「ひっ……どーい! アーシャ様、そんなこと言ったんですか!?」
「エッダ、声! 大きい!」
「あなたの声もじゅうぶん大きいです、花嫁様」
 イレーネが低い声で注意した。見れば、談笑に興じていた修道女すらもこちらを窺っている。
 目立つ三人組だ。ひとりは中庭の有名人、ひとりは美人と名高い修道女。彼女たちの存在をしてなお、ひときわ目を引いているのは中心にいるアーシャの花嫁だった。中庭で休憩に入っていたふたりの修道女を捕まえ、半ば強引にその輪に入ったのだ。
 簡単なつくりのベンチに座り、ソニアは自分のひざに頬づえをついている。最初こそふたりの話に耳を傾けていたが、浮かない顔を目に留めたエッダが至極当然とばかりにその理由を尋ねたのだ。迷った末にラクスとの会話をかいつまんで聞かせると、エッダは空に轟かんほどのすっとんきょうな声を上げた。
 慌ててソニアが黙らせたのは周囲の目を気にしたためだけではない。張本人に聞こえる可能性もないとは言いきれないからだ。ラクス自身が意識をしない限り遠くの声を拾うことはないのだと分かっていても、大声で彼の名を出すことは避けたい。
 エッダはソニアの意図を理解してか小声になって、唇をとがらせる。
「婚儀から一週間も過ぎてませんよね? それですぐにナヴィアから離れろってことですか」
「うん、まあ……そうかな」
 うなずきつつも、彼女の話し運びの巧みさにソニアは内心舌を巻いていた。気分を上向きにしようと話しかけたはずが、そう言葉を交わさないうちに気鬱の原因を探り出されてしまった。へりくだった言葉遣いまで指摘される始末だ。旅芸人の気質がそれを可能にしているのだろう、周囲に好かれるのもうなずける。
「花嫁って言っても奥さんですよ。ふつう追い出したりしますか? ふたりで過ごす蜜月、あまーい新婚の日々! そういうものでしょう」
 意識していなかったことを思い出させられる。ソニアは顔を赤らめ、「あんまり……そういうのは、なかったけど」と目をそむけた。それがエッダの憤りを煽ったらしい。
「世間じゃ当然ですよ! それがなんですか、宮殿から外に出す? おかしいじゃありませんか。怒っていいんですよ、花嫁さま」
 ソニアは苦笑を返した。これではエッダが代わりに発散してくれたようなものだ。くすぶっていた感情はやりどころのないままで鎮火してしまった。おそらく今後もこうして気持ちに折り合いをつけて生きていくのだろうと思う。
 幾分か余裕ができて、苛々と地面を踏み鳴らすエッダから隣のイレーネに顔を向ける。馬鹿らしいとでも言いたげにどこか遠くを見ていた彼女だが、一応話は聞いていたらしい。ソニアの視線に気づいて眉を寄せた。
「そもそも、あなたはどうしてここにいるんですか。毎日毎日、飽きずに勉強なさっているんでしょう? こんなところでくされていないで書庫に行ったらどうです」
「こらイレーネ、そういう言い方はよくないわよ」
 相変わらず容赦はないが、あいだに人が挟まるせいか落ち着いて聞いていられる。エッダがいさめるとイレーネはふんと鼻を鳴らした。態度は相手が年上であろうと変わらないらしい。それとも、辛辣な言葉が飛び出さないだけ和らいでいるのだろうか。
 そういえばとソニアは中庭を見回す。頭に浮かんだ少女の姿は見当たらない。
「ビアンカはどうしたの?」
「ですって、イレーネ」
「こっちに振らないでください、私はあの子と始終一緒にいるわけじゃないんです」迷惑そうに吐き捨てたが、少しして「……今の時間なら仕事じゃありませんか。最近はやけに張り切っているようですから。何故かは知りませんが」と答えるあたり付き合いはそう悪くない。本人は心底嫌そうに顔をゆがめてはいるけれど。
