「本官は、保護区域を脱走した翼人を捕獲すべく追跡を行っている。……あんたのことだよ、フレイ」
「ガ、ネット、さん」
青年、フレイの手元が揺れる。危うく首をかき切られるところだったので、アンゼリカはびくりと身を固めた。
ガネットはフレイを見、その下に寝ころぶアンゼリカを見て、呆れたように眉を上げる。
「ずいぶんな格好じゃないか。五年早いよ、出直しな」
「ちがっ……人質に取ってるんだ、俺は、こいつを!」
「同じことさ。それだけ手を震わせておきながら、なにが人質だ。あほらしい」
言われて気がついたのだろう。フレイはガラスを握る手を、もう一方の手で支えようとする。その拍子に皮膚が切れ、血のしずくが一滴、アンゼリカの首元に落ちた。人と同じ色――翼人も、人も、そうでない者も、血の色は変わらず赤だった。
「市民、まだ気は確かかい」
ごくりと唾を呑んだアンゼリカに、ガネットは低い声で呼びかける。答える代わりにアンゼリカがまばたきをすると、てらいのない笑顔が返された。
「今からきみを助けてあげよう。簡単なことだ、市民、そのまま身を転がしてごらん」
「は……?」
「きみの上には誰もいないも同然だ。体重なんか感じないだろう?」
(体重、って)
緊張のあまり、自分の体勢を理解していなかった。アンゼリカが改めて自分の体を見下ろせば、フレイは完全に腹の上に腰を下ろしている。にもかかわらず、アンゼリカは一度も息苦しさを感じていなかった。
体重がないのか。あるいは、重みをかけていないのか。
だとしたら。
(……一か八か!)
アンゼリカは意を決して、寝返りを打つように身を転がした。
恐れていた抵抗も、最後まで感じられないままだった。アンゼリカの身の上に座り込んでいたフレイは、巻き込まれるようによろけて元の床へと崩れ落ちる。
直後のガネットの動きは速かった。フレイが体を起こす前にと、その首筋にナイフを寄せる。鉄の刃が鈍くきらめけば、彼はぴくりとも動かなくなった。
「えらいえらい、よくがんばったね」
彼女は言って、片手間にアンゼリカの頭をなでる。
途端、アンゼリカの全身から冷たい汗が噴き出した。なんとか身こそ持ち上げたものの、足はがくがくと震え、立ち上がることもままならなかった。それを落ち着かせるように、ガネットの指はくり返し髪を梳いていく。
「これは私が責任を持って保護区域に連れ戻す。見たところきみはただの被害者らしいし、取り調べの必要もなさそうだ。窓と扉の修繕費の要請は私から行っておこう。メンタルケアの担当も呼ぼうか」
「い、いえ……平気です」
「そうか、強い子だ。巻き込んで悪かったね」
ガネットの言葉が途切れたころ、フレイが痙攣するように身を揺らす。彼の目はガネットのナイフに固定され、それを忌々しそうに睨みつけていた。
刃物に怯えるにしても異様な光景だ。アンゼリカが刃先を見つめていると、ガネットは刀身でフレイの首を叩いてみせる。その瞬間、彼の体は大きく跳ねた。
「見ての通りだよ。翼人はひどく鉄を嫌う。触れるどころか、近づけられるだけでも我慢がならない」
「……鉄を?」
「ここの扉も鉄製だったね。翼人よけとしては懸命な装備だ」
軽口をたたきながら、ガネットは手早く彼の両腕を縛りあげる。縄の結び目にはこれ見よがしに鉄の金具が取り付けられた。その後ナイフを鞘にしまい、小銃を折りたたんで、背負った荷物の中に放りこむ。
拘束を始めてから再び彼女が腰を上げるまで、わずか一分とかからなかった。逃亡した翼人への対応には慣れきっているのだろう。
「ほら、行くよ」
縄を掴み上げ、ガネットはフレイを立ち上がらせる。彼は首を振った。
「い、やだ」
「聞きわけを持ちな。もう駄々をこねるような歳じゃないだろう」
「嫌だ……探さなきゃいけないんだ、俺は。あの子を、アンゼを」
「へっ」
間抜けな声を上げてしまってから、アンゼリカは慌てて口を覆う。
ガネットがそれに気を逸らされた隙に、フレイは身をよじって彼女の手を逃れた。けれどもひとりで立ち続けるには至らず、もんどりうって床の上に倒れ込む。
涼やかな音が跳ねた。一度割られたガラスの破片が、再び散り散りに砕けていく。
「……こら、フレイ、いい加減に」
「帰れないんだよ!」フレイは体全体で拒否を示す。「まだ帰れない、このまま二人の前には戻れない! 俺はアンゼに……アンゼリカ・ローデンに会わなきゃいけないんだ!」
一喝はアンゼリカの鼓膜を震わせた。水を打ったような沈黙が広がり、耳にはきいんと耳鳴りが残る。
痺れにも似たその痛みが消えたころ、アンゼリカは何度か瞬きをしてから「あの」と声をかけた。
「もし、間違いがなければ、アンゼリカ・ローデンは……私、ですけど」
「はっ!?」
「いや、だから。たぶん、きみの言ってるアンゼは、私のことだと思う」
生唾を呑む。――アンゼ、アンゼリカ。まだ子供の頃の記憶に残る、自分を呼ぶ両親の声が蘇るようだった。
アンゼリカを愛称で呼ぶのは二人ぐらいのものだ。自分でも名乗ることは減っていただけに、どこかかけ離れたもののようにも感じていたところだった。
それが、今になって。アンゼリカは唇の裏側を噛む。
「“二人”って。もしかして、私のお父さんとお母さんなんじゃないの」
幼いころに引き離されてから、両親とは一度として顔を合わせたことがない。文通も禁じられている以上、アンゼリカと二人との繋がりは皆無に等しかった。
(もし、この人がお父さんたちのことを知っているなら)
手繰らずにはいられないのだ。それがどんなに、細い糸であったとしても。
フレイは面食らったようにまばたきをくり返す。彼の反応にアンゼリカが焦れていると、ガネットが代わりに首を振った。
「すまないが、人と翼人との接触は禁止されている。例外はない」
「っ、私は――」
言葉に詰まる。翼人です、と、続けることはできなかった。
翡翠の瞳を持っていても、両親と同じ血が流れていても、アンゼリカの背には翼がない。翼人ではなく、けれども人間でいることも許せなかった何者か――それがアンゼリカ・ローデンという少女だ。
開閉した唇は力なく閉ざされる。それでもアンゼリカの瞳は縋るように、ガネットを見上げていた。
「そんな顔をされても困るんだけどな」
ガネットは唸って顔を背ける。秒針が一巡するほどの間があって、彼女はああそうだと手を打った。
「市民。いや、アンゼリカ。ひとつ提案だ。これを受けてくれるなら、私たちもきみと翼人……正確には、そこのフレイとの交流を許可しよう」
「ほ、本当ですか!」
「ああ、こちらの要求を呑んでくれるならね」
アンゼリカとフレイの目が疑問符を浮かべる。
ふたりの若者を見下ろして、ガネットはにやりと笑ってみせた。
「翼人フレイを、しばらくこの家で養ってくれないか。三食寝床つき、もちろんこき使ってくれてかまわない。……いわゆる居候というやつだ。どうかな」
「――え」
えええっ、とけたたましい声が上がった。道行く市民はそれぞれに眉をひそめ、小屋の鶏が勘違いをして鳴き始める。
それは鳥籠の街フォルドハイトの朝早く。
高層に住む市民議員が、まだ深い寝息を立てているころのことだった。