フライパンに油を敷いて、薄いベーコンを二枚並べる。いくらか熱が通ったら卵をふたつ割り入れる。少しの水を流し込んだら蓋をかぶせて置いておく。その片手間で野菜をちぎり、ガラスの器に放りこんだ。
「アンゼはすごいな」フレイはへええ、と感嘆しきった声を上げたあと、目を丸くして言った。「手慣れてる」
「当たり前。一人で暮らしてるんだから、ご飯ぐらい作れなきゃ。……テーブルはどう?」
「拭いた!」
「それ雑巾だよね。台拭きは上の棚って言ったのに、もう」
 フレイを自由にして数日、すぐに気付いたことがある。どうやら翼人という生きものは、人に比べてもの覚えが悪いらしいということだ。
 軽い言いつけは、数分も経てば八割がた忘れる。口を酸っぱくして言っても間違える。最後には焦れたアンゼリカが手を出してしまう。けれどもそれでは彼のためにならない。
「ほら、台拭き。しぼってやりなおし」
「ん? ああ、わかった」
 フレイがへそを曲げる様子がないのがせめてもの救いだった。意気揚々と同じ作業をくり返してくれる。アンゼリカは仕方ないなあと苦笑して、棚の奥に眠っていた木のスプーンを引っぱりだした。
 ほどなく向かい合って椅子に座り、いただきますと声をそろえる。慣れない手つきでスプーンを使いながら、フレイは「すごいよなあ」とベーコンを噛みちぎった。
「料理ができて、掃除ができて、これから仕事にも行くんだから。アンゼはえらい」
「だって、そうしないと生きていけないもの」
「でも働く必要なんてないんだろ?」
 ぎくり、とアンゼリカの手が止まる。
 宙をかいたフォークから、野菜のかけらがぽろりと落ちた。
(……知られて、たんだ)
 気を抜きすぎていたのだ。目の前に立つ青年は、もの知らずの子供も同然だと思っていた。
 しばらくの沈黙に失言を悟ったのだろう。フレイは目をしばたかせ、はっと息を呑む。彼の口が開閉するのを眺めて、アンゼリカは首を振った。
「フレイの言うとおりだよ。本当なら、わたしは働かなくてもいいの」
 なりそこないとして保護区域を放逐されて以来、アンゼリカの生活は都市からの補助金によって支えられてきた。右も左もわからない少女に与えられたのは、一般人が一生をかけて溜めた財産でも手が届かないような家だったのだ。
「でも、なんだか寂しくて。なにもしないで家にいるのも好きになれなかったから」
 ひとり、家に取り残されたとき。喧騒を遠くに聞いているとき。胸の奥をやわく握られるような心細さに襲われる。
 都市のために働いていれば、その間は誰かと繋がっていられる――働き口を探したのも、そんな孤独から逃れるためだ。フレイが神妙な顔で自分を見ているのに気付いて、アンゼリカは誤魔化すように笑った。
「ごめんね、立派な理由じゃなくて」
「立派だよ」
 アンゼリカがひとつまばたきをする。立派だよ、とフレイはもう一度つぶやいた。
「アンゼはえらい」
 続く言葉はない。根拠も、その理由も。
 フレイは確かめるようにうなずいたきり、それまでどおりに口を動かし始める。瞬く間に空になっていく皿を、アンゼリカはぽかんとしたまま眺めていた。
 ごちそうさまでした。子供のようにはっきりと口にされた言葉に、アンゼリカの頬がゆるむ。すぐに声を上げて笑ってしまって、なんだようと非難を浴びた。
(いまの、嬉しかったかもしれない)
 悪い夢の名残はどこかへ消えていた。風穴が空いたかに思えた胸のなかにも、いつからかじんと熱を持つものが居座っている。
 自分以外の誰かがいる家。自分以外の声がする居間。長く感じることのなかったその安堵に、アンゼリカはほっと息をついていた。



「なあ、これやっぱり暑苦しいよ」
 翼を覆うようにショールを巻いて、フレイはぶつくさと文句をこぼす。がまんして、とアンゼリカが返すのもこれで三度目だった。
「翼人がフォルドハイトを歩いていたら目立つもの。それとも黙って家にいてくれる?」
「……それは嫌だ」
「じゃあそのままで歩いて。もちろん飛ぶのも禁止」
