代表が返ってきたとの報せを受けて、ソニアは顔を上げた。それまで目を落としていた書物をぱたりと閉じ、急ぎ立ち上がる。彼女の護衛を引き受けていた神殿騎士の青年が書庫の扉をひらくのに礼を告げてから、早足で廊下を抜けた。
 程なく辿りついたのはラクスの自室で、その前ではレオンハルトが番を務めていた。許可を願うように彼の顔を見上げると、眉間にしわを寄せられる。
「総大司教猊下との協議を終えたあとだ。面会はあとに、」
「……いい、レオン。入れてくれ」
 彼が言いきる前に、部屋の内側から疲れた声がした。ソニアは躊躇し、レオンハルトもまた苦い視線を扉の向こうに送る。しかし部屋の主は発言をくり返すことはしなかった。ややあって、レオンハルトが静かにうなずく。
 失礼します、と声をかけて、ソニアは部屋に足を踏み入れる。壁に背を預けていたエリーゼが体を起こし、頭を下げた。
 ラクスは中心の机の向こう側にあるソファに背を預けていた。表情は険しく、協定の内容やマティアスとの協議の内容が芳しくなかったことがうかがえる。座っていい、との許しを得て、ソニアは向かいのソファに膝を揃えて腰を下ろした。
「お帰りなさい、ラクス。今日はお疲れさまでした」
「ああ」
 返答に力がない。
 どう言葉をかけるべきか、と迷っているうちに、ラクスは長く息を吐き出して背を丸めた。アーシャラフトに帰り次第着替えを済ませたのか、彼が着ているのは普段着としている衣だ。ソニアのものより幾分か整えられてはいるものの、細かなしわが刻まれている。
「すまない。思っていた以上に疲れているらしい」
「……内容は伺わない方がいいでしょうか?」
 今度こそ言葉は返ってこなかった。ソニアが困惑してエリーゼのほうを見上げると、彼女は顔をしかめた末に一歩だけ前へ出る。その足音を聞きつけてラクスが首を振った。
「エリーゼ、いい」
「ですが、アーシャ」
「なにも言うな。……彼女に知らせる必要はない」
 そう言ったきり彼は口ごもる。隠された、という事実が胸をえぐり、ソニアも思わず下を向いた。
 すぐに訪れたのは後悔の念だ。なにか他に話題を、と頭のなかを探って、思いついたのは新たな悩みの種でしかなかった。逡巡したのちに心の奥でうなずく。
「ラクス、お伝えしたいことがあるんです。昨日の夜に書庫へ行ったときのことで」
 書庫で見つけた日記とその経緯とを手短に話す。件の日記を持ってこなかったことを悔やんだが、記憶に残っている範囲でその記述を口にした。
 眉を寄せながら耳を傾けていたラクスが、しばらく考え込む様子を見せる。
「ファルツ家が刺客を放った、ということか? ……なんのために?」
「わかりません」
 本人でないとはいえ、ミセラ・ファルツという少女をアーシャの花嫁に据えることにおいて、アーシャラフトとファルツ家の利害は一致している。あえて刺客を送って花嫁を殺害する理由はないのだ。刺客の主の目的が花嫁の交代ならば、ファルツ家の失墜を狙う他の貿易商を疑った方が遥かに生産的だろう。
「確証はありません。でも、一概にでたらめだとは言い切れない気がしたんです。刺客がわたしを狙っていたことを知っている人はあまりいないはずですし、その他の記述もすべて正確だったので」
 そしてあくまでも客観的、断定的な口調が、その記述にいくらかの信憑性を与えていた。ラクスは小さくうなって、そうだなとうなずいた。
「五日後、ファルツ公爵がここにお越しになる。そのときに訊いてみよう」
「ありがとうございます。すみません、お手を煩わせてしまって」
「いや、きみの言うことを無視するわけにはいかない」
 疑問符を浮かべたソニアの心を読み取ったのか、ラクスは言葉を詰まらせる。それからゆるゆると首を振った。
