ソニアの前にしゃがみこんだ彼女が首を傾げる。流れ落ちたひと筋の髪の色だけ、その息子とは色が異なっていた。
 ここで交わされた会話の見当ぐらいは付いているのだろう。この修道院にミセラがいる以上、彼女がソニアの素性を疑うのは当然なのだ。それでいながら花嫁を受け入れた。ミセラと引きあわせることも、おそらくは予想したうえで。
 ラクスは知らない。ここにミセラがいることを、彼女は、クラウディアは知らせていない。
「貴女の名前を、教えてくれるかしら」
 二度目の問いに顔を上げる。乱暴に目元をぬぐってから口をひらいた。
「……ソニアです。クラウディア様」
「そう、ソニア。やさしい名前」
 名付けたのは誰だったのだろう、と思う。子の存在を恐れた父か、それとも。ゆるゆると視線を下げるソニアにやんわりと笑いかけ、クラウディアはその肩に手を置いた。
「貴女のことを知りたいと思ったの。あの子が、花嫁を迎えたと手紙に書いたから。けれどそこに貴女の名前はなかったのよ。ミセラの名前も、ソニアの名前も」
 想像がついた。彼がペンをとり、インクにその先をひたして、覗き込むようにして手紙に文字を操るさまを。公式の文書ではなく、遠方に住まう母にあてた手紙には、おそらく彼自身の言葉が綴られているのだ。けれどその文面にソニアの名は、ない。
(わからない)
 彼の思いがつかめない。どのようにも取れる事実が、今のソニアには重くのしかかる。不安に瞳をそらしたことには気付かれただろうか。
「だから、貴女を受け入れたの。酷かもしれないと思っていたのだけれど……ミセラはああいう子だから」
 傲岸なまでに自信に満ちた表情が忘れられないでいる。後ろめたさなど微塵も感じさせない振る舞い、目、声。逃げ出したのだと罵声を浴びてもなお強く瞳を輝かせる彼女に、かなうはずもなかった。その立場に揺るぎがないか、その一点で、彼女と自分とでは決定的に違っていたから。
「わかりあえないことは最初から知っていたんです。考え方もものの見方も、ミセラ……さんと、わたしとでは、全然違うって。もしもわたしが彼女だったらアーシャラフトを出ようとはしなかっただろうから。彼女を否定するつもりなんてなかったのに」
 ましてや、それをあげつらうつもりなど。今になって困惑がじわじわと身に沁みてくる。
 クラウディアがそうねとつぶやいて、ふいに優しい顔をした。
「それには、私の息子が関わっているのかしら」
「え?」
 思ってもみなかった方向から問われる。ソニアがその意図を咀嚼しようとする前に、クラウディアは続けた。
「自惚れ、いいえ、親馬鹿だったらごめんなさいね。あの子は口が下手だから、もしかしたら貴女を不安にさせているのかもしれないと思ったの」
「あの、クラウディア、様」
「ちゃんと好きって言ってもらえた?」
「は、い? いえあの、それは」
「寂しいなら言わないと駄目よ。あの子、わからないから」
 口をはさむことを許してくれない。親子なのにどうしてこんなにも違うのかと目が回りそうな心地で思う。それとも性格は父親のほうに似たのだろうか。クラウディアが息をつくのを見はからって、ソニアはなんとか割り込んだ。
「そういうのは、ありません。ラクスはアーシャで、わたしは花嫁で……ですから、あの、あまり」
「好きではないの?」
 素朴な疑問に過ぎなかったのかもしれない。クラウディアにとっては、おそらく当然の不思議だったのだ。けれどその問いはソニアの胸を叩いた。よく切れるナイフでリンゴを割ったときのように、もしくは雨粒が湖面に波紋を落とすように。
 自問でもなければ、詰問でもない。だから一層響く。
「……わたしは、本物じゃ、ないんです」
「ええ」
「だから、嫌だなんて言えないんです。アーシャラフトにいたいなんて。ラクスが言うことも……神殿に残ることの危険さもわかっていて、それでも嫌だなんて」
 弱くなってしまいそうになる。冬空色の双玉がそっとソニアを見つめていて、その色は確かに彼女の息子にそっくりだったからだ。景色が見えていようともいなくとも、相手の胸の奥を映し、透かしていくような淡い空の色。
 口をつぐんだソニアの髪を細い指が梳いていく。いとおしむような手つきに、鼻の奥がつんと痛んだ。
「……ええ、やっぱり貴女たちは似た者同士だわ。欲しいものを欲しいと言えないところがそっくり」
 クラウディアが衣の裾をいなして立ち上がる。それから差しだされた手を躊躇しながらも取れば、ふわりと引かれて腰が浮いた。きょとんと目を丸くしたソニアには町娘もかくやというまばゆい笑顔が向けられる。
「ここの案内が必要ね、ひととおり一緒に回りましょうか。五日は確かに短いけれど、そのあいだに不便があっては困るから」
「クラウディア様」
 呼び止める、先が続かない。クラウディアはソニアの言葉を待ってから静かに首を振った。
「案内をしながら、ひとつお話をしましょう。昔語りは若い人にはつまらないかもしれないから、聞き流すつもりで構わないわ」
 そうしてくるりと背を向ける。修道衣に隠れた足はゆったりと遊ぶような一歩を踏み出して、それはまるで長い物語を聞かせるための猶予であるようだった。ソニアが小さな歩幅で後に続けば、「三十年とすこし、昔のことよ」とクラウディアが口を開く。
