粛とした聖堂には緊張が漂っていた。
 磨き上げられた石材でつくられた祭壇の上に、ラクスはひとり跪いている。高い天井近くに取り付けられた小窓がその背に陽光を落とし、漂う埃さえもがきらめいた。身にまとっているのは普段着としている修道着とは異なり、金の刺繍と青の文様とがあしらわれた格式ばったものだ。その衣が神聖な色をまとわせたのか、透き通るかのような金髪と冬空色の瞳を備えた少年が聖堂に姿を現したとき、参列者は誰からともなく感嘆のため息を漏らした。
 信徒でさえも容易に足を踏み入れることのかなわないアーシャラフトの大聖堂は、今やアーシャの婚儀を見届けんとする人々で埋められていた。聖堂に並んだ十数列に及ぶ長椅子には大司教らが腰を下ろし、そろって彼の姿を見つめている。そのうしろから、廊下の外からと、幾重もの教徒たちが彼の背を見守っていた。息遣いさえも空気を震わせるようで、誰もがみな浅い呼吸をくり返している。
 アーシャの座を受け継ぐにはラクスはまだ年若い。前アーシャが死を迎えるのもまた早すぎた。盲目と天の耳による継承権の移動が幼いアーシャをつくりだす発端となったのだ。それは同じ年頃の花嫁を迎える要因でもあった。教会の行く末を見守る者として、彼らはいまだ未熟だ。
 危惧する者、憂慮する者がある。だが見守るよりほかに道はない。たとえ婚儀に不安が残るとしても。
「天地を分かち、混沌より我らを救い、この地にまします遥けし女神よ」
 瞳をとじた少年が、うつくしい声で謳う。
「再臨ののちに縁(よすが)を紡ぎ、世を縫いとめし偉大なる御神にかしこみ申す。息の内短き我らひとの子に、いまひとたびあなたの祝福を。御言(みこと)に従い御神を護らん」
 祈りを紡ぎあげる彼の言葉にとどまるところはなかった。すっくと立ち上がり、背筋を伸ばして、無言で息を吸う。
 待ち受けるのはひとりの少女だ。長椅子に座る大司教らも、なりゆきを見守る教徒らも、誰もがその到着を待っていた。その目には興味と好奇、諦念の色がはらまれている。
 かつて彼女は幾多の視線に耐えきれず、足をすくませたことがある。あれからふた月もの時が過ぎたが、アーシャの花嫁としての彼女を疑問視する者は多い。あまりにも貧弱で、はかなげな彼女は、花嫁には不適ではなかったのかと。
 答えは出る。今日、この日に。
 祭壇のわきに建てつけられた扉が軋んで開く。純白のレースがのぞいた。固い床を踏み、かつん、かつんと余韻を残しながら歩み寄った花嫁の姿に、参列者の誰もが息をのむ。日ごろの心許ない立ち居振る舞いはどこへ消えたのか。凛としたたたずまいは高貴、細い体を厳かなドレスが包み、花の刺繍をあしらったヴェールが夜色の髪を覆う。両手に包む花冠のささやかな香りは春を思わせた。
 アーシャが光ならば花嫁は影だ。太陽と月、朝と夜。並び立つのが当然であったかのような様相に、どこからかほうとため息が漏れた。
 ラクスは衣を正し、花嫁の前に膝をつく。花冠がその頭上に授けられると白の花が静かに揺れた。それを見届けた総大司教から、花嫁に白銀の剣が手渡される。神殿騎士が携帯を義務付けられているものと同じ剣の、その刃の側面を花冠にあてがって、彼女は唇をひらいた。
「アーシャの血に恥じぬよう、守護者の名に恥じぬよう。女神ノーディスの御霊のもと、あなたに祈りを」
 頭上から剣が引かれ、総大司教の捧げる蒼円を描いた鞘に収まる。ラクスのかざした両手にその剣が手渡された。
 剣授の儀。これをもってアーシャの座は受け継がれ、新たなアーシャが誕生する。ラクスは剣を手に立ち上がり、もう片方の手で彼女の手を取って祭壇を下りた。ひとつまたひとつと拍手が生まれ、やがてそれは大聖堂を覆い尽くしていった。
 建国より八百三十三年、第五十二代アーシャの誕生。神聖国アーシャラフトの新たなる幕開けであった。



 ヒールの高い靴を脱いで、ソニアはやっと大きく息をついた。婚儀が終わってはじめて緊張が襲ってきて、やわらかい椅子に座っていてもがくがくとひざが笑っている。レースをふんだんにあしらったドレスをいかに踏まずに歩けるかに全精力を傾けていた。ドレスの裾は予想以上に長い上、慣れない靴では足元もおぼつかなかったからだ。
「ソニア様、お疲れさまでした。お茶になさいますか、それともなにか簡単なものをお作りしましょうか」
「はっ、はやく、これを脱がせてください……!」
 染みを作ろうものなら、いったいどれだけのお金が泡と消えることになるのか。ソニアが震える手で膝上のドレスの布を叩くと、エリーゼがからからと笑った。
 聖堂を退出してそのまま控え室にこもっている。ソニアとラクス、そしてふたりの騎士以外は、追い出されるようにして大聖堂を出ていった。十七年の人生で一度として足を踏み入れたことのないこの場所が、婚儀の会場だなどと聞かされたのが三日前だ。そのときは肝がつぶれるかと思った。考えてみれば当然のことなのだけれど、そこまで頭が回らなかったのだ。
 ラクスがわき腹に怪我を負ってから約一か月。冬の風がどんどんと冷たさを増していくその間、ソニアの空いている時間はすべて礼儀作法の授業のために消えていった。空いている、というのはそのままの意味である。これといって仕事を受け持っているわけでもない彼女は、食事と睡眠以外のすべての時間をそこに費やしたのだった。講師はエリーゼで、いざ作法となると彼女は鬼のように厳しい講師となるのだと知った。
「とてもご立派でしたよ。一か月前が嘘のようでした」
「転んだりしたら、エリーゼに何を言われるか……」
「あら、ちょっと叱るぐらいですよ。ちょっと」
(どうして繰り返したの!)
