会議の内容は、その日の夕食時に、マティアスの口から宮殿の者たちへと伝えられた。
 驚く者があり、立ちあがって意見する者があった。そうして上がった意見を切り捨て、彼は頑として決定は絶対だと告げた。ソニアが黙々と食事を続けるあいだにも、食器の音に混じって思い出したようにささめきが漏れたが、マティアスやラクスが身じろぎをするとそれらは凪いだように収まっていった。
 張り詰めた空気に責められているようで、ソニアは食事を終え次第席を立った。書庫への廊下を惰性で歩いていると、そのあとを追う足音が響く。
「花嫁さま! すみません、あのっ!」
 特徴的な赤毛のおさげを振り回し、息を切らしながら、やっとのことでソニアに追いついたのはビアンカだった。ソニアは彼女の呼吸が整うのを待って、「……どうしたの?」と声をかける。
「め、メリアンツに、行ってしまうって! 本当ですか!?」
 睨むような、訴えるような視線が返ってきたことに驚いた。少し遅れて、そうさせたのが自分なのだと思い至る。
「本当だよ。明日発つことになっているの」
「……帰って、いらっしゃるんですよね?」
 返答が遅れる。開いた沈黙を、ビアンカは答えとしたようだった。見る見るうちに顔面を真っ青にして、大きく首を振る。
「いっ、嫌です! だって花嫁さまはここにいるって、修道院になんか行かないって決まったんでしょう? だからイルマさんにお仕事を教わったり、調理場にいらしたりしたんですよね!?」
「……ビアンカ」
「そ……それも、全部、無駄だったっていうんですか。もう、意味のないことになるんですか? 花嫁さまがいなくなるなんて、わたし」
 じわ、と、大きな瞳から涙がにじむ。そしてソニアが言葉をかける間もなくこぼれ落ちた。
 涙が止まらない感覚をソニアは知っている。そのはずなのに何も言えず、声を上げずにしゃくりあげる彼女をただ、見ていることしかできない。
「――聞き分けのないことを言うものじゃないわ、ビアンカ」
 横合いから声がかかる。同じ道を歩いてきたのはイレーネだ。
「総大司教猊下のお決めになったことでしょう。駄々をこねないの。花嫁様がお困りになるだけよ」
「だ、だって、花嫁さまともう会えないんだよ!? イレーネだって嫌でしょう、わたしたちみんな、」
「ビアンカ!」
 イレーネの一喝にビアンカはぎゅっと目を閉じる。唇を震わせながら、言った。
「……花嫁さまが、だいすきだもの……」
 悼むようにイレーネは目をつむり、きつく眉を寄せる。長く細く息を吐きだす。長いまつ毛がふたたび静かに上がりきったとき、彼女の瞳には鮮烈な光があった。
(……そうしてきたんだ、今までも)
 感情的な部分に蓋をして、そのいちばん純粋なところだけを取り出す。そうして喉を通り抜ける言葉だから、彼女のそれは鋭く射る。ときには拒絶すらするかのごとく。
 ビアンカの無言の涙は、やがてすすり泣きへと変わる。彼女が鼻をすする音がやけに耳に残った。
「……ビアンカ、イレーネ、」
「“ごめんなさい”だなんて」イレーネが弾かれたように顔を上げる。「絶対に仰らないでください。この子を泣きやませることができないなら、それを言う権利なんかあなたにはないんです。……行くわよビアンカ。仕事が残っているでしょう」
 ビアンカを引きたてて去っていくイレーネを、無言のままで見送った。ぽつりと残された廊下からもやがて足音が消える。
 ソニアはひとり、ごめんなさいという言葉を反芻した。イレーネが制していなければ口にしていたことだろう言葉を。しかしソニアの下した決断は、他者に赦しを求めることを認めない。なぜなら自分は、彼女たちを切り捨ててでもラクスを取ることを選んだのだから。
 全員を幸せにしようなどと、贅沢な望みは叶わない。だから選ぶ。考え抜いた道を。
 後悔のないように。



 今度こそ書庫に人影は無かった。ろうそくで手元を照らしながら、辿りついたのは結局メリアンツのことを記した本の前だった。
