二章
 鉄製のフォークを握りしめて、アンゼリカはフレイの座る壁際を睨みつける。
 彼の両手首は縄で括られたままだ。しかしその結び目に取りつけられていた鉄の留め具は、ガネットが去り際に外してしまっていた。
 そのおかげですっかり元気を取り戻したらしいフレイは、はじめ、興味深そうにアンゼリカの自宅を見まわしていた。一度は立ち上がろうとするそぶりも見せたが、そこで彼女の取り上げたフォークに気付いて動きを止めたのだった。
 状況が膠着してからしばらく。アンゼリカの腕も疲れてきたころだった。
「なあアンゼ、これ不毛じゃないか」
「黙ってて!」
 アンゼリカの声が裏返る。フレイは渋い表情をしたけれど、構うつもりはなかった。
 忘れもしない。彼はアンゼリカにのしかかり、あろうことか首にガラスの破片を突きつけたのだ。一歩間違えば殺されていてもおかしくなかったというのに、能天気に野放しになどできるわけがない。
「い、一歩でも動いたら刺すんだから……!」
 けれども食器棚をひっかきまわしたところで、ナイフを引っぱりだす勇気までは持てなかったのだった。丸い切っ先を小刻みに揺らすアンゼリカを、フレイはげんなりと眺めている。
「もう何もしないよ。ほら、俺じゃ刃物には触れないし、力だって人間にはかなわない。さっきだって簡単に引っぺがされただろ?」
 小さな棘が刺さる。アンゼリカは唇を尖らせた。
「……私は、人じゃないもの」
「あー」生返事のあとに、フレイは長い時間を置く。「わかってる。アンゼは翼人だ」
 それは求めていた言葉に違いなかった。しかしアンゼリカの眉の皺はきつくなるばかりだ。
 翼人だった、というのが、正しいのだ。今のアンゼは保護区域から追い出された、ただの人間に過ぎなかった。自分でもそれを認めようとしていたのだ。だというのに、フレイの存在が消えかけたくすぶりに火をつける。
(駄目……考えたくないことばっかり考えてる)
 フレイが翼人だから。初めて対等に言葉を交わした、両親以外の人間だったから。奥歯にもが挟まっているかのような違和感も、きっとそれのせいだ。
 八つあたりに気付いてしまえば、心は少しだけ軽くなる。アンゼリカはそっとフォークを下ろしていった。
「先に、お父さんたちのことを教えて。縄を解くのはそれから」
 アンゼリカの声は変わらず頑なだったが、フレイは鉄の威圧がなくなったことにほっとした様子を見せた。こくこくと素早くうなずく。
「そうは言っても、自分の話しかできないけど」
 アンゼリカが相槌の代わりにまばたきをする。フレイは「ええと」とそらを見た。
「俺、小さい頃に両親が死んで。それからはずっと孤児院で生活していたんだ。そんな俺を引き取ってくれたのが、アンゼの父さんと母さんだった」
「私が保護区域を追い出されたあと?」
「たぶん。あの家に、他の子供はいなかったから」
 ぞわり、心臓の中に、黒い斑点が浮かび出す。アンゼリカは無意識のうちに胸に手をあてていた。
(考えちゃだめ)
 いなくなった娘の代わり、だなんて。
 あの二人は今度こそ、翼の生えた、正しい翼人の子供を手に入れたのだ、なんて、そんなことは。
「アンゼの父さんと母さんは温かい人たちだった。俺なんかにも優しくしてくれたし、大切にしてもらった、と思う」
 まるで本当の子供にするように。フレイの微笑みにやわらかさが宿るたび、アンゼリカは自分の指先が冷えていくのを感じていた。
「孤児院と違ってご飯は温かかったし、家に戻れば出迎えてくれた。もう寂しくないと思った」
「……もういいよ」
「え? いや、まだ途中で」
 きょとんとした顔で目をしばたかせる、その能天気さに苛立ちを覚えた。
 けれどもフレイに罪はないのだ。彼は促されるままに自分の生い立ちを語っただけのことで、勝手に腹を立てているのはアンゼリカのほうなのだから。怒鳴らないように、わめかないように、と自分に言い聞かせながら、アンゼリカは無理やりに笑顔を浮かべた。
