向かうのは守ろうと決めた人のもとではなかった。
 これからソニアが相談もなしにすることを、身勝手だと彼は言うだろう。自らを犠牲にしようとするのも、何も告げずに引きかぶろうとするのも、自分にやれることをやり遂げたという自己満足を得たいがため。向きあいたくないから、それに都合のいいように名前をつける。
 守ること。
 それが愛だと。
 ラクスと顔を合わせて意志を伝えたとして、なお揺らがないでいられる保証がなかった。だから卑怯な方法を取ることに決めた。
 足を急かし、辿りついた部屋の前でほんの少しだけ息を整える。目を丸くした神殿騎士の青年がソニアを見たが、もはや気にも留めない。ノックの音を抑える余裕はなかったが、対照的に返ってきたのはどうぞという柔らかな声だった。身を固くし、一言断ってから扉をひらく。
「マティアス様」
 老齢の総大司教が執務机から目を離し、おやという顔をした。
「お話がございます。至急のことです。どうか、人払いをお願いできませんか」
 事情を話すには、ここではあまりに人目についてしまう。ナヴィア宮殿にいる以上は彼の耳に届く可能性も気にかかった。
 ソニアの剣幕に不穏なものを感じ取ったのか、マティアスは理由を問わない。衣の裾をいなしながら立ち上がってゆったりとほほ笑んだ。
「……ちょうど町の教会を回るつもりでおりました。花嫁様、ご同行いただけますかな」
 総大司教付きの騎士を三人引き連れ、マティアスはアーシャラフトの小さな教会へとソニアを導いた。
 ソニアが町に出ることは、ほとんどと言っていいほどなかった。ラクスの行動範囲がナヴィア宮殿とアーシャラフトの大教会のみに限られてしまうため、花嫁もまた宮殿のなかを行き来するのが生活の主体となっていたのだ。
 そのためか、規模の小さな教会に総大司教であるマティアスが直々に訪れるのを目の当たりにしたときは驚きと感嘆とが同時に去来した。彼が数々の教会を定期的にめぐっているというのは本当のようで、彼を迎えた司祭の挨拶には慣れ親しんだふうがあった。続々と集まった町民の前で彼が説教を終えると、教徒たちは満ち足りた様子で教会をあとにしていく。
 それを見送って後、がらんどうになった聖堂で、マティアスは騎士たちに人払いを命じた。悶着もなく了承の意を示した彼らが外に配備されるのを、ソニアは落ち着きのない様子で待つ。そうしてやっと彼の顔がこちらを向いたので、はっとして佇まいを治した。
「花嫁様、これで人気はなくなりました。他に気にかかることはおありですかな」
「いいえ、……ありがとうございます、マティアス様。突然のことで申しわけありません」
 ソニアの心にもいくらか落ち着きが戻っていた。非礼を謝るとマティアスは首を振る。
「私のもとへいらっしゃったということは、それほどの訳があるのでしょう。お話しいただけますか?」
「……協定のことを。先日結ばれた、メリアンツとの不可侵協定のことをお伺いするために参りました」
 マティアスは目を細めて、「アーシャからは」と問う。ソニアが首を振ると、彼は深く息をついた。
「ならば貴女が気に病むことではありますまい。しかるべきときにはアーシャがお話しになる」
「……それでは遅いのでしょう?」
 ソニアの絞り出すような声に、マティアスは黙りこんだ。
「わたしがメリアンツへ行くことを条件とした協定だと耳にしました。もう噂になっていると」
「噂、ですか。ふむ、信憑性の薄い噂話を、貴女は信じなさると」
「これが嘘だとしたら、……アーシャがわたしに隠す理由がわかりません。協定は少なくともわたしに関係のある内容だった、違いますか?」
 言いながら、ソニアには確信があった。
 それが噂になっているかどうかは定かではないが、カミルが口にしたのは、おそらく本当のことだ。彼が噂に流されるような人間には思えないし、それはラクスが頑なに口を閉ざす理由にもなる。