 メリアンツを意識する前にもどこかでその名を聞いたことがある。思いを馳せれば、それはイルマから先代の花嫁のことを聞いたときなのだった。歳の離れたアーシャとの婚儀を経た彼女は、その後すぐにメリアンツの修道院へと渡ったという。そのころは穏健な皇帝のもと、二国間の衝突もなかったとエリーゼから教えられていた。
 彼女との連絡は取れていない、という。消息も不明であると。
(それでも自分を憶えていて欲しいって思うのは、ずるいこと、なのかな)
 十年もすれば、過去の存在になるだろう。アーシャラフトに住んでいた花嫁は、メリアンツとの関係を取り持つために他国へ渡っていった。そう誰かの記憶に残るぐらいが関の山だ。
 一抹の寂しさを紛らわすべく、書棚から一冊抜き取っていく。隣国にまで持っていったら怒られるだろうかと考えた。読む者は誰もいないだろうが、そもそもこれは教会への信頼によって集められた書物だ。手慰みにページをめくっていると、ふいに書庫の明かりが増える。
「出発の前日にまでここにいたのか」
 耳に入った声に身を固くする。書庫の床を踏む足音がやけに鋭く響いたように思えた。彼は引き連れていた神殿騎士たちに外の見張りを申しつけると、ソニアのもとへ歩み寄る。
「ラクス」
「ここに来る途中で、ひとり、修道女が泣いていた。僕を見つけて、どうして花嫁を止めなかったのかと食いかかってきたが……あれは」
「……きっと、ビアンカです。わたしの、初めてのお友だちで」
 彼女と初めて言葉を交わしたのも、書庫へと通じる廊下の途中だった。同じ道で彼女を泣かせてしまうなどとは思ってもみなかったが。
 ラクスは書棚に手を当て、古びた木目に指を這わせる。探しているのは本ではなく、言葉だったのかもしれなかった。彼の腕が下りていったとき、自分の顔に彼の目が向けられているのを感じて、ソニアはわずかに動揺する。
「一言でいい。……きみが行きたくないと言うなら、戦える。僕は」
 自分の顔がくしゃりと歪むのがわかった。
 それを彼は知らないだろう。だからソニアは耐えることをしないのだ。
 アーシャとしての生を選ぶことは、名誉だろうか栄誉だろうか。飾りとして置かれた少年が、伝説の聖アーシャのように神殿騎士たちを率いる姿は確かに民の心を動かすだろう。けれどなによりその花嫁は、彼が剣を握ることを望まない。
「言いましたよね。わたし、あなたのためであれば何だって捨てられるって。あなたがわたしを卑怯だと言っても、わたしはメリアンツへ行きます」
 ビアンカを傷つけたように、他人を。そして自分でさえも。完全に振り切った訳ではないから痛むけれど、彼を喪う痛みに比べれば軽いものだ。胸の一番深いところから黒く塗りつぶされていくような絶望を、もう二度と繰り返さないと決めていた。
 ゆるやかに呼吸をして、ソニアは続ける。
「……それにわたしは、決められた道を歩くことを、不幸せだなんて思わないんです」
 たとえそれが教会に、そして帝国に定められた道であろうと、選び取るのは自分だった。そうして辿りついた先ならばどこでも、苦難も、幸福も、同じように転がっているのだろう。それを苦難とするか、あるいは幸福とするかを託されるのは、道を歩む者自身でしかないのだ。
 ろうそくの灯火がくねる。長く残ったろうは書棚にその影を映し、頼りなさげに揺れている。
 ぽっかりと空いた沈黙のなか、ソニアは大きなため息を聞いた。こわばっていたラクスの顔から力が抜けていく。残ったのは呆れだろうか。
「強情だな、きみは。……いや、それはわかっていたことか」
 前触れもなく、ラクスの手が差し伸べられる。ほのかな光が細い指先を薄く照らした。小指の脇にのぞくのは紛れもないインクの痕で、彼が過ごしてきた日々を思わせる。ペンだこを経た中指の節の皮だけが厚く堅い。
(手を伸ばす、ということは)
