書庫の机には、開かれた書物が所狭しと並べられていた。そのどれもが題名にメリアンツ帝国やそれを象徴する語句が冠されたものである。午前中はまったくと言っていいほど書庫の利用者が訪れないのをいいことに、ソニアはその場を半ば独占した状態で、片っ端から本を広げているのだった。
 気候、民族、成り立ち。メリアンツについての基本的な知識ならばすでに頭に入っている。しかしそれでは足りなかった。向上心に少しの理由づけが加えられればおのずと勉学には身が入るもので、滝のような情報を取りこんでも、整然と自らのなかに吸収されていくのを感じていた。
「大陸の東部一帯を掌握、それから周囲の国々を吸収しつつ西進。他民族が入り乱れたために皇帝の血脈は混濁しており、現在の皇帝は初代皇帝の血を引いていないも同じ……」
 ぶつぶつとひとりごとを言い、読み終えたものから閉じていく。一度口にするとしないでは効率に大きく違いが出るのだ。気にかかったことがあれば紙に書き留めて次の本、また次の本と読み進めていくので、整理もせずに積み上げられた本は机の上に山のように重なって揺れていた。
「アーシャラフトと隣り合っていた国を滅ぼしたのが、ええと、」
「――637年」
 呟きを中断する声にどきりとして跳び上がる。
 おそるおそるふり返ると、入口の扉に手をかけたカミルが首をかしげていた。彼は床を踏み鳴らして書庫に入りこみ、肩をすくめる。
「ラニスの戦い。大陸史上初めて長弓を戦場に取り入れたメリアンツが、接戦の末に勝利……ってとこか」
「カミル、いつから」
「あんたが黒表紙の本を畳んだあたりから」
 ならばかなり前からだ。ソニアが机の上の本を読みふけりながら夢遊病者のように歩きまわっていたのを、声もかけずに眺めていたことになる。
「……趣味が悪いわ」
「そうだな」
 悪びれた様子もなく言って、彼は書物の川のなかをうろつき始める。表紙に目を向けたり、ページをめくったりしてはにやにやと笑っていた。他人がいる手前、先ほどと同じようにひとりごとを口にするわけにもいかないので、ソニアはむっと唇を引き結んで立ちつくす。どうした、とカミルが顔を上げた。
「さっきみたいに勉強していていいんだぞ。何年、メリアンツが侵略。何年、メリアンツが開拓、ってな」
「わたしをからかいにここへ来たんじゃないでしょう?」
「そりゃあもちろん、俺は俺で用があるんだよ」
 カミルは史料の詰まった棚に歩み寄る。一列がすっかり空になってしまったそれを笑みの消えない表情で眺めていたが、突如まぶたを跳ねあげた。おい、とぞんざいにソニアを呼ぶ。
「もしかして、メリアンツ以外の本も読んでるのか?」
「え」
 意図が取れずに顔を上げると、彼はがら空きの列の一段上を指し示している。ソニアは思い当たる節がなくきょとんとしていたが、ややあって声を上げた。
 先日、筆者のわからない日記が隠されていた書棚だ。返す機会を失ったまま、今もまだソニアの部屋に置かれている。その日記を取り出す際、ぎゅうぎゅうに詰められていた書物を一度取り出して整理しなおしたため、並びが変わってしまっているのだろう。
「借りた本が入らなかったから詰め直したの。ごめんなさい、順番がおかしかった?」
 カミルは穴があくほどにソニアの顔を見つめて、「いや」と首を振った。「ここの本、借りる奴も整理する奴もいないから、いつもばらばらなんだよな。綺麗になってたから驚いた」
 聖職者にとってアーシャラフトの歴史は女神を語るための伝説であって、物語の類でしかないのだろう。厳粛に検閲された棚の中身には価値が見いだせないのか、もともと利用者の少ない書庫の中では、歴史の書棚の前に立ち止まる者などほとんど見かけない。
(……カミルぐらいだ)
 彼はなにかを託すように歴史書の列を見つめる。背表紙のひとつひとつに親や友人の名が刻まれているかのように。瞳に映るのは諦めと切望――それはまるで望郷の念だ。
「ねえ、……あなたは、どこで生まれたの?」
 唐突が過ぎたらしい。カミルが無言で目をしばたかせるので、取り繕うように付け足した。
「れ、歴史のことをよく知っているみたいだから。アーシャラフトのことだけじゃなくて、さっきのはメリアンツ史だし、今見ている列は大陸の外のものでしょう? どこの出身なのか気になって」
 しどろもどろな言い訳が通じたのかは定かではない。カミルは腰に手を当て、ソニアを覗き込むようにしてにやりと笑う。
「それで俺に興味が湧いた、と。いいの? あいつが怒るよ」
「か、カミルっ!」
「はは、冗談だって」誤魔化すようにひらひらと手を振る。「ご期待に添えずに申しわけないけど、俺はアーシャラフトの生まれだよ。まあ、母親の事情でメリアンツに移り住んでいたけど、それからまたこっちに戻ってきた。……いいとこだよ、ここは。食事には困らないし、礼拝とお仕事さえすれば一日中書庫にこもっても叱られないし」
 つらつらと語る口調に寂しさが混じるのは何故だろうと考える。生まれ故郷よりもメリアンツのほうに愛着があるためだろうか。
 そんな考え事をしていたから、彼の言葉が尻上がりになったことに気付かなかった。返答を待つような間にはっとして顔を上げる。なにごとか尋ねられたのだ。
「ご……ごめんなさい、なに?」
