一章
鳥籠の都市フォルドハイトの朝は、人の手によってもたらされる。
日がのぼる前から目を覚ますのは、都市を動かす整備士たちだ。ホールケーキのように何段にも積み重なった階層都市を駆けのぼり、あるいは駆けおりては、フォルドハイトに朝を運ぶ。夜間は止められていた循環水路に水を通し、影の落ちる下層部に光を灯したら、最後に天球の照明を朝の色に塗り替えるのが彼らの仕事だ。
本日も晴天。風はなし。
鳥籠の都市の、変わらない一日が始まる。
アンゼリカは寝台で身を起こした。肩までの赤毛は四方八方へ飛び散り、毛布は床に落ちている。日差しはすがすがしいけれど、今日も寝覚めは悪かった。
(……やな夢、見たな)
あれは、きっと、翼人保護区域を追い出されたときのことだ。
小さなころからくり返し見る夢がある。それはアンゼリカがまだ五歳のころのこと、両親から引き裂かれた日の記憶だった。
翼持つ人である翼人の両親の間に産まれながら、アンゼリカの背中には翼がなかった。翼人保護区域での生活が許されないのも当然のことだ。分別のつく歳になったのを契機に、彼女は人の住む街へと追い出されたのだった。
フォルドハイトはふたつに割った卵を模した都市構造を、さらに二層に分けた街だ。球の外側、すなわち外殻の部分には人間が住んでおり、収入の高低によって生活を営む場所が管理されている。都市を総括するのは最上区に門を置く都市議会であり、彼らの議決がフォルドハイトの行く末を決めていた。
一方、卵の核の部分には、翼人を保護する区域が置かれる。体のつくりの異なる翼人たちを人間から隔離し、清潔な環境に置いて管理すること――それが翼人保護区域の存在する理由だった。
アンゼリカも本来なら、そこに暮らしているはずだったのだ。
その背中に、一対の翼さえあったなら。
「だめだめ、馬鹿なこと考えないの」
ぱちぱちと頬を叩く。昔のことを掘り返しても仕方がない。まっさらな背中に翼が生えてくることはないし、どこかから拾ってきて取りつけられるわけでもないのだから。
ブラシで髪を整えて、邪魔にならないように編み上げる。燃えるような赤い髪は母譲り、細い手足は父譲り。翡翠の瞳は二人から受け継いだものだ。どちらもアンゼリカが彼らの子供である証だった。
ひととおりの身支度を済ませると、鏡の中の自分ににっこり笑いかける。
「大丈夫よ、アンゼリカ」
後ろめたいことなんかない。今日はたまたま悪い夢を見ただけだ。
喝を入れるように、よし、と叫ぶ。まずは食事の準備、それから洗濯だ。仕事は午後からだから、まだ時間には余裕がある。
寝室にしている二階から、リビングのある一階へ。アンゼリカひとりが暮らすには広い家だ。それもなりそこないであるアンゼリカに支給されたものだった。木製の階段を下りきって、けれどもそこではたとする。
「え、あれ、えええっ……!?」
吹き抜けの上部にある窓が、粉々に割られていたのだ。
窓枠の間際まで、跡形もなく、完膚なきまでに。
「嘘でしょう……」
嫌がらせ、ではない。小石が当たってできるような穴ではないし、そもそも石を投げて届くような位置の窓ではないはずだった。巨大な鳥がぶつかりでもしなければ、あんな大穴は空けられないのだ。口をぽっかり開けて考えてしばらく、ようやくその真下へと目が動く。
「ひっ」
今度こそ、心臓が止まるかと思った。
玄関際、割れた高窓の真下には、倒れている青年の影がある。周囲にはガラスの破片が散乱し、その表面にべっとりと血をこびりつかせていた。
(夢……じゃない、よね……)
アンゼリカはおそるおそる歩み寄って、あっと声を上げる。
歳のころはアンゼリカと同じぐらいだろう。茶の髪には癖があり、ぼさぼさに跳ねている。背は高いけれども顔つき自体は幼かった。よくよく見れば、彼の怪我はそう深くない。すべてガラスの破片によって切ったものであるらしかった。
そして、なにより。
