人工の空は真っ青に広がるばかりだ。金の羽の影も形も見つからない。ルゥと名乗った少女は鳥籠を腕いっぱいに抱きしめて、そんな空を見上げていた。
「お母さんも、お父さんもいなかったから。アンちゃんを飛ばせてあげようと思ったの、でも窓が開いていて、それで」
「逃げていっちゃったのね」
 アンゼリカの声に、ルゥがこっくりとうなずいた。真っ赤に腫れた目元には今も涙の跡がある。
(放っておいたら整備士さんに見つかるだけだ)
 そうすればすぐに始末されてしまうだろう。けれどもそれを伝えるのは酷だ。アンゼリカは手袋をはずして、彼女の手を取った。
「一緒に探してみようか」
「……アンゼ」
 たちまちフレイが渋い顔をする。アンゼリカは彼に首を振ってみせた。
 鳥を追うことの難しさを理解していないわけではない。とはいえ一度手を出してしまった以上、突き放すのも気が引けたのだった。
 それに、探すあてがまったくないというわけでもない。
「別の階層に降りるなら見張りの前を通るから、すぐに騒ぎになるでしょう? まだそうなっていないってことは、アンちゃんはこの階層にいるはず」
 そうでなくても金色の羽は目立つ。都市の人々に聞きこんでいけば、あるいは。
「一日ぐらい、手伝うことはできると思うの」
「アンゼが決めたなら、俺は反対なんかできないけどさ」
「うん、ごめんね」
 ルゥの頭をなでる。くるみのように丸い瞳は、戸惑うように揺れていた。
 彼女はアンゼリカと同じだった。誰に助けを求めても応えてもらえなかった少女と。その心細さも、胸を貫くような痛みも、よく知っている。だからこそアンゼリカだけは、彼女を見捨てるわけにはいかないのだ。
「わたしたちも手伝うよ。だからもう少しだけ、がんばってみよう」



 ちらりと見かけたきりの金糸雀は、もうどこかへと身を隠してしまったのだろう。いくら空を睨んでいても見つからなかった。
 アンゼリカはフレイと別れ、ルゥを連れて昼探しの都市を闊歩する。繋いだ手は赤子のように温かく、小さくて、か細かった。聞けば両親は朝に夕にと忙しく働いているようで、彼女は一人で家に残されることが多いという。
「さびしくない?」
「ちょっとだけ」
 アンゼリカが問うと、ルゥは恥ずかしそうにうつむいた。
「でも、アンちゃんがいたから平気。ひとりじゃないもの」
「……そう」
 そのぬくもりを、アンゼリカも今朝感じたばかりだ。わかるよとうなずくと力がわいてくる。意を決して道行く一人に声をかけた。
 買い物帰りであるらしい女性は、不思議そうにアンゼリカをふり返る。彼女は一度ルゥを見やり、それからアンゼリカの瞳を覗きこんで小さく息を呑んだ。
 翡翠の瞳、翼人の証。にもかかわらず、羽の一枚もない背中。
 アンゼリカはよぎった不安をむりやりに覆い隠して、にっこりと笑ってみせた。
「鳥を探しているんです。……この子の金糸雀が、逃げてしまって。見覚えはありませんか」
「さ、さあ」
「そうですか、ありがとうございます。呼び止めてしまってすみません」
 そそくさと立ち去ろうとしたアンゼリカに、あなた、と女性が声をかける。彼女はためらいがちに口を開いた。
「その子は、あなたの妹さん?」
「……いいえ。さっき知り合ったばかりです」
 誘拐を疑われているのかもしれない、と、アンゼリカの声が固くなる。そうでなくても誤解を受けやすい身の上だ。
 しかし女性はいくらか考える様子を見せたあと、ふわりと表情を和らげた。
「金糸雀ね、見かけたら知らせるわ。あなた、南地区の子で間違いはない?」
「え……はい。アンゼリカ・ローデンです」
 階層を問わず、保護区域を追い出された少女の噂は広まっている。見ず知らずの相手に声をかけられることは珍しくなかった。出会いがしらに罵声を浴びせかけられることもたびたびだ。
 けれども、こんなふうにほほ笑みかけられたことは一度もなかった。
「わたしも友達に聞いてみるわ。助けにはならないかもしれないけど」
「い、いいえ、助かります。ありがとうございます……!」
 ひらひらと手を振って、女性は元通りに街路を歩いていく。アンゼリカはその背中をじっと見つめていた。お姉ちゃん、と手を引かれて、初めてルゥに向き直る。
「なあに」
「お姉ちゃん、アンゼリカっていうのね」
 無垢な瞳に、アンゼリカは苦笑を返す。ルゥの名前を聞くだけ聞いて、自分は名乗っていなかったのを思い出したのだ。
「うん、アンゼリカ。アンゼリカ・ローデン。それがどうかした?」
「アンちゃんと似てる。アンちゃんの名前はアンジュっていうのよ」
 舌足らずな声は耳鳴りを呼んだ。言葉を失ったアンゼリカのまなうらを、おぼろげな木漏れ日が照らしていく。