 心のなかで叫ぶ。ソニアの形相など知らぬふりで、エリーゼはてきぱきと紅茶を淹れていく。一連の動作は流れるようだ。それもたしなみの一つなのだろうかとソニアは唇を噛む。
「脱ぐのは構わないけど」ラクスは椅子の背もたれに体を預け、だらりと両足を投げ出している。「僕はまだ出ていかないからな」
 疲れた、と息をつく彼もまた、高価な衣服を身につけているのだ。祭事のときにしか着用することのないアーシャの礼服だろう。ソニアがそれを目にするのは二度目で、一度目はメリアンツ皇帝の即位式におもむく彼を見送ったときだった。
 うらみがましくレオンハルトに目を向ける。視線に気づいてはいるようだが、ついと顔をそらされた。あくまでもアーシャに迎合する姿勢らしい。
「もう少し着ていらしたらいかがです? もう着ることのないものですし」
「着慣れていないから、すぐ汚してしまいそうで嫌なんです」
「特注品ですし、お好きになさっていいんですよ」
「だからです。とても高いんでしょう……?」
 かくりと首をかしげられた。神殿騎士とはいえ生まれは名家、金銭感覚には疎いらしい。ラクスも理解してはいないだろう。
 ソニアはドレスの裾をつまむ。レース、リボン、すべてアーシャラフトの職人が意匠を凝らしてつくりあげた逸品だ。これ一着ぶんの費用で何日食事に困らず暮らせるだろうかと考えてしまう。
 そのドレスすら教会の運営費用、つまり世界中の信徒の献金から資金が出されているというのだからなおさらだ。自分の知らないところで多額のお金が動いているという状況がソニアには恐ろしい。貧乏性と言ってしまえばそれまでなのだけれど。
 エリーゼに手渡された紅茶を口にして、ラクスはにいと笑んだ。
「服を汚すことにかけては慣れたものだからな」
「あ、あれは!」
「ああ、そうですね。修道服も新しいものを用意いたしましょうか」
 反論しようとしたところにエリーゼの横やりが入る。いいですいりませんと首を大きく振った。別段着られなくなったわけでも、穴が開いたわけでもない。妙な愛着がわいてしまっているのも確かだった。葡萄色の染みと土の汚れはしつこくこびりついたままだけれど、ソニアにとっては小綺麗なものよりかえって落ち着いていられる。新品や高価なものにはいくら経っても慣れそうになかった。
「ですが、あれだけ汚れていますし」
「大丈夫です、……ううん、まだあれを着ていたいんです。ぼろぼろになって、もう着られなくなるまで」
 自分を忘れずにいられるように、着続けていこうと誓ったものだ。あれを着ている限り、ソニアはソニアでいられる。貧しい家に生まれ、命を失いかけた少女のことを頭のすみに住まわせていられる。ミセラの名を預かったとて彼女になれるわけがないのだから、自分の名とこころを捨てる気はなかった。
 無念そうにするエリーゼにほほ笑みだけを返して、ソニアは紅茶をすするラクスにふと視線を投げる。彼は止まった会話に反応してかちらと顔を上げたが、すぐに手元に目を落としてしまった。泰然とした態度には揺るぎない自信が見てとれる。汚すかもしれないなどと考えてはいないのだろう。こちらが怯えているのがなんだか恥ずかしく思えてくる。
 ソニアは差し出されたティーカップに手を伸ばして息を吹きかけた。表面にさざ波が立ち、映りこんだ黒髪の少女が波間に紛れる。こくりと一口飲みこむと、わずかな甘みに力が抜けた。