 ソニアは思う。それは求める行為であり、繋げるための手段だ。足音に耳を澄ませば道を歩むことのできる彼が、他人に触れるための媒介。しかし今は。
(……救われる)
 救われてしまいそうになる。
 差し出された手を握って、嫌だと叫んで、閉塞した状況を嘆けば、ソニアの心にはひとときの安寧が訪れるのだろう。けれどラクスが胸に抱いているのは違うものだ。より深く、井戸の底に沈んだ真珠を拾いあげるように、心を締めつける原因そのものまで救おうとする。その度にてのひらが傷ついていこうとも、何度も、何度も水をくみ上げる――だからこそソニアは首を振る。
 それが見えたわけではないだろう。手に触れるものを得られないままのラクスが、唐突に口をひらいた。
「迎えに行く」
「……え?」
「必ずだ、必ず迎えに行く。……そのときは」ぴんと張った手をぴくりと動かす。「この手を取らせる。きみを犠牲にはさせない。だから、待っていてくれ」
 真摯な瞳に少女が映る。唇を震わせた頼りなさげな顔が、瞬きの間に消えた。
 抱えきれないほどの幸せをもらった。生きることを許されたから呼吸をした。望むことを許されたから手を伸ばした。その上待つことすら許されてしまえば、自分はきっと焦がれてしまう。求めてしまう。身を切ることができなくなってしまう。
 ――諦められなく、なってしまう。
「……っ」
 嗚咽を漏らせば彼は気付くだろう。歯を食いしばって背を向ける。
 わだかまりを振り切るようにして書庫を出たソニアの胸の上で、銀薔薇が鈍い輝きを放っていた。


     *


 書庫へと続く廊下を、点々と燃える松明が照らしている。
 どこからか吹き込む風を受けて灰色の髪がたなびいた。顔にかかったそれをかき分けて、エリーゼは廊下の隅に目を落とす。
「……どうにか、ならないんですか」
 答える声は無かった。直立したままのレオンハルトがちらと彼女を見て、興味を失ったかのように顔をそむける。脈絡もない言葉であったが、彼とてその意味を理解していないわけではあるまい。自然エリーゼの声にはいくらか苛立ちが混ざった。
「もっと、なにか。花嫁様が行かずともいい方法が、あったんじゃありませんか。何故メリアンツになど行かなければならないんです。どうして」
「……エリーザベト、」
 制する声は火種になった。頭に血を昇らせたエリーゼが、兄を見上げる。
「あの方がどれだけの思いでここにいらっしゃったか! 毎晩ここで、報われるかも分からない勉学を重ねて、やっと認められたのではありませんか!? 本を抱えて、睡眠すら犠牲にして! ……あの方の努力を、私は知っているのに……!」
 声は徐々にしぼんでいった。表情一つ動かさない相手と言葉を交わすことに空しさを覚えたためだ。壁に怒りを叩きつけているようなもので、反響を感じるばかりで胸中は晴れない。やりきれない思いを視線にこめて送ると、レオンハルトはこれ見よがしに長く息をついた。
「……思いあがるなよ、エリーザベト」
 一言。エリーゼが眉を跳ねあげる。
「なん、と?」
「お前はいつからそんなに偉くなった。いつアーシャと、その花嫁の決定に意見できるようになった?」
「そういうことでは――」
 軽蔑の目が反論を封じる。戸惑いが先に立って、エリーゼは言葉を飲みこんだ。そんな彼女を見つめて、レオンハルトは首を横に振る。
「もう、家に帰れ」
 ――聞き違いかと思った。
 ひとつ、ふたつと瞬きをくり返しても、彼の表情は変わらない。冷淡といくばくかの哀れみを瞳に宿して口をひらく。
「お前には神殿騎士は務まらない。メリアンツに戻れ」
「ま、待ってください、どういうことですか」
「言わねば分からないか?」
 言い訳を認めない響きがあった。声を漏らすこともできずに視線を揺らす。
「ここには、お前に出来ることなど無い。もう一度言うぞ」
「にい、さ、」
 空気が濁る。息ができない。聞きたくないなどと顔をそむけることは許されなかった。
「――もう家に帰れ。エリーゼ」