彼の背には確かに二枚の翼が生えている。体を支えるほどの純白の翼、紛うかたなき翼人の証――今ではそれも、彼自身の血にまみれてしまっていた。
「ねえ、きみ……生きてるの、ねえ」
アンゼリカが肩のあたりに手を置くと、彼は小さく身じろぎをした。やがてまぶたが開かれて、隠れた翡翠色があらわになる。
(う、わ)
鏡の中に、嫌になるほど見つめてきた瞳だった。けれど自分のもの以外のそれを見るのは久しぶりのことだ。アンゼリカは思わず見入ってしまってから、はっとして身を離す。
こほん。咳払いをして、硬い表情を作ってみせた。
「うちの窓、割ったのはきみ?」
「俺……なに、ここは」
「私の家。保護区域の外。どうして翼人が外にいるの」
「え、と」
青年はまじまじとアンゼリカを見つめ、それから自分の体、飛び散ったガラスを目に映す。最後に翼をぎこちなく動かした。
「悪い。俺、必死で」
「必死もなにも、こっちは窓を割られてるんですけど……」
「急いでて、……逃げてて。捕まると思ったから」
しどろもどろに吐き出される単語を聞きながら、アンゼリカはむうと唇を結ぶ。
青年の言い分を信じるとするならば、彼は何者かに追われてこの家に逃げ込んだのだ。もちろん扉が開いているはずもない、窓を割り破って強引に侵入したのだろう。問題はその“何者か”が一体誰であるのかということであるが――
突如、家の扉が叩かれる。アンゼリカの身を震わせたのは、続いた大声だった。
「市民、朝方から失礼する! こちらは翼人管理官だ、すぐに扉を開けていただきたい!」
低く、力強い声色だった。しかしその声が女性のものであることは疑いようもない。慌てて腰を浮かせたアンゼリカだが、腕を青年に掴まれた。
「な、なに」
「たぶん、俺を追いかけてきたんだ」
「追いかけてきた、って……まさかきみ、保護区域を出てきたの!?」
「頼む、かくまってくれ、ここで捕まるわけにはいかないんだ。俺には会わなきゃいけない人がいて、それで!」
「そんなこと言われたって……」
女性が名乗った“翼人管理官”の肩書きは、公職のひとつだった。その名の通り保護区域の翼人の生活を監督するのが彼女らの役割であり、人間と翼人が万が一にも関わることのないように、厳重な取り締まりを行っている。
翼人は国を挙げて保護すべき貴重な財産だ。それが怪我をしていること、人間の家の中に隠れていることが知られようものなら、と想像して、アンゼリカは身震いをする。
「そんな怪我までして、わざわざ外に出る必要なんかないよ……保護区域はずっと暮らしやすい場所なんでしょう? きみも謝って、すぐに戻ったほうがいいって」
「だから、戻るわけにはいかないんだって……くそっ」
ぐるり、とアンゼリカの視界が反転する。
足の支えが効かなかった。アンゼリカは腕を引かれるままに、硝子の破片のない床へ押し倒される。なにをするのと文句をつけようとしたところで、彼女の喉はひくりと震えた。
喉元にあてがわれた硝子の断片。間近に迫った青年の顔の、ぞっとするほどの真剣さ。なによりアンゼリカを組みふせている側であるはずの彼の、そのひどく怯えきった眼差しに、でかけた言葉は滞る。
「ごめん」
彼の声が、崩れ落ちそうに揺らぐ。まるで親に見捨てられた子供のように。
(……なんで)
激しい破裂音が響いたのはその直後だ。家の中へと土足で踏み入ったのは、手に小銃を構えたひとりの女性だった。
つややかな黒髪をさっぱりと肩先で切り落とし、細身のサングラスをかけている。身につけているのは上下が一繋ぎにされた作業服だ。体型こそ引き締まっているものの、腰回りには確かに女性らしいくびれが見て取れた。
「失礼、市民。本件に伴う補償費は、追って都市から支払われることとなるだろう。本官はガネット・アシュレイ。翼人管理局の人間だ」
一息にそう言って、彼女はサングラスを取り外す。逆光の中に浮かぶ瞳は、鮮やかな翡翠の色をしていた。