祈りを忘れたこどもたち
 石炭の香りがしている。
 鋼を打ち、引き延ばし、剣の刃や槍の穂先を生み出す職人を、メリアンツでは国庫金を用いて援助しているという。鍛冶職人は帝国の栄光を支える土台であるとの考えが根底にあるためだ。一方で石炭や鉱石を掘り起こす作業には被征服国民があてがわれ、家族から引き離された上で重労働を強いられている。かつての王や領主でさえも重税を負い、中央から派遣された執政官に従うほかない。
 その体制は先代の皇帝の治世でいくらか改善されたものの、新たな皇帝は以前の強行的な統治を再開している――そこまでが、ソニアがエリーゼから聞いた内容であった。
 突風に粉塵が舞い上がる。反射できつく閉じた目を、ソニアはゆるゆるとひらいていった。
「……メリアンツ」
 囁くようにこぼす。ふたりを乗せた馬の手綱を操るエリーゼが深く息をついた。
「首都、ヴィーネゲルンです。迎えは――」
 門を一瞥。彼女の眉間にしわが寄る。
「無いようですが」
 アーシャラフトの神殿騎士たちが随行を許されているのは、ヴィーネゲルンの外壁に作られた正門の前までだった。それ以上の侵入は武力行使とされ、協定違反に見なされるという。
 しかし正門には門番が配備されているのみである。アーシャラフトからの使いを出迎えるには無礼の度を越していた。武骨な循環兵の闊歩する町に、護衛のいないアーシャの花嫁を歩かせようというのでは。
「やはり、私も参ります」
 ひとり馬から降りたエリーゼが、硬い表情で馬を引いた。ソニアは鞍の上に残された手綱を慌てて握ってから、でも、と背後を見やる。その憂慮を読み取ってか、エリーゼは身を反転させ、動揺をちらつかせる一行を見渡した。
「騎士たちはアーシャラフトへお帰りなさい、あとは私が引き受けます」
「ですが、エリーザベトさん」
 若い騎士が声を上げる。エリーゼは反論を呑む形で首を振った。
「私はもう神殿騎士ではありません。ただ生まれた家に帰るだけのことです、メリアンツに口を出されるいわれは無いでしょう」
 彼女がラクスにそれを伝えたのは今朝の出立前のことだ。前もってレオンハルトからの口利きがあったのか、エリーゼの腰からは驚くほどにすんなりと青円の剣が失われた。そのため彼女が現在腰紐に吊っているのは何の変哲もない鋼の剣であり、そこには違和感もまたぬぐい去れないままで留まっている。ソニアがじっと見つめているのに気がついて、エリーゼは疲れたように笑った。
「家が嫌いなわけではありません。花嫁様が心配なさるようなことではありませんよ」
「……エリーゼ」
 あなたの居場所は、アーシャラフトではないの。
 言おうとして、やめた。そのまま自分に返ってくることが分かりきっていたからだ。自分を抑えつける意味を込めて銀薔薇を片手で握り、そうしてひとつ、うなずいた。
「ここに留まるなら。会いに来て、もらえますか?」
 花嫁様、とかすれた声を聞く。
「支えにさせてください。お互いにあちらを思い出すための縁になれば、きっと忘れずにいられるから」
 降り注いだ幸いに包まれた日々のことを。凍える風のなか、たしかに抱いた温もりを。脳裏に焼きついた笑顔が薄れて消えることのないように。
 エリーゼは唇をかみしめ、無言で地面を見下ろしていた。それからおもむろに顔をあげ、ぎこちなく笑みを浮かべる。
「花嫁様がお呼びとあらば、必ず駆けつけましょう。私でよければ、喜んで」
 その上滑りした声をソニアが気にかける間もない。エリーゼは騎士たちに向き直り腕を一閃した。
「……神殿騎士はお戻りなさい! 戻り次第アーシャと総大司教猊下に報告を忘れないように!」
 その声に押され、名残を惜しむように後ろを振り返りながら、騎士たちはひとりまたひとりとヴィーネゲルンに背を向けていった。草原に彼らの影が消えていくのを見送ってからエリーゼは手綱を引く。馬が正門を潜り抜けると、ソニアの視界いっぱいに硬質な街並みが広がった。
 空に向かって幾筋も伸びていく黒煙、大地を覆う石畳。アーシャラフトが白の町を謳うなら、この町は黒を体現する。広い道を歩くのは素朴な服に身を包んだ女性たちだが、その顔つきは一様に険しく、足取りは早い。ときおり響く金属音のほうへ首を向ければ、槍を携えた重装兵が人通りに目を光らせていた。
 監視でしょう、と小声でエリーゼが言った。困惑を顔に浮かべたソニアに、険しい顔つきで伝える。
「ヴィーネゲルンにはメリアンツ以外の民も住みついていますので。騒動がないか見張っているのです」
「騒動って――」
 言葉は続かない。突如、ふたりの前に転がるようにして子供が放り出されたのだ。小さな体躯を打ち付けた少年はふらふらと起き上がり、ソニアたちの存在を気にも留めずに、ぎらつく瞳で商店の軒先をにらみつける。
 彼を蹴りだしたのは商店の主であったらしい。筋肉質な腕を組み、憮然とした表情で少年を見下ろす。ひげをたくわえたその口が深いため息をこぼした。
