ふたりぶんの重さを乗せた馬は、疲れを見せるふうもなく石畳を蹴りつける。
 街角で馬を進ませる者はソニアたちだけではなかった。ふと顔をめぐらせてみれば、同じ高さにある頭が目に留まる。彼らはどうやら巡回兵であるようで、その身にまとった青銅の鎧は鈍い輝きを放っていた。花嫁の来訪の報せは末端の兵にも伝わっているのだろう、ソニアらに興味を向ける者もあったが、声をかけることまではせずに横を過ぎていく。
 そんな行き違いが続き、しばらくしてエリーゼが足を止めたのは町中の修道院の前だった。器用に馬をなだめて一息つくや否や、彼女の顔に険が宿る。
 街並みに並べられた武骨な黒い石畳とは打って変わって、門の先の石畳は白く整然と敷き詰められている。建物の背は低いもののつくりは頑丈で、遠目にも流麗な文様が彫り込まれていることが見て取れた。しかし、整備の杜撰さがそれらを台無しにしている。土ぼこりが石畳の上を舞い、敷地を囲う石柱や建物の壁面には我が物顔で蔦が這っていた。数日どころか、年単位で放ったままにされていたであろうことは想像に難くない。
「……とことんまでこちらを馬鹿にしている」
 低い声でエリーゼがつぶやいたとき、修道院の扉がぎいと開かれた。薄汚い罵倒の言葉を響かせて、そこからひとりの兵士が姿を見せる。肩を怒らせて三歩ほど歩いた彼は、見物人がいることに気付いてはたとする。それから慌てて居ずまいを正した。
「も、もしや、アーシャラフトの花嫁様でいらっしゃいますか!?」
 ソニアが首肯すると、まずい、という表情を顔に浮かべる。それから一度背後をふり返った。
 口を開けたままの扉の奥には闇と静寂が広がっている。そこからの答えがないことを知り、彼は苦い顔で言葉を吐きだした。
「出迎えもなく、まことに申し訳ございませんでした。実は少々問題が発生しておりまして」
「問題?」エリーゼが声に侮蔑をにじませる。「それはもちろん、花嫁様を街角へ放り出しておくに相応しい大事なのでしょうね?」
「はあ、その……どう申し上げましょうか」
 ああでもない、こうでもない、と煮え切らない態度の兵士が頭を掻くたび、エリーゼの態度に苛立ちが見え隠れする。噴火するのも時間の問題だ。やむなくソニアが間を取り持とうとしたとき、だった。
 前触れもなく、ロルフが馬から飛び降りる。逃げ出すかに思われた彼は、しかし一直線に修道院へと駆けていった。急ぎ捕まえようとした兵士の腕をくぐり抜け、扉の前に足を止めて、腹いっぱいに息を吸い。
 ――叫ぶ。
「みんな出てこい! ロルフだ! 帰ってきた!」
 ぽかんとするソニアたちと、手で目元を覆い空を仰いだ兵士の前で、ひとりでに扉が揺れる。ロルフがふたたび声を上げようとした瞬間、闇の奥からひょっこりと子供の顔がのぞいた。それらはふたつみっつと数を増していく。
 ロルフにいちゃん、という声が合図となった。一斉に飛び出した子供たちがロルフの周りを取り囲む。親鳥の帰りを待ちかねたひな鳥のように、彼の名を呼んでは口々に身を案じ始めた。その誰もが十に届くかどうかという歳の幼子である。
「あれは?」
 エリーゼが問うと、兵士は大仰にため息をついた。
「親の顔も知れぬ子供たちです。勝手にこの修道院を住みかにしていたようで……先日から幾度も出ていくよう言い聞かせたのですが、この通りでして」
 見れば子供達はやせ衰えており、飢えのためかぷっくりと腹を丸くした者さえいる。ロルフ自身が言ったように親と引き離されたか、孤児となって行き場を失くしたかのどちらかだろう。同じ境遇の子どもたちが身を寄せ合い、せめて雨風だけでも防ごうとこの修道院に行き場を求めたのだ。
 ならば居場所を奪おうとするソニアたちが歓迎されるはずもない。ロルフの刺すような視線を受け、兵士は剣の柄に手をかけた。
「花嫁様がいらしたからには、無理にでも追いだしましょう。我らの申しわけが立ちませんので」
「……いいえ、彼らはこのままに」
「はい?」
 聞き違えたか、というように兵士が目をしばたかせた。ソニアが強い口調でくり返して言い聞かせると、彼は「ですが」と食い下がる。その口が説得の言葉を吐きだす前にソニアは首を振った。
「ここは今日からアーシャラフトの管理下に置かれるはずです。誰とともにどう暮らそうとわたしの自由、そうでしょう? ……それとも、あなたは協約の内容について皇帝陛下に直訴なさると?」
 さっと顔を青くした兵士が素早く首を横に振る。申しわけございませんと彼が頭を下げるのを、ソニアはなんの感慨もなく見下ろしていた。胸に手を置いて、続ける。
「花嫁は無事到着した、とお伝えください。なにも問題は起きなかった――もちろんこの修道院には誰もいなくて、あなたはきちんと出迎えのお役目を果たしたと」
「は……そ、それでは失礼いたします!」