「マティアス様」
 縋るように呼ばう。すると、マティアスは観念するように首を振った。
「……貴女の仰る通りです、花嫁様。協定は貴女を橋として交わされる。それはアーシャラフトがメリアンツの支配下に置かれるも同義、しかし」
「――戦争は、避けられる」
 マティアスは瞠目し、やがてゆっくりとうなずいた。
「私には責任がございます。アーシャラフトの民を、そして教徒たちを危機より遠ざけ、このアーシャラフトを安寧のもとに置くこと――これは私が総大司教に選ばれたときより胸に置く、女神への誓いです」
 決意であり、懺悔であった。許しを求める声でありながら、そこには老獪さをちらつかせる響きが混じっていた。彼はあくまでも教会の頂点に立つ者であり、彼が守るのは教会そのものだ。女神とその象徴を守るのがアーシャであるように。
(許すだなんて、そんなこと……考えてもいない)
 不可侵協定を結ぶことで、アーシャラフトは一応の庇護を得る。戦う道とそれを避ける道、どちらも苦しみが伴うなら、せめて血を流す人間が少ない方がいい。
(……違う)
 余計なことは考えない。それは小さな身には重すぎるものだ。
 ソニアが願うことはただひとつ。たったひとりが、傷つかないでいられるように。
「マティアス様。わたしに、会議に出る権限はありますか」
「無論、花嫁様がそれを望まれるとあらば」
「ならば、教会の代表の皆さんと、アーシャを集めてくださいませんか。協定の発効が二日後ならもう時間は無いはず。今すぐにでも会議の場を設けなければ……マティアス様、どうか、お願いいたします」
 その後のマティアスの対応は迅速だった。教会の外を見張る騎士たちのうち一人を宮殿に走らせ、自らも急ぎ自室へ向かう。ソニアが身支度をして会議室に姿を現すころには、教会の処務を司る大司教とマティアス、そしてラクスが一堂に会していた。
 部屋の最奥にはマティアスとラクスが、その脇から大司教たちが座っている。入口に近い一席に腰を下ろすと、彼らの探るような視線が降り注ぐ。そのなかでひとり、湖のような瞳でソニアのほうを見る者がいた。
 ラクスにはなにも告げていない。彼がソニアに顔を向けるとすれば、それは、会議に同席していることを不審に思っているか、もしくは責めているかのどちらかだ。ソニアは彼らの視線を受け止め、背を曲げぬままマティアスの言葉を待つ。
「……議題はすでにご想像のとおり。先日の協定について結論を下すことといたしましょう」
 会議の開始に伴ってマティアスが読み上げた協定の内容は、彼が細部を省略したためか簡潔だった。
 曰く、軍備、その他戦力及び国民の暴動を含む、相手国への侵略的行為とそれに準ずる抗争の禁止。条件はアーシャの花嫁のメリアンツへの移住と、それに伴う女神信仰の布教活動。どちらかが破られた場合、この協約は効力を失うものとする、ということだ。
「協約を受け入れるか、それとも侵略を視界に入れながら破棄するか。意見をお聞かせ願いたい」
 マティアスがぐるりとその場の全員をうかがう。手があがるのは早かった。
「私は反対です。協約を結んだとて、アーシャラフトは牙を抜かれる結果にしかなりません。メリアンツ方に無理難題を押し付けられる恐れもある」
 言葉の継ぎ目を見はからい、すぐに他の大司教が立ちあがる。
「ならば神官や民に戦えと仰るのか? 神殿騎士だけではメリアンツの勢力に対抗することなど不可能でしょう」
「そ、そもそも女神を他国に跪かせることこそ、背徳の証ではありませんか」
「信仰心だけではなにも解決しない! 現実を見てはいかがか!」
「あなたは我々に信仰を捨てろと仰るのか!?」
 大声と糾弾。罵倒にも近い怒声だった。四方から飛び交うそれらを、ソニアは醒めた心地で俯瞰していた。