「だからさ、いつあっちに行くの、ってこと。協定の発効が二日後なんだろ?」
 ぽかんと口を開けてしまう。突然異邦の言語を聞いたような感覚だ。脈絡には沿っているはずなのに理解ができない。なにを言っているのだろうと戸惑っていると、カミルは顔をしかめた。「……もしかして、聞かされてない? 当の本人が」
「待って、あっちってどういうこと? 協定って……」
 懸命に頭を回す。思い当たるのはアーシャラフトとメリアンツの間に交わされた不可侵協定のみだ。尋ねてみると、それで正しいらしい。しかしそこに自分の名前が出てくる理由がわからない。
 カミルには安易に口にしてしまったことを悔いる様子があったが、一度食いついてしまった相手を諦めさせることは不可能だと判断したのか、ソニアの質問には素直に答えた。
「メリアンツ方から示された協定の内容ってのが、不可侵を約束する代わりに、アーシャの花嫁をメリアンツの修道院に住まわせるってことだったんだと。まあ俺も噂で聞いた程度だけどさ、あながち嘘じゃないとは思う」
「……どうして、わたしなんかが」
「なんか、ねえ。あんたまだ自分の立ち位置を理解してないわけ」
「分かってる、ちゃんと分かってるけど、」
 早口でソニアが返すと、カミルは珍しく眉をつり上げた。
「いいや分かっちゃいない。よく聞けよ、総大司教とアーシャ、ここがほぼ同位で教会の頂点。次が誰か分かるか? ……お前だよ、アーシャの花嫁。その立場にはそれだけの価値があるんだ」
 語気が荒い。怒らせてしまっただろうか、と不安になると同時に、申しわけなさが襲ってくる。分かっているつもりと理解していることとは全くの別物なのだ。それは知識と経験の差に等しい。
 自らが花嫁であることはよく知っている。その重みも、立場も。けれど花嫁は、その一歩先へ行かねばならない。
 ソニアの胸の内を感じ取ったのか、カミルは息をついてから続けた。
「宮殿のなかにずっと閉じこもっているから鈍いのかもしれないけどな、アーシャラフトってのは大きい国だ。国だけじゃない、この教会は膨大な数の信者を抱えてる。……そのうちの三番目だ、分かるだろ? あんたは十分、国ってものを背負うところにいるんだよ」
「……だからわたしはメリアンツに行かなくちゃいけない。それは、」
 途端に意味が通じる。不可侵協定の言葉の意味、そして、花嫁がメリアンツに赴く意味。歪んだカミルの顔がその証になった。
「人質、ということ……?」
 女神と国の守護者であるアーシャに従う花嫁は、それ自身が女神の象徴でもある。そんな花嫁を他国に送るということは、アーシャラフト、ひいては教会の全面的な屈服を意味する。二国間の不平等を論じるまでもなく、自動的にメリアンツの要望を飲まざるを得ない状況がつくり上げられているのだ。
 理解すれば、それはラクスの胸中へと直結する。彼が協定のことを口にしなかったのは、抗おうとしているからだ。ソニアが教会に利用されないようにという思いを、かつてのようにアーシャラフトから離すこととは別のかたちで果たそうとしている。そのことを思えば今の状況は皮肉なものだった。
(……ああ)
 守られている。――守られていた。
 国境から帰還したラクスに、なんて残酷なことを言ったのだろうと自らを嫌悪する。お前のためだと言わなかったのは彼の優しさだ。なにも知らない自分が吐露を促したことを、彼はどんな思いで受け取っていたのだろう。
 苦しいのは守られたからではない。もし立場が逆ならば、自分も同じことをした。それが確信できるからこその痛みだ。
 胸の奥に渦巻いたそれを抑えつけるように、深く息をした。それからてきぱきと本を畳み、端から片付けていく。カミルは元通りの木目を見せだした机とソニアとを見比べて、おいと声をかけた。最後の本を書棚に戻し終えてから、ソニアは「ありがとう」と彼の目を見て伝える。
「あなたが教えてくれなかったら、なにも知らないままだった。知らないままで優しさに甘えてた。……だから、ありがとう。わたし、やっと頑張れる」
 本を読んでメリアンツの知識をつけることが、根本的な解決にはならないことを知っていた。じっとしているのが怖くて、急かされるように書庫へと足を向けていたのだ。ほんの少しでも、昨日よりも役に立てる自分であるために。けれどラクスの思いを知った今、悠長に本のページをめくっているつもりはなかった。
 限界まで目を瞠って、それからカミルは力なく首を振る。
「……利用されること、分かってて行くのかよ。状況を知ったところであんたにはなにもできないし、それはあいつも同じだ。国の前じゃ無力な、ヒトだ。あれだけの本を読めば分かるだろう?」
 ならば他にどんな道があるのかと、尋ねることをしなかった。
 どこかに違う道があって、それを選ぶ権利が自分にあったとしても、進むのは自らの決めた道だけだ。無力感と絶望に叩き潰されても、選んで、歩んできたこと自体に後悔はしない。
「歴史を変えられなくても」
 生に縋りつくときも、認められたいと願うときも、いつだって視界に入るのは目の前のことだけだった。
「大好きな人をひとりでも救えるかもしれないなら、わたしは厭わない」
 あの人の“一番”を守る、手助けができるのなら。
 胸の奥が震える。望み続けた自分の生の証。理由。役目。
 ――掴めるのなら、もう迷いはない。