 慌ただしく走り去った兵士の背はすぐに街角へ消える。
 彼が一刻も早く立ち去りたがっていたのは誰の目にも明らかだった。身につけた薄手の鎧から察するに、爵位を持つほどの兵ではないのだろう。要人を前にするのはよほどの心労であったに違いない。皇帝の名を出すだけで焦り始めるほどなのだから。
 権威を楯にすることには、どうしても慣れない。しかしここはメリアンツだ。使える力を使わなければあっという間に食いつくされる。深く息をついたソニアをいたわるように、エリーゼがうなずいた。
「ご立派でした、ソニア様」
「少し、高圧的じゃありませんでしたか?」
「いえ、あの手の者には権力がよく効きますから」
 言いながら、エリーゼは痛みをこらえるように顔をしかめる。
「……たとえ花嫁の立場を軽んじる輩が現れたとしても、ソニア様、決して腰を曲げる必要はありません。貴女はアーシャラフトを背負ってここにおられる。その重さ、私に伺い知ることはかないませんが――凛と、お立ちください。それは責任であるとともに、貴女の力でもあるのですから」
 返す言葉を失ったソニアに、出過ぎたことを言いましたね、と彼女はほほ笑みかける。その顔が逸らされた先には、幼い子供たちを背にかばったロルフの姿があった。
「さて、ソニア様。彼らのことはどうなさるおつもりですか?」
 兵士に向けられていた明確な敵意は、ソニアに向けられるにあたって幾分かの迷いをはらむようになっていた。彼とて交わされていた会話の一端は理解しているのだろう。ソニアの注目を受け、顔に困惑を浮かばせた。
「あんたたちは誰なんだ。メリアンツの人間じゃないのか」
 単刀直入な問いに、一度頭をめぐらせてから、ソニアは首を振る。
「わたしたちはアーシャラフトから来たの。場所はわかる? ここから南にある国、女神様の住まうところ」
「めがみ、さま」
 子供のひとりがゆるゆると首をかしげる。彼を手で制し、ロルフは唇を引き結んでソニアを見上げた。無遠慮な視線がソニアとエリーゼとの間を行き交い、やがて彼自身の足元に落ち着く。吐きだされた声は、先ほどの威勢が嘘のように弱々しい。
「こいつらも、俺も、行き場がないんだ。ここにいられなくなったら、道端で死ぬしかない。……もう俺たちは女神様なんか信じてない、だって今まで、誰も、救ってなんかくれなかった」
 ちらりとソニアの顔をうかがい、怒りの色のないことを確認して続ける。
「……けど、ここに住ませてくれるなら、なんでもする。なんでもする、から……おねがい、します」
 きつく両目を閉じて、薄汚れたひざ丈のズボンの裾を握りしめ、深く頭を下げる。震える声で紡がれた嘆願がソニアの耳に届き、胸の奥にきりと痛みを走らせる。
(生き、ようと)
 冬の風にあてられながら、なおも命だけは手放さずに、執拗にしがみつこうとしている姿勢、力を宿したままの瞳。彼らは死ぬ直前まで、その輝きを失うことは無いのだろう。
(……恥ずかしい)
 絶望に身を任せて命を放り出した、かつての自分を重ねていたことが無性に申しわけなくなるほどに。
 自らを奮い立たせるように深呼吸をして、ソニアは静かに問いかけた。
「なんでもする、って。言ったわね」
 ロルフが肩を震わせる。ややあって、ひとつだけうなずいた。
「そう。それじゃあ」平静を心がけて、顔をあげる。「あなたたちには、お掃除を手伝ってもらおうかな」
「……は、え、掃除?」
 少年があんぐりと口を開ける。面食らった表情からは完全に毒気が抜けていた。彼の後ろでひそひそとささやき声が交わされているのを止める気も回らないらしい。ソニアは思わずゆるみかけた頬を引き締め、真面目ぶった顔をしてみせる。
「この修道院を、通り過ぎる人が驚くぐらいに綺麗にするの。ちゃんと働いてくれればみんなにご飯を出します。……ほら、ぽかんとしていないで!」
 両手を打ち鳴らすと、子供たちがぱっと顔を輝かせて走り出す。
 我に返ったロルフがふり返り、止めようとしても遅かった。歓声をあげる少年たちが端からつたを引きはがしにかかり、鋭い石を叩きつけては引き裂いていく。少し遅れて修道院の奥から蜘蛛の巣をかぶったほうきを探しあてた少女たちは、笑い声を上げながら石畳を掃き始めた。
 口をぱくぱくとさせるロルフの頭に手を置き、エリーゼはにやりと笑う。
「ほら、少年。動いていないのは貴方だけですよ」
 呆然と彼女を見上げ、それから子供たちの笑顔を見比べる。うずうずと体を震わせた彼が答えを出すのは早かった。
「――っ、少年って言うな! 俺はロルフだ!」
 ロルフは一喝するや否やエリーゼの手を払いのけ、子供たちの輪に加わっていく。エリーゼは肩をすくめ、ソニアはくすりと笑ってそれを見送る。
 凝り固まった彼の緊張がほどけていくのに、もはや時間は要らなかった。