どうして。どうしてあなたがここにいる。
 黒々と湧きあがった思いは噴水のように溢れだし、ソニアの頭をはしから侵食してゆく。疑念、恐怖、戦慄、糾弾、どれを取り上げても言葉にならず、理性がのみ込まれそうになるのを浅い呼吸で押しとどめようとしていた。
 眉を寄せてなりゆきを見守るクラウディアを一瞥し、そこでミセラは弱く首を振る。
「ここで話すことではないかしら。クラウディア様、私たちは失礼いたします」
「ええ。……ミセラ、」
 なにごとか言いかけたクラウディアにはほほ笑みだけを返し、ミセラはソニアの腕を引いて聖堂を後にする。歩幅は広く、足音は高く。数少ない修道女とすれ違うたびに何ごとかと視線を向けられるが、ミセラは彼女らに目もくれずに歩を進めていた。
「憶えているわ、ええ、もちろん憶えている。あの日、私がファルツの屋敷を出た夜。神殿の前に行き倒れていたあなたのそばに、銀薔薇のペンダントを捨てた。ずいぶん立派に花嫁をやっているみたいじゃない」
 早足で歩く彼女を、小走りになって追いかける。遠慮もなく引かれる手には逃すまいとするかのような力がこめられており、大股の一歩が踏み出されるたびに締めつけられて痛むものの、ソニアには彼女を呼びとめる言葉がない。
 靴音が響き、修道院の廊下にこだまする。一定のリズムで刻まれるそれのはざまに、ミセラは語気を強くして言葉を紡ぐ。
「私はもう家を捨てたの。銀薔薇だって、ファルツの名前だって、花嫁の座だって好きにすればいいわ」
 突如、ミセラが立ち止まる。ソニアははっとして踏み出しかけた足を戻した。無遠慮な目がソニアの顔面を滑り、ため息とともに瞳に落ち着いた。
「ねえ、あなたはどうして怯えているの?」
「……え」
「偽物だと暴かれるのが怖い? 心配いらないわ、私はアーシャラフトに帰るつもりなんかさらさらないから」
 引かれていた手が解放される。痺れる手首を胸元に引き寄せ、黙りこみ、そしてなにも言わないままで首を振った。その反応を受けてミセラが鼻を鳴らす。先ほどまでの慇懃さをかなぐり捨てた挙動は、取り繕った態度よりよほど彼女に似合っていた。
「否定はするくせに理由は言わないのね。それなら当ててみせましょうか」蠱惑的な笑みを唇に浮かべ、指揮棒を振るうかのように指を立てる。「あなた、私にラクスを取られるんじゃないかって考えてる。違う?」
 唇を引き結ぶ。あまりにも子供じみて聞こえるはずのそれが、耳の奥を小突いて消えない。
 敏い人だ、と思った。そして残酷な人だ。ひとの事情と感情を見抜くだけの目を持っておきながら、それを互いに見えるところまで引きずり出す。表に出したくない想いであっても関係ない。彼女の口に出された痛みの名は、気付けばひどく軽くて幼稚だ。
「違う」
 だから否定した。否定するだけの理由があった。
「違うわ。……だって、わたしは、そんなことを思えるような身分じゃないもの」
 口をつぐみ、唇を噛む。「へえ」とミセラが相槌を打つ声が不自然に間延びして聞こえた。不穏に思って表情を窺えば、彼女はわずかに首を傾けるばかりだ。
「私に遠慮でもしているつもり? 花嫁になり代わっておいて、疚しさだけは一人前に感じてるわけ」
「なり代わって、って」
「違うとでも?」ミセラが肩をすくめる。「花嫁だけじゃないわ、ファルツの家名もそう。神官たちからの信頼だって厚いことでしょうね。無条件であなたに与えられたのはぜんぶ私の捨てたものよ。我が物顔でアーシャラフトに居座るあなたのこと、なり代わったわけじゃなくてなんだって言うの?」
「……っ、逃げたのはあなたじゃない!」
 ぷちんと切れた。
 耐えていたのかもしれないし、圧されていただけかもしれない。だがこれほどまでに悪意と批判をあらわにされて黙っていられるほど人間ができてはいなかった。それも、原因となった張本人になど。
 鋭く息を吸い込む。吐き出すのは簡単なことだった。
「家が嫌で。結婚が嫌で。責任を放り投げて逃げたのはあなたのほうだわ! 残される人のことも考えないで! ……どうして、どうしてこんなところで出てくるの、どうしてあなたはここにいるの!」
