ふたつの道
 ろうそくの減りが早くなった。夜になって書き物をすることが増えたからだ。
 ペンだこのできた右手の中指をさすりながら、コルネリアは暗がりに落ちた部屋の天井を見あげた。ろうそくが切れたら使用人を呼べばいいだけのことだが、完全に光の消えた空間は心なしか居心地がよかったのだ。
 裕福な暮らしには、それに慣れた瞬間に飽きがまわる。そしてより多くの財を求めるようになる。もっと、もっと、とかき集め続けた富はファルツ家をアーシャラフト一の貴族にしたけれど、彼女が見つめていたのは相対的ではなく絶対的な財力だった。
 家をここまで立派にしたのは自分だと自負している。夫は生真面目だが情にもろい。それでは商売などできようはずがない。新たな貿易ルートを立ち上げるには、相手を傲慢なまでの自尊心で圧倒し、信頼を勝ち取っていかなければいけないのだから。
 しばらくして、休憩は終わりだと高らかに手を叩く。すぐに使用人が飛んできて、ノックのあとに扉をひらいた。暗闇に驚く気配が伝わってくる。
「ろうそくを用意してちょうだい。もう切れてしまったわ」
「連日のお仕事、ご苦労さまでございます」
「……あら。見ない顔ね」
 正しくは、その声に聞き慣れない響きがあったのだった。顔の輪郭までははっきりとしない。雇っている召使いには女性が多いため、少数しかいない男が訪ねてくれば嫌でもその声を覚える。コルネリアの言葉に青年はええ、と首肯した。
「数日前よりここに」
「そう、頑張ってちょうだい」
 大した興味がわくわけでもない。そっけなく声をかけると青年はくつくつと笑った。含みのある笑声を耳にして、コルネリアが眉間にしわを寄せた。
「ろうそくを、と言っているのよ。耳が聞こえなくて?」
「いいえ? 耳が遠いのはあなたのほうでは、ファルツ公爵夫人」
 不敬な。使用人の分際で。すぐに眉がつりあがる。コルネリアは椅子から腰を上げたが、青年は臆することなく言葉を連ねた。
「ご苦労さま、って言ったんですよ。あんたが隠れてこそこそやってることも、もう意味なんてないって分かりません?」
「わたくしが誰だかご存じないのかしら……あなた、自分の首が惜しくないようね」
「首? 首ね! 俺の首なんて生まれたときから切れてるようなもんですよ!」
 哄笑には自嘲が混じっていた。なにかがおかしいと身を引いたコルネリアに、青年は二歩、三歩と歩み寄る。カーペットを踏む靴音に言いようのない恐怖を覚えた。せめて顔をとにらみつけても、窓越しの月の光は今や雲に隠れ、彼を映し出すには頼りない。
「もう用無しだ。首を切られるのはあんたのほう。失敗したんだよ」
 ついに敬語をかなぐり捨てた彼が懐を探る。続いて耳に入ったのは金属のこすれ合うような短い音で、そしてコルネリアは全てを察した。
 たった一度の失敗を取り戻すために、何度も手紙を送っていた。だがそれも無駄だったというわけだ。コルネリアのもとへと送りこまれたこの青年は、疑われることもなくファルツの屋敷に溶け込み、虎視眈々と彼女を窺っていたのだ。
「ま、待って、申し開きの機会をちょうだい。次こそはうまく」
「次、が訪れるとでも? 馬鹿だな、夫人。一度目の前にぶら下がった機会を取り逃がしたら、もう人は墜ちていくしかないんだよ。それをつかめなかった時点であんたは負けだ。それにあんたがこっちのことを漏らしでもすれば、全部ぱあになるんでね」
 青年が近づく。壁際に追い詰められたコルネリアに逃げ場はない。
 月が雲を抜けた。コルネリアがはっとして青年を見あげたその時、刃が走っておぞましい光を放つ。断末魔を封じるべく、一閃のもとにその首が掻き切られた。彼の頬が生温かい鮮血に濡れる。すぐに鉄臭い血の香りが漂い、コルネリアの細い体躯が崩れ落ちてゆく。自らの血だまりに沈み、彼女の喉はひゅうひゅうと音を立てていたが、やがてそれも消えた。
 若き刺客はその隣に膝をついた。白い肌には赤い華がよく映える。
「老いたなあ、夫人。失うのが怖くなったんだろう? それじゃあもう引退どきだよ」
 薄く嗤う。頬から垂れた血の滴はあたかも涙のようだった。もう泣くことなどないと誓った、彼の。


     *


