間隔をおいて光が降り注ぐ。点々と取りつけられた円形の小窓が陽光を取りこんでいるのだ。
 堅牢な石造りの大聖堂の冷たさは、さながら要塞のようだった。麗しい見かけに反して壁は厚く、磨き上げられた廊下は高く足音を響かせる。常人ほどの聴力しか持たないソニアにもその反響を追うのは難くなかった。
 ナヴィア宮殿から繋がる渡り廊下は大神殿の西回廊に通じている。つかの間冬の風を吸いこんだかと思えば、次に鼻孔に潜りこむのはかすかな埃の匂いだ。まるでアーシャラフト全体に広がる香りを濃縮し、ひとところに詰め込んだようだった。
 この場所にはまだ慣れない。静まりきった冷涼な空気は背筋を伸ばしていくし、腹を強く抑え込まれるような感覚がある。常日頃と変わらずに息をするのは難しかった。それが神聖さというものなのだろうと思わせる。
 そうして白い衣を揺らす少年を追う。曲がらぬ姿勢は自信の表れだ。アーシャという立場に命を落とされた者の。
「ソニア」
 なんですかと応える。足は止まらず、首も動かない。背を向けたままの彼からは、そこはかとなくよそよそしさを感じた。
「婚儀を終えた花嫁にはふたつの道がある。ひとつは、ここでナヴィアの修道女たちを総括すること。もうひとつは、遠方に修道院を建て経営すること。女神信仰を布教していく務めだ」
「遠方、というと」
「最も近い修道院はクェリアにある。アーシャラフトの南端にある港町だ。新たに建てるのであれば、そこから南に海を渡った先になる。この情勢だとメリアンツ側は危険だ」
「海の向こう……」
 だからあんなことを訊かれたのだ。納得はいったけれどすっきりしない。
 アーシャの花嫁になったからにはいつまでも教会の客人ではいられないのだ。それはソニアも理解しているし、当然のことだと思っている。だがその仕事も宮殿のなかのものだろうと考えていたことは否めない。他国に修道院を建てるのであれば、宮殿はおろかアーシャラフトにに戻ってくることもほとんどなくなるだろう。
 頭のなかでふたつを比べる。やはりそう簡単には答えを出せそうになかった。
「ラクスは、どちらがいいと思いますか」
 望んでいたところがあったのかもしれない。ラクスは無言の末に、ふり返る。
「ここに留まるのは、あまり勧められない。先日の事件もあったし、それに」瞳を伏せる。長いまつ毛がおりた。「今までも、ほとんどの花嫁たちが修道院をつくり上げてきた。女神信仰はそうやって広まっていったものだから」
「……そうですか」
 あくまでも意見の一つだから、と受け取る。慣例のすべてに従う必要はない。そう言い聞かせても表情は暗くなった。教会にとって都合がいいのは確かに後者だろう。未開の地で信徒を増やすには最良の手だ。
(一番はノーディス、二番はアーシャラフト)
 わかっていて婚儀を受け入れ、彼の花嫁となった。だから我を通していてはいけないのだけれど。
(少しだけ、期待してたな)
 ソニアが物思いにふけっているあいだにも歩を進め、ラクスは礼拝堂の開け放たれた大扉の前に足を止めた。螺旋を模した取っ手の取り付けられたそれは、大人二人ぶんはあろうかという高さを備えている。伴ってそれなりの重量を持ち合わせているため、普段は行き来が容易になるようにと開かれたままになっているのだった。
 突き抜けるように高くつくり上げられた礼拝堂の天井。最奥のみが三角錐の形にとがった屋根は、この場が大聖堂の最高点、尖塔なのだということを知らしめる。傍らの壁には整然と小窓が並び、ほの暗い足元に光の柱を落としていた。祭壇の奥には巨大な絵が掲げられ、そのなかで二対の翼を背に受けた天使たちが天地のはざまを目指して羽ばたいている。
 迷わず中心の通路を行ったラクスは祭壇の中心に跪き、両指を組み合わせる。ソニアも二歩うしろでそれに倣った。
 祈りの言葉はない。侵食する静寂に身を任せ、胸のなかで女神の名を呼ぶ。しばらくしてラクスが顔を上げたが、ソニアがそれに気付いたのは少しあとのことだった。立ち上がるでもなくぼんやりと絵画を見つめている。
「どうしました?」
「神話を聞いたことがあるか。アーシャの伝説じゃない、女神再臨の神話だ」
 はい、とうなずく。彼らが不在にしていた際、エッダという名の修道女に頼んで教えてもらったことがあった。「一応は」と付け足すのを忘れない。
「女神の飲んだワインの話は?」
「天と地の恵み、ですよね。そうして混沌のもとに身を投げたって」
 ラクスがわずかに間をおいた。言おうかと迷うように彼の呼吸が一時止まる。
「……そのワインには毒が入っていたそうだ。すぐに効くものじゃない。体を少しずつ蝕み、命を奪うものだ。つまりワインを飲んだ時点で、命を捧げるまでもなく、ノーディスが死ぬことが決まっていた」
「体を清めるためじゃ」
「違う」
 これは僕の仮説だけど。ラクスはそう前置きをした。
「他人に自分の命を絶たせること、贄である自分が血を流すことを、彼女はよしとしなかったんじゃないか。だからひとりで毒を用意し、天地の境に向かった」