「いいの。フレイが悪い人じゃないってことも、お父さんたちとの関係も、ちゃんとわかったもの。縄も今すぐほどくから……嫌な思いをさせてごめんなさい」
 フォークを机に押し付け、フレイの横にしゃがみこんだ。それまで見ないようにしていた彼の翼が視界に入って、アンゼリカは知らず唇を引き結ぶ。
 血の染みついた翼は、それでもアンゼリカの目を引いた。羽は屹立して揃いの方向へ並び、その白は周りの明度を取りこんで、うちから光り輝いているかのようだった。
(いい、なあ)
 どうしても羨んでしまう。妬んでしまう。やめてと叫ぶ理性の声も、もうアンゼリカの胸には届かなかった。
 翼さえあれば。
 彼と同じものが自分の背中にもあったなら、今だってこんなに――。
「アンゼ」
 耳元で名前を呼ばれた。アンゼリカはびくりと肩を跳ね上げ、翼に触れようとしていた手を引っ込める。見れば怪訝そうなフレイの顔が間近にあって、心臓が一度、音を立てて鳴るのを感じた。
「ご、ごめんなさい」
「……なんで。別に怒ってない」
「そう、だね。うん。ごめん」
 それ以上の問答は意味をなさなかった。アンゼリカの手の中で、フレイの縄がはらりとほどける。
 ガネットが容赦なく縛りあげたのだろう。彼の手首についた縄目は赤々と存在を主張し、内出血した部分さえもあちらこちらに見つかった。アンゼリカは急いで氷嚢を用意すると、変色したフレイの手首にあてがう。
「こうしたほうが早く治るから」
 早口で伝える。フレイはちらりとアンゼリカを見たきり、何も言わなかった。理由を聞かれなかったことに安心して、こっそりと息をつく。
 内出血の処置には慣れていた。というのも、幼いアンゼリカが諦めの悪い子供だったせいだ。保護区域へ押し入ろうとしては引きずり出されることをくり返すうち、しまいには翌朝まで自宅の柱へ縛りつけられるようになっていたのだった。
 泣き通しの子供に、しまいには管理官も憐れみを覚えたのだろう。アンゼリカに氷嚢の作り方を教えたのもその一環に違いなかった。
 フレイの掌を取ったまま、長い沈黙が流れる。彼は肩の力を抜くと、拗ねたように翼を上下させた。
「アンゼ。俺、なにか悪いこと言ったか」
「え?」
「さっきから俺に謝るけどさ。怒ってるのはアンゼの方だ、と思う。……なあ、言ってくれないと分からないよ。俺たち、初めて会ったばっかりなんだ。気に障ることを言ったなら謝るから」
 アンゼリカの唇が、うっすらと笑みを浮かべる。
 いっそ清々しいまでに、他人事だ、と思った。
 フレイはアンゼリカの境遇を知らない。アンゼリカの両親から知らされていた可能性も考えられるが、それでも理解しているわけではないようだった。当然のことだろう、彼は自身が翼人であることを、疑う必要もないのだから。
 傲慢だ。翼人であることに胡坐をかけるひとびとは皆。
 けれどもそれが逆恨みであることも、アンゼリカはとうの昔に気付いている。
「なんでもないよ」
 だからアンゼリカは首を振る。
 人として暮らして十年、身につけたのはへたくそな笑顔だけだった。
「なんにも怒ってない。今だって午後の仕事のことを考えていただけだもの。それに」
 言葉を切ったのは、左胸に、きりりとひきつれるような痛みがあったからだった。悲鳴を上げているかのような自分の心を、うるさいと強く叱りつける。今まで諦めてきたことを、今になって掘り返したくはなかった。
 人間になる。翼人を捨てる。そう、ちゃんと、受け入れたはずなのだから。
「それに、フレイが悪いだなんてありえない。……なにか悪いことがあるとしたら、私に翼がなかったのが悪いんだもの」
 振り払っても、踏みにじっても、胸の奥でくすぶり続ける火なら――いっそ水を浴びせかけて、その痛みごと、なかったものにするしかないのだ。