 寄りそって歩き、彼の目に見えないものを見て言葉にする。関心を抱かぬそぶりをする彼が、口をはさむでも切り捨てるでもなく黙って聞いているのを知っていた。
「木の葉がどんどん散っていきます。まだまだ寒くなるみたいで」
 窓の外には冬枯れの景色が広がる。季節が廻れば青々と茂るのであろう木々の枝はさびしく、乾燥した風がしわがれた葉をまた一枚奪い去っていった。雪の降らないアーシャラフトの冬空を覆うのはけぶるようなうす雲で、ときおりそこから雨粒が落ちてくるのだ。冷えた大地には恵みの雨たりえないものだった。
「きみの故郷はどうだった」
 ふいにラクスが問うたので、ソニアは目をぱちくりとさせた。ええと、と考えるのはひととき。
「冬は、ここよりあたたかかったです。少しだけ雪が降って、街じゅうが真っ白になるんです」
「……雪? メリアンツに住んでいたわけじゃないのか」
「わたし、そんなこと言いましたか?」
 自分が覚えている限りではなかったはずだ。ラクスはやや考えこんで、いや、と答えたきり立ちどまる。それに倣って足を止めるとすぐに冷気が襲ってきて、むき出しの指先がしびれた。
 北方を覆う大国、メリアンツ。彼の地にも雪は降らない。半島に建てられたアーシャラフトが陸続きに国境を面しているのはその国だけで、海を越えなければ他国にはたどり着けないようになっている。以前ここの生まれではないと言ったことがあったから、それではメリアンツの人間なのだと思われたのだろう。
「海を越えてきました。神様のいるところに行きたくて。私が生まれたのはもっと、ずっと南のほうです。アーシャラフトはあそこより寒いのに、雪が降らないんですね」
 漂った沈黙をごまかすように言うと、ラクスは視線を他方にやった。そちらに目を向けたというより、ソニアから顔をそらしたのだろう。どこを向いたとしても瞳に映る景色はそう変わらないという。人通りのない廊下でしばらく黙りこんで、彼はぼそりと呟いた。
「帰りたいか?」
「え」
「きみの故郷に。アーシャラフトよりは過ごしやすいだろう」
 ソニアの瞳が曇る。
「どうしてそんなことを言うんです?」
 追い払いたいのだろうか、という疑惑が浮かんで、すぐにそれを振り払った。それにしてはラクスの声はいたわりの色を擁していて、どこか気を使っているように思えたからだ。少なくとも教会に来た当初と同じ拒絶は含んでいない。
「帰る場所はありません。行き倒れたっていうのは、そういうことです。わたしは捨てられたんです」
 親のことを、話そうか話すまいか。迷ってやめた。エリーゼには勉強のさなかに明かしたこともあったが、ラクスにそれを伝える必要はないだろう。ミセラの身代わりとして花嫁に据えられた少女、それで十分だ。彼の隣にあれるならふり返ろうとは思わない。
 だがふとしたときに彼はソニアの故郷のことを尋ねるのだった。訪問しようと思っているわけではないだろうが、その意図は読めない。ソニアの口からたどたどしい言葉を聞きだしては、そうか、とだけ答える会話が頻繁になっていた。
「お母さんも、もうきっとあの家には住んでいません。ずっと同じところにいると、借金取りのひとたちに見つかってしまうから」
 ラクスが目を瞠った。あまりそういう顔はさせたくないなと思う。驚かせるということは彼の知らないものを教えたということで、それが自分の生きてきた境遇などであってはあまりにも不毛だ。
「あてはありません、ここにおいてください。……花嫁に、なったのですから」
 ぼそぼそと付け加える。こういうときだけ口にするのは卑怯だ。
 ラクスは空白ののちに、そうだな、と返して歩み出す。目指す場所は隣接した大聖堂だ。毎日二度の拝礼がアーシャの務めで、花嫁もそこに付き添うことになっていた。いつもならば後ろをついてきている騎士の姿がないので尋ねると、先日の騒ぎの原因を探っているのだという。ラクスの傷はほぼふさがっていても刺客を放った人間の影はいまだに見えてこないのだ。
 とはいっても警護に抜かりはないだろう。ソニアはともあれ、アーシャであるラクスがひとりの護衛もつけずに歩き回るはずがないのだ。前回のことがあってから、宮殿内の警備はいっそう強固になったという。
 天使像の招く渡り廊下へ。十回目を数えた礼拝を前に、ソニアはひとつ深呼吸をした。