「花嫁様は無事クェリア修道院へ到着なさいました。道中に危害はなく、賊の襲撃もありませんでした」
 大聖堂の礼拝堂では音が深く響き、意図した声の固さまで暴かれそうになる。その最奥、彼女のあるじは星の光の降り注ぐ祭壇で天井を仰いだまま、そうか、とだけ返した。透明な声が少しばかり癪に障って、エリーゼはわずかに眉を寄せる。
「それと、アーシャ。クラウディア様より、ひとつ言伝を預かって参りました」
「言伝?」
 さしもの彼も気を引かれたらしい。首をこちらに向けたアーシャの少年に、頭を上げないままで続ける。
「決して違わぬようにとのお申し付けですので、そのままお伝えいたします」一度間を置いて、彼女の言葉を反芻する。「可愛らしい花嫁さんは私が責任を持って預かります。その帰還、せいぜい首を長くしてお待ちなさい――とのことです」
 暗闇の向こうで彼が口もとを引きつらせる。息子ならば母親のことはよくわかっているだろう。エリーゼがあの母親と顔を合わせるのは二度目のことだが、やはり変わらず、若々しいままの女性だった。彼は小さくため息をつき、わかったと一言、渋い表情で答えを返す。その顔がいくらかの間だけエリーゼに向けられたのを見逃す彼女ではない。
「花嫁様にも窺いましたが、特には、とのことです」
「……なら言う必要はない。報告は終わりか? もう遅い、戻ろう」
「お待ち下さい、アーシャ」
 祭壇を下りようとした少年を呼びとめる。高く響いた足音がこだまして、やけにエリーゼの耳に残った。
 これは越権だ、分かっている。神殿騎士である自身の中の秩序は静止の声を上げ、混沌として存在するエリーゼの意思とせめぎ合う。だが不思議と心は静まりかえっていた。
「花嫁様の今後をどうなさるおつもりですか。クラウディア様のもとからお帰りになったあと、あなたは」
「答えるつもりはない。戻れ、エリーゼ」
「退きません。あなたからお答えを頂くまでは」
「立場を考えろ。しつこいぞ」
「ソニア様はこのようにしつこくもなさいません。立場を重く受け止められているせいです。……それに甘えているのはどなたですか」
 少年の表情に険がちらつく。苛立たせたのなら証としては十分だ。彼にやましいところがなければ、怒りをあらわにする必要もないのだから。
「申し上げます。アーシャ、あなたは花嫁様のお心を考えようとしていらっしゃらない。あの方があなたのために、どれだけ努力なさったのかもご存知ないでしょう? ここに、アーシャの傍に立つために、ソニア様がどれだけ身を粉にされたか」
「分かっている。十分すぎるほどにな」
「いいえ分かっていらっしゃらない。だからあの方を遠ざけるような真似ができるのでしょう、傷つけることなど考えもしないで!」
 納得がいかない。少女が迷い、なおも歩み続けてきたのを見ているからこそだ。偽物から始まった繋がりに色をつけようとした、その意志まで無に帰そうというのなら、エリーゼはエリーゼとしてあるじに向き合うこともためらいはしない。
 花嫁として受け入れたのは、彼女に心を傾けたからではないのか。彼女の想いに応えながら、突き離そうとするのは何故だ。睨みつける気迫が伝わったのか、アーシャの少年は無言の末に口を開く。
「教会はいつか、彼女を飲みこむ。アーシャラフトにとって象徴は存在さえすればいいんだ。それはアーシャとして産まれた僕がよく知っている。……彼女はそうあるべきじゃない。けれど僕のそばにいれば、その時が来てもおかしくはない、だから」
 そこでふと少年が耳元に爪を立てる。
 珍しい挙動に違和感を覚え、彼の手の奥に何気なく視線をやった。そして息を飲む。薄い暗闇と彼の髪とが隠す耳とその付け根には、無数に走る細い傷跡がくっきりと見て取れた。まだ真新しいそれは、今日のうちに作られたと考えるのが妥当だ。
(この、方は……!)