「ロルフよう、何度も言い聞かせただろう。お前の親父さんは税金を払えなかった。俺が代わりにそれを払った。その担保にお前のお袋さんから首飾りを預かっている。……どこにおかしいところがある? 返してほしいならお前たちが借金を返せばいいだけの話だろうが」
「っ、返せ、母さんの首飾りを返せよ!」
 聞く耳を持たずに男に掴みかかった少年は、ものの数秒でふり払われる。そのまま硬い地面に転がってうめき声をあげた。
「こりゃあ駄目か。……よう、そこの」
 声をかけられたのはエリーゼだ。なにか、と首をかしげた彼女に、男は少年を親指でさし示す。
「あんた巡回兵だろ? そいつ連れて行ってくれ。もめ事はごめんだ、店の前で騒がれちゃ商売にならん」
「私は、」
「エリーゼ」
 一声で制して、ソニアはロルフと呼ばれた少年にちらと目を向ける。細い手足にはいくつもの擦り傷が残っていた。血が掠れているものは今しがた裂けたのだろう。それでもなお殴りかかろうとする威勢を読み取ると、怪訝そうに眉を寄せている男に言った。
「わたしたちが責任を持って連れて行きます。よろしいですね?」
「ん……ああ、頼むよ」
 ソニアの修道服がもの珍しいのか、男の目が頭からつま先までを滑る。しかし自身が口にした通りもめ事は避けたいようで、追及をするでもなく店内へと戻っていった。
「こら待て――!」
「少年、貴方はこちらです」
 勢いよく立ちあがったロルフの腕をエリーゼが掴む。彼もまた反射的に振りほどこうとするが、固く握られた手は決して離れない。代わりに「なんだよ!」と苛立ちの矛先を彼女へ転換した。その声に応えることもなく、エリーゼはソニアを見上げる。
「どうなさるおつもりですか? 見たところ彼は」
「それは本人に訊きます。馬、降りますね」
 エリーゼの支えを借りながら、石畳に足を下ろす。慣れない乗馬で足が悲鳴を発したが、こらえてロルフのもとへ歩み寄った。彼は動きを止め、遠慮のない猜疑の視線を向けてくる。
 他者を信じることを忘れた目。見たことのある目だった。当然のことだ、かつての自分と同じ眼差しなのだから。
「ロルフ、で、いいのかな。安心して、あなたを帝国兵に引き渡すようなことはしないから」
「こ、鉱山にでも送るのかよ……?」
 エリーゼと顔を見合わせる。すぐに大きく首を振ってみせた。
「わたしたちはメリアンツの人間じゃないの。あなたを傷つけることも、危険なところへ送ることもしない。ただ、お話を聞きたいだけ」
「……なにを」
 警戒は消えないが、言葉に耳を傾けるつもりにはなったらしい。なるべく刺激を与えないようにと声を抑えていくつか問いかけると、ロルフは渋々答えを返した。
 曰く、彼らは先々代の王によって征服された領土に住んでいた民であるという。戦争が終わり次第男手は鉱山や開拓に、女手は農業や奉公に駆り出された。労働力にならない子供たちは親と引き離され、食事の配給もないまま町に捨てられる。親との面会が許されるのはよくて月に一度ほどである、と。
「俺たちみたいな子供が集まって、町の隅でなんとか暮らしてる。けど、風邪にかかった奴からどんどん死んでいくんだ。薬も飯もない、から」
 けほ、とひとつ咳をする。喉が荒れているのか、彼の声は少年にしてはざらりとして低い。無言で話を聞いていたソニアに、見かねたエリーゼが声をかけた。
「彼のような子供は大勢います。ご温情をおかけになっても、全員を救える訳ではありませんよ」
 彼女とて、それが冷徹な決断であるとの自覚がないわけではないだろう。メリアンツは彼女が生まれ育った国だ。ロルフのように家を失った子供の存在を知りながら、自らの力が及ばないことを、痛いほどに実感して生きてきたのだろう。
 ロルフの翡翠色の目がソニアを映す。戸惑いと、反発。そして奥底にある恐怖。傷つけられた子供の目。
「……エリーゼ。わたしは、拾われたんです」
 絞り出すように呟いた。
「運が良かったから、生きている。運が良かったから笑っていられた。……全員を救おうだなんてことはできなくても、この子にその幸運を分け与えるのは、おかしくないことだと思うんです」
「……きりが、ありませんよ」
「わたしの手の届く限り、救います。それだけで十分です」
 その腕は短いから、きっとそれぐらいがちょうどいい。
 ソニアの意思が曲がらないことを察したのだろう、エリーゼは肩の力を抜いた。わかりましたと言う声は存外に柔らかい。
「ともあれ、指定された修道院へ向かいましょう。……聞いていますか、貴方も来るのですよ、少年」
「な、んで、俺が」
 ロルフがやりづらそうにつぶやくが、エリーゼのひとにらみで口をつぐむ。しかしどうしても困惑は隠せない様子で、説明を求めるようにソニアのほうへちらちらと視線を送っていた。
「ねえ、ロルフ。……あなたは女神様を知っている?」
「はあ?」
 ふざけているのかと言わんばかりのしかめ面が返ってくる。解きほぐすように、ほほ笑んだ。
「女神ノーディス。どんな人をもお救いになる、慈悲深い女神様のことよ」