その日の午後、いくらか脚色された噂話が教会じゅうを駆け巡った。神官たちは一斉に混乱に陥り、統制に回るはずの騎士でさえも情報の錯綜にその役割を見失っていた。止血を主にした応急処置を終えたあとは医者を含め誰にも打つ手はなく、ラクスは安静にしたまま怪我の治癒を待つこととなった。
 部屋の外の護衛を兄に任せ、エリーゼは事態の鎮静に向かってしまった。犯人はレオンハルトによって捕らえられるや否や自害したという。遺体は教会によって引き取られ、後日どこの手の者かを検分されることになっていた。
 深い怪我ではありませんでした、と、去り際にエリーゼは言った。
 ラクスがすんでのところで避けたのか、それとも単に刺客の腕が悪かったのか。理由はどうあれ、ナイフは彼のわき腹をある程度切り裂いたのみで、致命傷には至らなかった。刃先に毒が塗りこめられていなかったのは幸運だったという。多量の出血によってラクスはエリーゼの背の上で意識を失ったが、ベッドに眠る今は安らかに寝息を立てていた。血は完全に止まり、遅くとももう二週間ほどで歩けるようになるだろうというのが医者の見立てだった。
 怪我が浅い理由をソニアは知っている。もともと彼が受けるはずのない刃だったのだ。ソニアを突きとばしさえしなければ、ラクスは軽傷どころか傷ひとつなく済んでいた。
「ごめんなさい」
 手を握ることも、かなわなかった。彼がひとりでいることのないようにと願っていたのに。それどころかラクスが負傷したのは、身を守るすべを持たない自分がいたからだ。
 再度にじんだ涙を乱暴にぬぐう。もう何度も泣いている。いつまでもこうしていては彼に顔向けができない。
「ごめんなさい」
 くり返し謝る。そんなソニアをカミルは卑屈だと言ったけれど、いくら謝っても時は戻らないことを知っているからこそ言葉にするのだ。謝ることは考えを止めようとすることで、いてもたってもいられなくなる自分を落ち着かせるための呪文だった。
 幾度目になったかわからないそれをつぶやこうとしたところで、規則正しかった彼の呼吸が乱れた。眉間にしわを寄せ、小さくうめいたあとに目が開かれる。ラクスはそのまま二回まばたきをして、ここは、とつぶやいた。直後、苦しそうに顔をゆがめる。
「ま、まだ痛みますか」
「きみ、か」
「エリーゼを呼びますか、それとも医者の方を」
「いや、いい。……声を抑えてくれ、響く」
 耳と怪我、どちらに向けての言葉かはわからなかったが、口をつぐむ。耐えるようにしていたラクスは深呼吸をして、そっと体から力を抜いていった。動かすべきでないと判断したのだろう。その様子を窺いながら、ソニアは極力声を抑えて伝える。
「エリーゼはみなさんを落ち着かせに行きました。レオンハルトさんは部屋の外で、他の方が近づかないように見張りをなさっています。あとはマティアス様が、このことはアーシャラフトの街には漏らさないように、と」
「緘口令か。あの人らしい」
 事態を知ったマティアスが最初に命じたことだった。宮殿のなかで起こったことが不幸中の幸いだったのか、ラクスの状態を目撃した神官や騎士たちを黙らせれば混乱が街にまで広まることはなかった。事情に首をつっこもうとする者たちを鎮めるのは自分の仕事だとして、今も落ち着いた者たちと共に混乱の収拾に努めている。
 てきぱきと進められる事後処理に取り残されるように、ソニアはラクスのもとにいた。部屋の外に出れば野次馬たちにもみくちゃにされることになるのだから、落ちついて座っていられる場所はここにしかないのだった。
 花嫁が無事だという事実は説得の口実に使われているようだが、そのソニア自身はラクスの目覚めを待つよりほかにすることがなかったのである。彼が意識を取り戻した今、それを誰かに伝えて適切な指示を仰ぐしかないのが恥ずかしいところだった。それじゃあと椅子から立ち上がりかけたソニアに気付いて、ラクスは顔を彼女に向ける。
「泣いていたのは、きみか」
「……え?」
「ずっと。眠っている間も、泣き声が聞こえていた。僕の名前を呼ぶ声も。あれはきみだったのか」
 泣いていたのも、名を呼んだのも確かだ。ラクスが眠りに就き、その自室でふたり残されてから、こぼれだした涙は止まるところを知らなかった。衣でぬぐえばすぐに滴が落ちてきて、しゃくりあげながら声を抑えて泣いていた。眠りを妨げてはいけないと声を殺したまま。