 冬用の衣服をひっかきまわして、やっとのことで見つけ出したのが大きなショールだった。アンゼリカの体には大きかったそれも、フレイの翼を隠すにはじゅうぶんだ。
 なおも不満げな彼の鼻先に、アンゼリカは指を突き立てる。
「そもそも、ついてくるって言ったのはそっちのほうなんだからね」
 ――俺もいっしょに行きたい。
 それは昼過ぎ、作業着に着替えたアンゼリカを見かけたフレイが、いの一番に放った言葉だった。
 面食らっていたアンゼリカだったが、彼を家に残していくことにも一抹の不安がある。しばらく考えて、連れて行ったところで支障はないだろうと判断したのだ。
 決して手を出さないこと、見ているだけにすること、という条件にはうんうんうなずいたフレイも、翼を隠すようにとの指示には顔を曇らせた。アンゼリカはなんとか諭し聞かせて、ようやく都市の公園にまで彼を引きたてたのだった。
「よしっ」
 右手にはさみ。首周りにはタオル。もちろん両手には薄手の手袋をはめている。万全の準備を整えて、アンゼリカはふんと息を吐きだした。
 手始めにしゃがみこんだのは、手近な花壇の傍らだ。しおれた花を切り取って、頭を覗かせた雑草も端から引き抜いていく。最後に水を振りかけたら次の花壇へ。その後ろを、フレイがひな鳥のように追いかけた。
 アンゼリカの仕事は、都市の環境整備の一環だ。
 フォルドハイトに点在する花壇をはじめ、街路樹や鉢植えも、植物と名のつくものにいはすべて環境整備士の手がかけられている。そのうちアンゼリカが任されているのは、彼女の暮らす都市高層の一区域だった。
「なあ、アンゼ。なんで花を切るんだ?」
 花壇を転々として数時間。アンゼリカの手元を見つめていたフレイが、ふいに問いかけた。
「まだ見ていられる花もあったような気がするけど」
「放っておくと、すぐに実を付けるから」
「実ができるとだめなのか」
「うん」
 フレイが首をかしげるので、アンゼリカはつんと花の蕾をつついてみせた。
「栄養が全部そっちに取られて、残った花がきれいに咲かなくなっちゃう。だからしおれた花は切り落として、ほかの蕾が咲くのを待つの。……わかる?」
「ぎりぎり」
 その言葉どおりにフレイはきつく眉を寄せている。放っておけば知恵熱を出しそうな表情だった。アンゼリカはくすくすと笑って、手袋の土埃を払う。
「都市の観葉植物はみんなそう。目を楽しませるためのものだから、子供を残すのは二の次。なにも植物だけのことじゃないよ、たとえば――」
「鳥とか?」
 待ってましたとばかりに、ぴい、と空から鳴き声がする。アンゼリカはそうそうと首を縦に振った。
「うん、鳥とか……って、ええっ!?」
 声を裏返らせて、アンゼリカは頭をはね上げる。
 鳴き声の主は金色の羽毛をもった金糸雀だった。はるか彼方で空中を旋回し、やがて翼をはためかせて飛び去っていく。
「なんで鳥が……」
 フォルドハイトに風はない。そして空舞う鳥もまた、鳥籠の都市には存在しない。
 都市は天をドームで覆い、土地ごと外界から切り離した場所だ。その中に都市の環境を乱す恐れのある動物がいるはずもない。外から運び込まれる鳥も、愛玩用に馴らされたものに限られている。
 だから、都市に飛ぶ鳥がいるとすれば、それは逃げ出したペットに違いないのだ。
「あ、アンちゃああん!」
 すぐによぎったか弱い呼び声に、公園の子供たちが目をぱちくりとさせた。
 シフォンのワンピースを着た少女が、たどたどしい足取りで公園を抜けていく。短い腕には大きな鳥籠を抱えていた。途中でつまずいて、固い地面に転びこんでしまう。
「アン、ちゃん」
 ず、と鼻水をすする。周囲は呆然と少女を眺め、遠巻きに見守るばかりだ。
(……見てられない)
 自分の泣き声が重なったような気がして、アンゼリカは唇の裏を噛んだ。少女の傍にしゃがみこみ、顔を横からぬぐってやる。
 口をもごもごとさせた少女に、「ねえ、きみ」と声をかけた。
「アンちゃんって、もしかして、あの金糸雀のこと?」