「クェリアは今と同じ、多くの人が行き交う港町だったわ。アーシャラフトの人が、異国の人が、子どもたちが、ご老人が、そして優しい人が、残酷な人が通り過ぎ、留まる町。海鳥は潮風の唄を歌い、旅鳥は草原の唄を歌う。鮮やかさと静粛さの狭間にある町。懐かしいわね、私は五つを過ぎたばかり。港に着く船に乗った人たちの少なくとも半分は白い衣を着ているのを、不思議に思っているような子どもだった」
 南からクェリアに船を向ける巡礼者たちは、皆そろってクェリアに足を下ろす。この大陸と南の大陸をつなぐ港は数あれど、陸路でアーシャラフトを目指すならばほかはみな遠回りになってしまう。
 ここは礼拝堂、と思いついたようにクラウディアは指し示し、さっき来たから説明はいいわね、と照れくさそうに付け足した。それから空き部屋になっているらしい扉の前をいくつも通り過ぎ、そのうちのふたつをミセラたちに貸しているのだと言った。
「そうそう、ここの修道院長をしていたのが私の夫のお母上だったの。ラクスの祖母に当たる方ね。先代のアーシャはその方のお兄さんにあたって」そこでソニアが眉を寄せているのに気付いて、「……まあ血縁の話は複雑だからおいておきましょうか」と軽く流してしまう。
「修道院にはひとり、男の子がいたの。そのころだったら十三ぐらいの歳になるのかしら。私は花屋の娘で、修道院にお花を届けるのが仕事だったから、よくその子を目にしていたのね。礼拝堂の椅子で、ずっと気難しそうな顔でぶ厚い本を読んでいたわ。眉のしわが染みついてしまうんじゃないかしらって心配していたぐらい。金色の、細くて綺麗な髪をしていた」
「その方が、ラクスの?」
「ええ、ラクスの父親になる人。その前に私の夫になる人ね」
 思い浮かべる。海の見える礼拝堂にたたずむ少年は、ソニアの想像のなかではラクスの姿をしていた。染みひとつない修道衣をまとい、いくらか背を丸めて、片手に抱えた本に目を落とす。少年がほんとうに彼であったなら、その目のせいで、きっと文字を追うことはできていないだろうけれど。
「花を運ぶたびにその横顔がどうしても気にかかって、ある日とうとう声をかけたの。あなたは誰なの、どうして本を読んでいるの、ってね。そうしたら彼は、私に初めて気がついたみたいに驚くのよ」
 ――アーシャになるために勉強をするんだ。僕は血が濃くないから。今のままじゃいけないんだ。
 少年はそう答えて、口を歪ませたという。
 天の耳も盲目もその身に持たなかった彼は、けれど血筋を受け継ぐ限りその定めからは逃れられない。どれだけ薄いものであろうともアーシャの血を次代に残し、正しくアーシャである者を生み出すために。彼に残された仕事はそのひとつのみだ。女神になにも授からなかった以上、どれだけ勉学に励もうとも少年がアーシャにはなりえない。
 知らなかったのかしら、それとも信じたくなかったのかしら。クラウディアの声が寂しさを宿す。
「私には、そこまで彼がアーシャに執着する理由がわからなかった。それがすべてだって言うように本にかじりついている彼を外に連れだして、一緒に遊びたくてたまらなかったのよ。それなのにいつも断られるものだから、我慢するのももう嫌になって、彼が抱えた本ごと、手を引っぱって修道院から連れ出したのね」
 その日の午後、ふたりの子供が町のはずれを駆け回るさなか。突然の大雨が海から嵐を連れてきた。叩きつける雨の激しさに彼女たちは雨宿りを余儀なくされ、もちろん残されなかった言伝が迎えを呼ぶことはなかった。責任を感じた少女は、少年の静止も聞かずにひとり雨のなかに飛び出していく。
「迎えを呼んでこようとしたの。町中まで行きつけば、きっと大人が助けてくれると思ったのね。波打ち際が危ないだなんて考えもしなかった」
 無情に打ち寄せた大波。足を取られ地を離れた小さな体。呑まれる、そう思った瞬間、彼女は。
「彼の名を呼んだの。それまで出したこともないような大声で。そうして気を失って……目を覚ましたら、修道院のベッドの上にいたのよ。傍にいた彼が何度も私を馬鹿だと叱って、でも、手だけはずっと握ってくれていた。いつから、ということは最後まで訊けなかったけれど」
「最後、って」
 ソニアの声が暗くなる。クラウディアは目をしばたかせ、それから笑って手を振った。
「誤解させてしまったかしら? そういうことじゃないのよ。あの人はラクスが生まれてから少しして、クェリアを出ていったの。息子がアーシャになるのなら、自分にできることはなにかって。報せもないまま……ふふ、馬鹿な人」
 限りないほどに細められた目に、優しさを見た。それは過去でも、記憶でもなく、胸に抱き続ける想いだ。
(ああ、きっと)
 馬鹿で、だからこそたまらなく愛おしいのだ。彼女にとっての最愛が彼であるからこそ、彼女は待ち続ける。町を離れていった、行方も知れぬ彼のことを、始まりと同じこの港町で。
「……好きなんですね」
 だから尋ねた。ためらいもしなかった。
 問いに甘く口もとをゆるめ、クラウディアは、少女の瞳に変わらぬ恋の色を映す。
「愛しているのよ」