 本音と建前が交錯し、保身も混じって醜さが浮き彫りになる。ひとりが声高に主張すれば、誰かが束になってそれを否定する。誰もかれも、他人の言葉に耳を傾けはしない。本来機能するはずの会議は、空回りするばかりで意味を為していなかった。
 みな追い詰められているのだ、とソニアは再度理解する。協定の発効までに時間を与えなかったことも、あるいはメリアンツ方の目論見の一部であったのかもしれない。取りまとめる者がいなければ事態は混迷するばかりだ。期待を込めて顔を向けた先のマティアスは、今まさに腰を上げようとするところだった。
 轟音が駆け抜ける。
 体をびくつかせた大司教たちが一斉に音の方向を向いた。握った拳で机を叩いたマティアスは、息をついたあとにふたたび席に着く。
「もうよいでしょう。考えなしのいさかいに意味を見出すことほど愚かなこともない。……さて、アーシャ。最後にあなたのご意見を伺いましょうか」
 そのときに至るまでうつむいていたラクスが、導かれるようにして顔を上げる。彼の瞳が、二度、またたいた。
「……最後。ならばひとつお訊きする、マティアス殿」
 その名を呼びながら、彼が顔を向けているのはマティアスではなかった。
「彼女が。……私の花嫁が、何故ここにいるのかを」
 冬空の瞳に少女は映らない。けれど確かにソニアを見ていた。その内側にあるものを、心や魂と呼ばれるものの類を見透かすように。開きかけたソニアの口は、マティアスの声によって塞がれる。
「花嫁様はご自分で辿りつかれたのです。私の口からはなにも申し上げておりません。そもそも、花嫁様の御身の話をするというのに、ご本人がいらっしゃらないというのも異なことかと存じますが?」
「……それでは、きみに問う」
 指す先は自明だ。ミセラ・ファルツの名を呼ばなかったのは意図されたことなのだろうかと頭の端で考える。
「望みはなんだ。自分を犠牲にすればアーシャラフトが救われる、などと、夢物語を信じているのか」
 アーシャと花嫁の、どちらも目を逸らそうとはしない。黙したソニアにラクスは言葉を連ねる。
「想像できるか。重税を絞り取られる農民、飢えに苦しむ町民、届かない祈りに絶望する教徒たち。それが現実に起こりうるということを。アーシャラフトはもはや白の街ではなくなり、誰もが怨嗟を口にしながら虚ろな目をするだろう」
 答えろ、とラクスは言う。
「――それでもきみは、すべて自分の選択だと胸を張っていられるのか」
 残酷な問いかけだった。けれどそれは、今のソニアにとって安堵を呼び起こすものだった。
 怖くない。怯えもしない。彼がアーシャとして女神と国を守ろうとするなら、その思いは決してソニアの胸を揺らさない。
 ソニアは立ち上がる。会議室を訪れて、初めて、その言葉を発する。
「万が一の可能性に、人々の命を賭けるより。苦しくても、生き延びる道を選びます」
 誰もが固唾を飲んで彼女を注視する。しかしソニアが見つめるのはただひとり、ラクスだけだった。
「……わたしは花嫁です。アーシャの花嫁、そしてなにより、あなたの妻です」
 いつかと同じ言葉を、もっと残酷な意味で口にする。
「あなたひとりを守れれば、どんな犠牲を払っても、後悔はしません」
 ともすれば、狂気だった。
 視界がくらみそうになる。喉はからからだ。
 決意という言葉で背負いきれないものがあることは知っている。そんなときに思い出すのは、ラクスの語った女神再臨の神話だった。毒を飲み下して死地へと赴いたノーディスという名の少女。――今なら分かる。彼女は犠牲を望んだわけではない。ただ、愛するひとがいただけだった。
「……話はつきましたな。では」
 マティアスが重い口をひらく。
 もたらされた議決は、ラクスの眉に深いしわを刻んだ。