 音が立つほどに奥歯をかみしめた。言いようのない感情が渦巻いて、内側から突き破らんばかりに胸を叩く。ふつふつと煮えたぎるそれに名をつけるなら、それは、紛うこと無き怒りだ。
 ラクスを気遣ったソニアの優しさを知っている。ソニアに安寧を与えようとするラクスの願いも知っている。彼女も、彼も、ただひとつ互いの心だけが見えていない。
 剣の色の瞳がラクスの目を捕らえた。激情のままに少年の胸倉を掴み上げる。
「失くすのが怖いのなら、何故あなたが守ろうとなさらない。害悪から遠ざけ、そのせいであの方を傷つけるのが、どうしようもなく無意味なことだと何故気付かない? ラクス、あなたのそれはただの自己満足だ」
 エリーゼ、と動いたその口から、もう声は漏れない。
「あなたに剣を握る力がないことなど分かっています。あの方やあなたを脅かすものが、剣で切り捨てることのできない相手であることも。けれど、ラクス。……あなたはそれでよろしいのですか」
 答えはなかった。求めるつもりもなかった。
 彼を解放して距離を取れば、少年の手は自らの耳に触れる。もはや彼女の声の届くことのない耳に、何度も、何度も爪を立て、傷つけて。それでもなお言葉にならない孤独を癒せるのは、そばを離れた彼の花嫁だけだ。
 ラクスの顔がゆがむ。痛みをこらえるように眉をきつく寄せていたが、体からは徐々に力が抜けてゆく。迷うような空白があって、見えない目をわずかに細め、天を仰いでその向こうの誰かを見つめた。
「言えば、伝わるだろうか」
 心細げな問いかけに答えはひとつ。
「言わなければ伝わりません」
 それを誰よりもよく知っているのは彼のはずだった。


     *


 朝の日差しが差し込んだ窓を見やり、そこが見慣れた部屋でないことに思い当たった。
 部屋の中身が簡素であることはクェリアでもそう変わりはないが、アーシャラフトのソニアの部屋には朝方の陽光がほとんど入ってこなかったのだ。珍しいものを見た気分になって、いくらか薄い毛布を剥ぐ。途端に身震いを起こして腕をさすった。冬の朝が寒いのはどこも同じだ。
 眠気覚ましに、と昨日言いつけられた通りに箒を手にして修道院の掃除を始める。無心で土ほこりを追っていると、「感心、感心」と横を通り過ぎた男の声に言われた。
「あの、ちょっと!」
 はっとして声をかければ、彼はあくびをしながらふり返る。ソニアは今になって、その肌の珍しい色に驚きを覚えた。ここから南東、海を越えたさきの砂漠地帯に住まう人々は、照りつける日差しのためにみな褐色の肌を持つという。おそらく彼もそちらの出身なのだろう。
 どのような経過があってアーシャラフトを訪れたのかまでは詮索するつもりはない。ひとつ確実なのは、ミセラに同行していた男というのがおそらく彼だということだ。ここに住まう人々で修道服をまとっていないのはミセラと彼ぐらいのものなのだから。
「昨日は、お騒がせしてしまって」
「ん……ああ、そうな。俺はいい、言うならあっちに頼む」
「それで、ミセラさんのほうは」
 動向を尋ねると、くつくつと笑われた。ソニアが顔をしかめると、すまん、と言いつつも震える肩は収まらない。しばらくして彼はひとつ咳払いをした。
「あー、そちらのほうが十分花嫁みたいだと思って、な。いや、他意はない」
 取り繕うように早口で言う。彼の言葉にはほんのかすかに発音の訛りが混じっており、ソニアに異国の香りを感じさせた。彼は頬をかきながら、ミセラのことは、と前置きをする。
「相変わらずえばりくさっているから、好きなだけ文句を言ってくれていい。ただ、もうアーシャラフトには戻らないと思う。それはすまない」
 大の男がけろりと謝るものだから、呆気に取られてしまう。ソニアの理解が追いついていないと思ったのか、彼はちらと廊下の奥を気にするそぶりを見せてから付け足した。
「なにを言っても、言われても、多分ミセラは帰らない。それだけは覆らない」
「……そう、ですか」
「あとは本人と話してくれ。勝手に話すなと叱られても困る」
 頑張れよと箒を叩いたきり、そそくさと離れていってしまう。少女ひとりをよほど恐れているらしい。大柄な彼を相手取っても、ミセラは決して態度を変えないのだろう。怒りっぽくて口が悪いとラクスをして言わせるほどだ。
 彼の散らした土ぼこりを掃き集めて息をつくと、同時にぐうと腹が鳴る。労働の空腹に、なんとなく懐かしさを感じた。