祝祭のあと
 脳髄を酔わすアルコールの香りが空気に融けている。もしくはこれは、豪奢なベッドと絨毯に焚きつけられた果実の香か。どちらとも断定できないほどに男は酩酊し、眠る間際のような心地よさに身をゆだねていた。
 彼を受け止めるベッドのシーツは、未だ、新しい。先代より受け継いだものは捨て得るかぎり捨ててしまった。趣味に合わないという簡潔な理由もあったが、親と同じものを使いたくないという幼心があったのも事実だ。
 ――変えてゆくのだ。俺が。親父のやり方では、世界など到底手に入るまい。
 くく、と喉の奥で笑ったのはわずかな間。特徴的なリズムで叩かれた扉の音に、彼の意識は覚醒した。体を動かさないまでもまぶたを鷹揚に上下し、「入れ」と答える。一礼の後に姿を現した青年の姿を目に入れるや否や、その口元が弦月を描いた。
「事の次第はどうだ」
「は。刺客は失敗、捕らえられた末に自害したようです」
「粗末なものだな。さすが、アーシャラフト育ちは違う」
 アーシャラフトの貿易家、ファルツの侯爵夫人と協定を組んだのが先日。ある程度唆しはしたものの、息巻いてアーシャの花嫁の息の根を止めにかかったのは彼女の独断によるものだった。教会に問い詰められ告げ口などしないかぎりは、暗幕の裏側に視線が集まるなどということはないだろう。いくら粗末な刺客とて、身許が突き止められるようなへままでは冒すまい。
 剣は、使う寸前まで鞘にしまっておくものだ。それが男の信条であった。背後から斬りつけることこそ至上。騎士道などというものにうつつを抜かしていては大帝国など築けない。
「命すら果たせぬ駒であったか。いや、躾のなっていない駄犬とでもいうべきか? 到底使い物にはならんな。余計なことを吐く前に始末しておけ」
「御意のままに。……恐れながら、閣下。ひとつ、お耳に入れたいことが」
「どうした」
「先の刺客の失敗ですが、どうやら神殿騎士が原因ではなく、アーシャが身を呈して花嫁をかばったためであると」
「かばった? 冗談だろう」
 青年の報告に耳を疑った。アーシャと花嫁の関係ぐらいよく理解しているつもりだ。あれは政略結婚となんら変わりはしない。アーシャは血族によって受け継がれる貴重な身分なのだから、死んだとて代わりの効く花嫁とではどちらが守られるべきかなど周知の事実だろう。
 その上、今代のアーシャは盲目と天の耳を兼ね備えた、教会にとっては目に入れても痛くないほどの存在だ。とうとう目の前の青年がとち狂ったのかとも思ったが、彼は真剣な様相で報告を続ける。
「アーシャは婚儀の直前まで療養に専念していたようです。予定されていた婚儀が数日延期になったのはご存じのはず」
「ああ、俺は顔を出していないがな」
 代理を立てた理由は他の何でもない。神の言葉などという妄言に耳を貸すつもりがなかったからだ。青年は咎めるでもなくうなずいた。
「教会側も、アーシャを狙ったものだとあたりをつけて刺客の主を捜しているようです」
「それは好都合だが……しかし、かばった、か。馬鹿な真似をする。考えられんな。そう思うだろう?」
「自分には判断しかねますが」
 そっけないふうを装った青年の態度に笑いだしそうになる。こういった事態にもっとも動揺してしかるべきなのは彼のほうだ。
「……面白い。アーシャなどその辺りの貴族にくれてやるつもりだったが、気が変わった。花嫁の名はなんという?」
「ミセラ・ファルツ。件のファルツ家の令嬢です。いくらか不審な噂も耳にしますが」
「重畳だ。その女を調べろ。しかるのちに、動く」
「御意」
 手を胸において一礼した青年が、わずかばかり躊躇したのを、男の鋭い目は決して見逃がさなかった。扉に手をかけた彼の背に、石を放るようにして言葉をかける。
「その女、もしお前の母であったなら、お前の世界は変わったか?」
 青年の肩が揺れ、無言の間が生まれた。
 知っている。青年のすべてを奪った男の名を。そしてその心を、意志を、世界を反転させた女の名を。そうして路傍に果てるはずだった彼の定めを捻じ曲げたのは、男――今や大帝国を両手に統べる、アーダルベルト・ビュットナーその人に違いない。
 青年がふり向く。移ろう人の身で笑う。
「世界が変わっても、歴史は動かない。儚い人間に過ぎません、閣下。……私も、貴方も」
 諦めの瞳には、彼を拾った当時と同じ蒼空が宿っていた。