「毎日調理場や書庫を訪れていることは知っているし、修道女からの信頼もある。マティアス殿も、きみの働きを認めていらっしゃった。よく頑張っている、と思う。そうするようにけしかけた僕が言うのもおかしいか」
「い、いえ! 嬉しいです、……とても」
 付け加える口調は自然と暗くなった。
 もちろん、褒められることが嬉しくない訳がない。教会に受け入れられたときから、形だけの花嫁にはなるまいと勉学に励んできたのだ。アーシャラフトを出ていったミセラに引け目を感じることのないように、花嫁らしくあるように、と。
 しかしそうして歩み続けてきたのにも目的がある。それを果たせないままで、手放しには喜べないのだった。
「あまり、嬉しそうには聞こえないな?」
 ラクスの問いかけに、ソニアはためらってから口をひらいた。
「わたしが勉強をするのも、修道女のみんなと一緒に働こうとするのも、あなたの役に立ちたいからです。褒め言葉はもちろん嬉しいけれど、わたしが本当に聞きたいのは、あなたの重荷、抱えたものです。分け合って、少しでも軽くするために、頑張っています」
 解決はできないかもしれない。――けれど、きっかけを与えることはできるかもしれない。そのための努力だ。
「わたしの心を傷つけないための秘め事なら、いりません。……わたしは花嫁です。あなたの、花嫁です」
 言いきってから、深く息を吸う。重い空気を吹き飛ばした心地はしなかったが、伝えたいことは伝えたつもりでいた。呆然としていたラクスが返答に困って視線をちらつかせるのを、両の手を握りしめて待つ。
 しばらくして、彼は口元だけで笑った。
「ああ、やっぱり、……」
「え?」
 小声、かつ、早口の言葉を聞き逃す。しかし直後に彼が見せた、哀切を飲み下した表情だけが色濃くソニアの脳裏に焼きついた。
 問いかけを重ねようとしたソニアを遮るように、ラクスは「五日後だ」と強い口調で言った。
「ファルツ公爵に例の件をお訊きするときには、きみにも臨席してほしい。コルネリア夫人が亡くなった以上、きみも公爵に顔を合わせておくべきだ」
「ラクス、」
「それまではいつもどおりに過ごしてほしい。……エリーゼ、彼女を部屋に」
 了解の意を示したエリーゼに導かれて部屋を出る。そこには、追いすがることを許さない重圧があった。


     *


 女性の影のなくなった部屋に、入れ替わるようにして青年が姿を現した。声が届く程度に保たれた距離は、ラクスにひとりで考えることを許していた。隅々まで綿の詰められたソファに体を任せながら、ソニアの言葉を反芻する。そして、瞳を閉じた。
 ――離したくないな。
 そう口走っていたことに驚きはなかった。彼女にはきっと、届かなかっただろう。
 アーシャの名を授かって以来、胸の奥に開いていた穴は、いつからか彼女によって塞がれ、やわらかな呼吸を守っていた。そう思っていた。けれどもその穴は消えてなくなったわけではなく、あくまでも塞がれただけで、栓が取れればふたたび悲鳴をあげるものだった。
 そうして漏れだした痛みを悲しみと呼んだのは誰なのか。
 違う、これは血だ。足を止め、思考を鈍らせて、いずれ人を殺すだろう。
「レオン」
 主に呼ばれ、傍らの青年が気をこちらに向ける。
「やっと分かったことがある。……なにもかも、アーシャという名前だけでは守れない。けど、ラクスという名前だけでは戦えないんだ。だから」
 騎士たちは、盾にして、剣だ。それを握るも振るうも、持つ者の手にゆだねられる。
「その時がきたら、力を貸してほしい」
 彼の者の名はアーシャ。
 盲目の守護者が馬を駆り戦場を駆け巡ったのは、彼自身の力ゆえではない。