 ビアンカと仕事というと、あまりいい組み合わせではないように思えてしまう。食事どきにはよくおさげを揺らす姿を見かけているが、少し目を離しているあいだに誰かに怒られていることが多い。皿を割る、食卓の横で転ぶといった光景はもう見慣れてしまった。神官らのなかでも名物らしく、ビアンカが叱られるたびにくすくすと笑っているのを耳にする。
 そうですねえとエッダは呟いて、顎に指をあてた。
「花嫁さまが頑張っているからかもしれませんね。あの子、よく花嫁さまのことを話しているみたいだから」
「わたし? どうしてわたしなんか」
「あら、もっとご自分のことを意識なさるべきですよ。アーシャの花嫁は、あたしたち修道女だけじゃなくアーシャラフトじゅうの乙女のあこがれなんですから。ねえイレーネ?」
「私に振らないでください」
 こころなしか声が固くなった。それに気を留めることなく、エッダは指揮棒を振るように指をついと動かす。
「今日は花嫁さまを見かけたから幸運だ、目があったからいいことが起こるかもしれない。ビアンカに限らず、みんながそう言って仕事をしています。婚儀があってからぐんと作業の効率が上がったんですよ、信じられます?」
 ソニアは大きく首を振る。
 婚儀がもたらすのはもっと政治的な効果だと思っていた。アーシャの位の継承とそれにともなう他国との関係性の変化、そしてファルツとアーシャラフトとの繋がりの強化。それ以上でもそれ以下でもないはずが、修道女たちの心境にさえ影響を与えたというのだ。
 そして納得がいく。花嫁に示されたひとつめの道のわけに。ナヴィア宮殿に残るということは、世の女性たちの象徴になるということだ。アーシャが神官のそれであるように、花嫁の身は宮殿に存在するだけで意味を持つのだ。修道女たちを束ねる義務はその副産物にすぎない。
(じゅうぶん理解していたつもりだったんだけどな……)
 まだ理解が足りない。考えが浅い。ラクスから道を示されたとき、はじめからその意味がつかめれば、別の受け取り方ができたはずだ。そうして後悔に傾きかけた頭をなんとか元に戻し、ソニアは問う。
「エッダたちはどんな仕事をしているの? 料理と、洗濯と。他にもあるのよね」
「興味がおありですか?」
「花嫁は、宮殿で修道女をまとめるか、遠くに修道院を作るかを選ぶことになるらしいの。修道院のほうは三日後に見に行くから、それまではここのことを知りたいと思って」
「あたしたちのリーダーが花嫁さまになるんですね! あはは、説教好きのイルマさんも悔しがるなあ」
「ま、まだ決まったわけじゃないの。もうひとつのほうを選ぶかもしれないし」
 そちらのほうが可能性は高いし。言いかけた言葉を飲み込んだ。
 エッダはしかし、興奮を隠しきれない様子で立ち上がる。膝の上にあったソニアの手を取り、ベンチからひっぱりあげた。軽々と立たされてしまったソニアがきょとんとする。ぐい、とエッダの顔が寄った。
「それなら見てみましょう、なにごとも経験あるのみですし」
 そのまま腕をひかれる。驚くべきは彼女の力で、ソニアが立ち止まることを許さない。さらに余力が残っているらしく、それまで座っていたベンチをふり返った。立ち去ろうとしていたイレーネに向かって呼びかける。
「ほら、あなたもついて来なさい」
「……私はまだ休憩時間です」
「つべこべ言わずに来るの、年上の言うことは聞くものよ」
 イレーネがぶつくさと文句を言うのをエッダは聞いていないようだった。彼女があきれた様子で後ろについてくるのを見やって、満足げにうなずいている。
(案外、攻められると弱いのかもしれない)
 憶えておこう。腕をひかれながら、ソニアは心のなかで呟いた。