 ずっと抱えてきた思いなのだから。それでも言わずにいた非難なのだから、たがさえはずれてしまえばあとは叩きつけるだけでいい。後先の見えなくなっている自覚などとうに感じていて、けれど一度決壊した堰に流れをとどめる力はなかった。
 叫ぶ。わめき散らす。子どもと同じように。その奔流が行きつく先は明らかだ。
「どうして、逃げたりしたの……!」
 ミセラが眉間にしわを寄せる。面白がるような調子はすでにそこにはない。
「……らよ」
 声にならない呟きを漏らし、彼女はソニアを睨みつけた。
「嫌だったからよ。着る服も食べるものも愛する相手も、最初から親に決められた人生なんか。アーシャラフトなんて大きすぎる荷物がなければ、ラクスとだって会わなかったわ。あんな……根暗で卑屈で、自分の不幸ばっかり嘆いてる奴なんかと!」
 ――ぱあん、と、渇いた音が響いた。
 右のてのひらに走ったひきつるような痛みと、割れそうなほどにかみしめた奥歯のきしみが感じさせるのは高揚。ひらめいた手の向こうでミセラは染まった左頬を抑え、瞳に炎を宿して手をふりあげる。
 すぐに衝撃がやってきて、遅れて二度目の音が鳴る。反射で震えそうになった声を抑えつけた。
「ラクスはあなたを待ってたのよ!? あなたと植えた花を守って、ずっと」
「ええそうでしょうね! それが嫌だって言ったのよ、いつまでもうじうじ引きずって」
「あなたが、大切だからじゃない!!」
 声のかぎりに叫べば、ミセラが数瞬言葉につまる。ソニアは修道服の裾を握って自らを奮い立たせた。
「あなたが大切だから、忘れられないんでしょう……! 代わりなんか考えられないぐらいにあなたが大きな存在だったから、ラクスは」
 ずっと待っている。待っていた。
 だからこそ、もし、と考えずにいられない。もしこの修道院から帰るのが、ソニアではなくミセラであったなら――本物の花嫁だったなら。そんなことはあり得ないと頭でわかっていても。
 彼はきっと、ミセラを温かく迎え入れるのだ。
 笑って、笑って。切なさなど微塵も感じさせない、幸せそうな笑顔で。
「……そう」
 ミセラが顔を隠すようにうつむいた。その表情が読めず、一度唾を飲む。沈黙のあと、彼女はゆるやかにソニアに向き直った。
「それじゃあ、あなた、いなくなっても構わないわね」
 目を見開く。呼吸が止まった。
「気が変わって私がアーシャラフトへ戻っても文句なんて言わないのね。もう一度ラクスと会っても、私が本物だって主張しても」
「なにを」
「ずっと私の席を温めておいてくれてありがとう、偽物さん」
 とびきり酷薄な笑みを浮かべて言う。その瞬間、世界から音が消えた。
 体重を支えきれないとばかりに膝が笑う。口はぱくぱくと開閉されるばかりで意味をなした声にはならず、まばたきを忘れた目は彼女の笑みだけを映して放さなかった。廊下の向こう側から、ひとりの男性が大股でこちらに歩み寄ってくるまでは。
 褐色の肌をした彼は、ソニアらを見るやいくらか状況を把握したらしい。渋い顔をしてミセラの肩をつかんだ。
「なに言った」
「なにも言いやしないわ」
「そんな訳があるか、あちらさん泣いてるぞ」
 はっとして目元に手をやれば、涙が指先を伝う。いつからだと思い返しても自覚はなかった。呆然とするソニアを見やり、ミセラが鼻を鳴らす。
「あっちが勝手に文句付けて勝手に泣いたのよ。一発ずつ殴り合ったんだからあいこでしょう、行くわよ」
 背を向け、そのまま颯爽と立ち去る。残された男が気遣わしげにこちらを見ていたが、ソニアは話す気にはなれずに目をそむけた。彼もまた考えるところがあったのだろう、ミセラの背を追い、なにも言わずに姿を消した。
 廊下の中心に人影はない。彼女が人通りの少ない場所を選んだのだろう。ソニアは膝から崩れ落ち、尻をついて深く息をした。そうしないと嗚咽が漏れそうだった。
「ねえ、貴女?」
 呼びかけられる声に安堵してしまったのは、傍にいてくれる誰かを求めていたからかもしれない。