 ――アンゼ。
 ――わたしたちの、かわいい天使アンゼリカ……。

 蘇るのは母親の腕に抱かれたころの記憶だった。魔法をかけるかのような囁きにこめられた、あの穏やかな愛の形。すべらかな背中に腕をまわした母親の顔は、なのにどうしても思い出せなかった。
 ――なぜふたりは、翼のない子供を、天使だなどと名づけたのだろう。
「……お姉ちゃん?」
 ルゥがぶらりと腕を揺らす。彼女の心配げな表情を見て、アンゼリカの喉はかすかに震えた。
「ねえ、ルゥ。アンちゃんの名前はどうして……」
「アンゼ!」
 アンゼリカの言葉は遮られた。
 見れば通りを抜けた向こう側にはフレイが立っていて、大きく腕を振っている。
 その瞬間、ひとときでも子供に縋ろうとした自分が恥ずかしくなった。アンゼリカはごめんねとルゥに謝ってから、フレイに手を振り返す。
「見つからなかった?」
「ああ」
「……そう」
 フレイの腕の中には、別れたときのままで空の籠が収まっていた。彼が険しい表情であごを引くのを、アンゼリカは暗い思いで受け止める。
 時は夕刻を過ぎている。街灯番が都市のランプに光をともし終えるころを見計らって、ドームを照らす太陽も月に入れ替わってしまうだろう。頭上に点々と続く明かりは、気付けばすでに街並みのほとんどを覆っていた。
 ルゥの瞳に影が落ちる。アンゼリカはそれをちらりと見て首を振った。
「明日、もう一度探してみよう。アンちゃんを傷つけたりしないように、整備士さんには私からお願いしてみる」
「でも」
「だいじょうぶ、きっと見つかるから。……簡単にあきらめちゃだめだよ」
 手が届かなくなってしまったわけではないのなら。――見つけられるかもしれないのなら。ルゥにはまだあがくことが許されているのだから。
 ややあって、こくりとうなずきが返る。けれども始めに口を開いたのはアンゼリカでもルゥでもなかった。
「……はあ」
 深いため息がふたりのあいだを横切っていく。見ればフレイは片手で顔面を覆い、拗ねたようによそを向いていた。
「もういいよ。降参」
「もういいよって、なにもよくないよ。アンちゃんはルゥの家族なんだから」
 そうじゃなくてとフレイが首を振る。逡巡するだけの間があって、彼はルゥの目の前にしゃがみこんだ。
 大きなてのひらが、少女の頭をくしゃりと撫でる。
「お兄ちゃん?」
「ここで見たこと、ぜんぶ秘密な。アンゼが怒るから」
「え、フレイ、」
 まさかと思ったところで、アンゼリカには止めるすべもなかった。
 絹糸のショールが揺れ、肩先からしだれ落ちる。代わりにこぼれ出したのは輝かんばかりの純白の羽だ。伸びをするようにその先までをぴんと張ったあと、フレイは照れくさそうに笑った。
「アンゼ、ルゥ。ちょっとだけ、あっちを向いててくれないか」