゃんも。ありがとう」
「どういたしまして。アンちゃんが素直な奴でよかったよ。……あ、約束。今日のことは」
「秘密! でしょう? だいじょうぶ、お母さんにも言わないよ」
フレイがいたずらっぽく笑うと、ルゥは同じように唇の端を釣り上げる。ぴょこんと飛び跳ねるように立ち上がった。何度も頭を下げ、礼を言いながら走り去っていく少女を、ふたりは手を振って見送る。
その影まで見えなくなってから、どちらともなく互いを振り返った。しかししばらく目を合わせたあと、無言のままで顔を逸らす。アンゼリカはごめんなさいと早口に告げた。
「フレイが、そんなに嫌がるなんて思わなかったの。……透き通っていて、綺麗、だったから。風を感じたのも初めてで。それで」
「アンゼ、もういい」
でもと言い縋ろうとして気付く。フレイが一直線に唇を結んでいるのだ。耳の先には赤みがさしており、指は服の裾をきつく握りしめている。
「嫌がったわけじゃないんだ。……でも、蒸し返されると、やっぱり恥ずかしい。もうちょっと落ち着いたら理由を話すから、今日は、その」
「触れない方がいい?」
「……うん」
おねしょを見つかった子供のような表情だった。アンゼリカも次第に申し訳なくなって、そっか、とうなずいて彼から顔を背ける。それでも気まずさに耐えきれず、こっそりと首を振った。
そうしているうちに気恥ずかしさがうつったのかもしれない。耳の裏側が熱くなったように感じて、アンゼリカは唇を噛んでいた。
(だって、あんなの、はじめて見たから)
まるで、絵画に降りたった天使のような姿だったのだ。その佇まいを反芻しようとするたびに、しかしアンゼリカの眼裏には、頬を真っ赤に染めた青年の顔ばかりが思い浮かんでくる。
(あれ)
アンゼリカは躍起になって、脳裏の光景を打ち消そうとする。けれどもそれは一向に消えてくれないのだ。――おかしい、と思う。能天気そうな表情が、たまたま一度、違う色を浮かべただけのことだというのに。
「アンゼ?」
先に数歩を行っていたフレイがアンゼリカを振り返った。それだけでアンゼリカはびくりと肩を震わせて、彼に首を傾げさせてしまう。
「どうしたんだ。帰らないのか」
「えっ、うん、帰る……帰るよ」
まばたきの間に見え隠れする翡翠の瞳、アンゼ、と呼ぶ声のやわらかさ。今まで気にも留めなかったそれらが、情報の洪水となってアンゼリカに流れ込んでくる。
アンゼリカは心臓の音を誤魔化すように、強く地面を踏んでいた。フレイが恥ずかしがる理由に納得がいったなら、また心穏やかに暮らせるようになるはずだ、と自分に言い聞かせて。
――けれどもその翌日。早起きの家主が目を覚ましたとき。
翼人の青年の姿は、その家から跡形もなく消えてしまっていた。