三章
わけがわからない。
ひとりごちて、アンゼリカは苛立ち紛れに包丁をふるう。
(なんのために保護区域を出てきたの。私を捜していたって、結局なんだったの)
説明も置き手紙もないまま姿を消してそれきりだ。昼を過ぎてもフレイは戻ってこない。一度は彼の荷物を探したけれど、彼はそもそも身一つでアンゼリカの家に転がり込んできたのだった。
「なに、が、理由を話すから、よ……!」
まな板を叩く包丁は、すでに野菜を細切れにしてしまっている。葉物の断片が天高く跳び上がったところで、アンゼリカはようやく手を止めた。
途端に静まり返る部屋が寒々しい。これが一日前であったなら、子供のような青年がひょっこりと顔を出しているところだというのに。
包丁の柄に力を込めて、抜いて、結局手から離す。サラダにするはずだったものの残骸を、仕方なくフライパンに放りこんだ。あれこれの調味料で誤魔化しながら、かろうじて料理と呼べるものに仕立て上げていく。
火を止めて、ぽつり。
「ばかみたい」
呟いた。
なんのことはない、アンゼリカはたった数日前の生活を取り返しただけだった。一人分の食事を作り、仕事に向かって、冷えた家に戻ってくるだけのそれを。
味気がないだなんて、一度だって考えたこともなかったのに。
「ああ、もう!」
叫び、調理台を殴りつける。染み込んでくる静寂を、アンゼリカはぶんぶんと首を振って追い払った。
すぐに慣れを取り戻さなければいけない。やっとのことでいつも通りの生活が帰ってきたのだから。鼻息荒く居間まで盆を運んだところで、扉を叩く音があった。続いて聞こえてきたのは女性の声だ。
「アンゼリカ。いるかな」
「……ガネットさん?」
急いで訪問者を招き入れる。ガネットはいつかの作業服とはまるで趣の違う、さっぱりとした私服に身を包んでいた。細身のズボンと簡素なシャツが彼女の健康的な色気を引きたてる。しばらく見とれてしまってから、アンゼリカは目をしばたかせた。
「申し訳ないんですけど、フレイならここにはいませんよ」
「ああ、知っている。保護区域に来ているんだろう?」
こともなげに答えたガネットに、アンゼリカはえっと声を上げる。
「どうして」
「どうしてって、私たちも特に行き来は禁止していないし」そこで言葉を止めて、ガネットは眉を寄せた。「まさか、あいつ、きみになにも言ってこなかったのか」
アンゼリカの無言に、ガネットは深いため息をつく。
「まったくフレイときたら。すまない、心労をかけるね。……上がらせてもらっても? 今日はきみに訊きたいことがあるんだ」
「少ししたら家を空けるので、それまででよければ」
「時間は取らせないよ」
手早くガネットに茶を出して、アンゼリカはその向かいで昼食を摂ることにする。
制服を脱いでこそいるものの、ガネットが仕事の一環でアンゼリカの家を訪れたことには変わりがないようだった。荷物から書類を引き出して、筆記具で何ごとか書きつける。
片手間に「そういえば」と顔を挙げた。
「聞いたよ。フレイに風鳴りをさせたそうじゃないか」
「……風鳴り?」
「憶えがないかい。翼人たちが翼を使って音を出す行為を、私たちはそう呼んでいるんだけど」
まぶたの裏に夕景が浮かび上がる。ああ、と声を上げて、アンゼリカは頷いた。
「フレイ、すごく恥ずかしがっていて……あれって、そんなに見られたくないものなんですか」
「昔はそういうわけでもなかったんだよ。言葉を生み出していなかった翼人にとって、風鳴りは単に意志伝達の手段だった。鳥の鳴き声に近いものとも言われていてね」
金糸雀が呼び出されたのもそういうわけだ。食事を口に運びながら、アンゼリカは相槌を打つ。ガネットは瞳にもて遊ぶような色を見せた。
「でも今じゃあ、それも限られた用途にしか使われない。口に出すことをためらうような想いを伝えるためのものになったんだ。たとえば……そう、求愛行為だとか」
「きゅ……げほっ」
むせ込んだアンゼリカを、ガネットはけらけらと笑う。
「面白いだろう? 私は翼人のそういうところが好きだね。まるで本物の鳥のようじゃないか」
「面白いって……」
今になって後悔に襲われる。翼人にとって、風鳴りはむき出しの感情を表に出す行為なのだ。だとすれば、あのときアンゼリカが彼を振り返ったのは、他人あての恋文をのぞき見るも同然のことだったのだろう。
何とはなしに申し訳ない気持ちになって、アンゼリカは唇を結ぶ。それを句点として、ガネットは筆記具で机を叩いた。