 もし、彼の語った説が正しいとするなら。神話として語り継がれる物語に、ノーディスという少女としての思いすらも描きこまれていたなら。それは慈愛ではなく、自己犠牲ではないのか。命を奪う罪の意識さえも人々に負わせることを恐れるのは、純然たるひとの心だ。
 女神はかつて人であった。教会のなかでは曖昧にされてきた部分だ。彼女が人であることを肯定してしまえば信仰は成り立たず、しかし否定してしまえば再臨の神話は意味をなさない。アーシャの人間性を否定してきたように容易にとはいかないのだ。
 ラクスはその体制のままで体を反転する。ソニアが考えていたこととは別のことを思っていたらしく、やや方向をたがえながらもソニアに顔を向けた。
「僕は、きみにそこまでは望まない。女神やかつての花嫁のようになる必要はないんだ。……大げさだと思うかもしれない。けど、その自己犠牲を強要するのが教会だ」
「だから、宮殿を出ろ、と?」
「ここに残れば、きみの身は教会の所有物になったのと同じだ。それならアーシャラフトから離れたほうがまだ自由でいられる。花嫁という立場は利用されやすい、いいように使われても文句は言えないんだ」
 立場は利用されるためにある。そこに若人が立つならなおさらだ。アーシャの花嫁など最たるもので、もともと神官ではなかった人間は動かすのにちょうどいい。
 わかっている。わかっているはずだろう。何度も自分に言い聞かせている、従順になれと。
 ソニアが返事をしないことをどう受け取ったのか、ラクスは続けた。
「……いま、クェリアの修道院を治めているのはクラウディアという女性だ。僕の母にあたる。婚儀のあとに手紙を出したが、今朝がた返事が届いた。きみにはクェリアに行ってもらう」
「っ、それは、もう帰ってくるなということですか!?」
「声を抑えろ。神前だ」
 奥歯がきしんだ。ぎりとかみしめた歯のあいだを吐息がすり抜ける。ソニアがにらみつけるようにしながら口を引き結ぶと、ラクスは小さく首を振った。
「そうじゃない。まだそうは結論を急がない。だから、クェリアの修道院で、さっき言ったことについて考えてみて欲しいんだ。仕事がどんなものか知らないうちには行く先も決められないだろう。……血族としてのひいき目を抜きにしても、母は高潔な人だ。きみに危害を加えることはないはずだから」
「危ないから、怖いんじゃないんです。いいえ、怖いというのも違くて」
 そこからは言葉にならなかった。
 宮殿を離れたくない、というのは。さらに彼の傍にいたいというのは、我儘になるだろうか。安易に口にすればその思いすらも薄れてしまう気がした。自分は花嫁として迎えられた少女、その本人ですらないのだ。多くを望んでいい身分ではない。ソニアは何ごとか言おうとした口を閉ざした。
「出発は三日後だ。エリーゼに同行させる」
「……わかり、ました」
 ソニアが苦しげに答えたとき、ひときわ高い足音が地を打った。同時にそちらを窺う。司教帽を揺らしながら、マティアスが礼拝堂に入ってくるところだった。彼はおやと口のなかで声を上げて、ゆるやかにほほ笑みを浮かべる。
「アーシャ、花嫁殿。ここでまみえることのできた僥倖、神に感謝いたしますよ」
 ラクスが立ち上がる。ソニアも腰を上げ、身を翻してそそくさと一礼した。
「マティアス殿、お久しぶりです。お顔を拝見しても言葉を交わす機会の減っていたこと、残念に思っていたところでした」
「お二方にとってはそれぐらいが丁度良いのですよ。老いぼれに構う必要もありますまい」
「そのようなことは」
 くすりと笑ってみせる表情が、意識したものであることぐらいは理解できた。それはマティアスの方も同じことだろう。深く関わろうとはせずとも付き合える相手はいる。
「変わらず時間に正確だ。毎日街の聖堂をめぐってもおられるのでしょう?」
 ラクスが問うと、マティアスが鷹揚に頷いた。
「私の日課でございますゆえ。導くものがなければ信徒は迷ってしまいます」
 そうして笑う様子は穏和な老人像をそのまま映しこんだかのようで、教会を統率する総大司教にしては穏やかが過ぎるふうもある。巡回しているという聖堂でもさぞかし慕われていることだろう。立場を抜きにして話せば聡明で含蓄に満ちた老人だ。
 ソニアがふたりを交互に見ているのに気がついたようで、マティアスが目元をゆるめた。
「お引き留めしてしまったようですな。私も女神に祈りを捧げますゆえ、これで」
「ええ、失礼いたします」
 立ち位置を代わり、マティアスが祭壇に移動する。彼は女神が目覚めたという光り輝く混沌の絵画を見つめ、それから静かに膝をついた。やや腰の曲がった姿勢は外見に見合ったものだ。怯える必要はなかったのかもしれない、と、初対面時のことを思い起こす。
 行くぞ。無言のその指示を受け取って、礼拝堂を出ていくラクスに従った。自室に戻ろうとする彼と別れたのは宮殿に入ってすぐの廊下だった。