「さて、本題だ。フレイの様子はどうだったかな。昨日の時点で構わないから教えてほしい」
「様子? いつもどおり元気でしたけど」
「それは何よりだ。風邪をひいている気配もなかったかい」
「はい。……フレイ、体が悪いんですか?」
ペンを動かしてから、ガネットはそうだねと首肯する。
「べつにフレイに限ったことじゃない、翼人そのものが総じて虚弱なんだ。体力もない、知能も人間に劣る、それに加えて鉄と菌に弱い。だから彼らは保護区域に入れられる」
「……保護区域。翼人の楽園」
思わず口をついたのは、諸人の噂話だった。
翼人の暮らす保護区域は、あらゆる障害が取り払われた地上の楽園であるという。求めるものは与えられ、どんな苦しみも除かれる。翼人が狭い鳥籠を出ようとしないのは、そこの居心地の良さのためだ、と。
それを否定する理由はアンゼリカにもなかった。何不自由なく育てられた幼少期の記憶は、おぼろげながら胸に残されている。
しかしガネットは意味ありげに微笑む。そうして筆記具を手から離した。
「アンゼリカ。この世に先に生まれたのは、人と翼人のどちらだと思う」
「はい?」
尋ね返しても、ガネットは無言を保つばかりだ。
学校へ行っていないアンゼリカに、歴史の知識はない。生物学の知識も同様だ。少し考えて、「翼人だと思います」と答える。
「ふうん、それはどうして?」
「……私みたいな、ものがいるから」
翼人は、翼のない人間を生む。けれども人間が翼人を産むことはない。それなら翼人が産み落としてしまったなりそこないこそが、人間の祖なのではないか。
アンゼの飲みこんだ卑屈も見通しているというように、ガネットは幾度かうなずいた。
「至極まっとうな意見だ。翼人が天の使いだなんて説いて回る宗教家に聞かせてやりたいところだな。……だけど実際には逆でね、先に産まれたのは人間のほうだとされている」
ガネットは机の上に一枚の写真を放り出す。
映されているのは翼人の背中だった。肩甲骨の下部からは、一対の翼が皮膚を突き破るようにして生えている。それを指して、ガネットは続けた。
「冬虫夏草という茸は知っているかな。虫に寄生して、その養分を吸いつくす奴だ。翼人の翼もそれも同じようなものとされている」
「植物、なんですか?」
「いや、似て非なるものと言ったほうがいいかな。ともあれこいつらは単独では生きる力を持たないから、人に寄生し、養分を借りることで生きながらえている。宿主が死なない程度の養分をね」
ごくり、唾を飲んだアンゼリカの背筋を、冷たいものが滑り降りる。
「じゃあ、翼人の体が弱いのは翼のせいなんですか」
「そういうことになるね。彼らが人間と違う部分、弱みとして抱えるすべては、みな翼のせいだと言っていい。……代わりに翼人は空を手に入れたんだ。大きすぎる対価を支払って」
ガネットの瞳がぎらりと光る。アンゼリカはその輝きに気付いてはっとした。
睫毛の下にはめこまれた緑の瞳は、今も彼女の意志を映してきらめいている。翼人のもとに産まれたことを示す翡翠色――にもかかわらず、彼女の背には翼が生えていないのだ。
まるで、アンゼリカのように。
「ガネットさんも、私と同じなんですか」
「同じ」茶をすすって、ガネットがくり返す。「それはなにを指すのかな。人であること? 翼人であったこと? それとも」
「はぐらかさないでください。どちらでもない、なりそこないだっていうことです」
翼人ではあれなかった。けれども人にもなることも許されなかった。それがアンゼリカという少女だった。
管理官はアンゼリカを保護区域から追放しながら、一方で手元から離すこともよしとしなかった。結果彼女は年齢にも能力にも見合わない住居と補償金を与えられ、二種族の狭間をたゆたうように生かされているのだ。
ガネットは時間をかけてひとつまばたきをする。
「どちらでもない生き物なんかいないよ」
「っ、そんなこと――!」
激昂しかけて、アンゼリカは首を振る。ガネットの瞳は水面のように穏やかだった。
「言ったろう。翼人は背に寄生生物を宿しているだけ。あとはまるきり人間と変わりがないんだ。翼がないというならそれは人間に違いないんだよ。……ねえアンゼリカ、きみは一体、なにを羨んでいるんだい」
爪先で胸をなぞるように、ガネットは囁いた。
「なりそこない、呼び方は自由だ。翼人でも人間でもない生き物、それもいいだろう。でも本当にそこに留まっていたいのは、他でもないきみ自身なんじゃないのかな」