 命に別条はないと言われても、目を閉じた彼がやがて息を止めてしまいそうで恐ろしかった。ベッドの縁に縋りつき、一心に名前をつぶやいていた。いつしか凪ぐように衝動がおさまって、次に口から漏れたのが謝罪の言葉であった。
「ごめんなさい、また耳に障りましたか」
 いつか、自分の声は頭に響くと言われたのを思い出す。特別声が大きいという自覚はなかったが、耳のいいラクスにとってはまた別の次元の話なのだろう。ソニアが小声で謝ると、ラクスはそうじゃないとつぶやいた。
「うるさい、とかいう話じゃないんだ。……僕の言い方が悪いのか、これは」
 きょとんとしたソニアに、ラクスはひとつため息をつく。言葉に迷うような間のあとにぽつりと言った。
「怪我は。ないな」
「……!」
 ひとこと。そのたったひとことに、胸の奥をきつく握られたようだった。瞬間、ひくついた喉を気付かれただろうか。鼻がつんとして、一旦はおさまりを見せた涙がしみ出してくる。
 真に心配されるべきなのは彼のほうなのに、嬉しいと思ってしまう自分が浅ましい。赤黒い血の色が脳裏に思い出されて、苦痛の声が、死んだように眠っていた彼の姿が、次々と思い浮かぶ。
 刺客は怪我で済ませる気などなかった。失敗、成功に関わらず、あるじを悟られぬように自らの命すら投げ出すような相手だ。当然刃は水平に握られ、確実に仕留めることを狙っていた。もしあと少しでも体がそれていれば、あのナイフは彼の腹をまっすぐに貫いていたのだ。
「……なん、で、かばったんですか……」
 問わずにはいられなかった。けれど答えが返ってくるのを望んではいなかった。
 わずかに口もとを下げたラクスに、ソニアは言葉を連ねる。
「こわ、かっ……こわかったんです。あなたがいなくなるかもしれないなんて、死んでしまうかもしれないなんて! 眠っている間もずっと、このまま目を覚まさなかったらとか、息が止まったらだとか、ずっと考えて……怖くて、たまらなくて」
 あなたを失うのがこんなに怖いなら、自分が傷ついた方がましだった。
 痛みなら耐えられる。命を投げ出すことだって、きっと。けれど、やっと歩み寄ることのできた彼が消えてしまうことだけは、どうしても耐えられなかった。
 ぼたりぼたりと涙が落ちる。白いシーツにしみこんで、薄青く染みをつくっていく。目をこすることもせず、ソニアは爪をてのひらに食い込ませながら叫ぶ。
「あなたがいなくなったら、わたしは誰を目指せばいいんですか。誰の隣を見つめて、頑張ればいいんですか。あなたの……あなたのところに、行きたくて、わたし」
 支離滅裂なことを言っている。ついに嗚咽が漏れて、ソニアはごしごしと目元をこすった。情けないとわかってはいるのに、涙が止まってくれない。
「……すき、なんです。ラクスがすきです。おいていかないでください。遠くにいてもいいんです、嫌われていてもいいから……そこに、いてください」
 見えていれば、追いかけられる。走っていられる。まだ頑張れる。
 目指していたものが無くなってしまったとき、その空白に誰を据えればいい? ――わかっている、代わりはどこにもいない。誰も誰かの代わりにはなれない。だから恐ろしくてたまらなくなる。失われるかもしれないものを、がむしゃらに繋ぎとめようとするのだ。
 ラクスが目を瞠り、それからまぶしそうにそっと細めた。毛布の下にあった彼の右手がふらりとかかげられる。なにかを求めるように指を曲げ伸ばししていたそれに、ソニアはためらいながら触れる。指とてのひらがぶつかって、握られた。
 つめたい手をしている。けれど大きくてすべらかな手だ。白くて美しい、導く者の手だ。わずかに震えたソニアの手が包みこまれる。指が指をなぞり、甲に触れ、手首が握られた。その手がとくんと脈うって、命のおとをふたりに伝える。
 は、と息を漏らした。沈黙が部屋に満ちて、一呼吸の間ののちに、ラクスは彼女の手を強く引いた。踏みとどまれずに流された体の、その背に、もう片方の彼の手がまわされる。確かめるように背を撫で、やがてひとところに落ち着いた。
 ――抱きしめられた。それを意識したのは、彼の心臓の音が聞こえたときだった。
「すまない」
 謝罪の言葉に、どうしてと問うことができない。
「いまきみを。いとおしい、と。思った」
 耳元に語りかける、ささやかで心地のいい彼の声。触れた部分が熱くて、握られた手にはもう感覚がなかった。そのくせ心は驚くほどに澄んでいる。波が引いては寄せるように、静かに拍を打つ彼の心臓を感じるからだろうか。
「僕はきみの涙をぬぐえない。一番は女神に、二番は国に、すでに捧げてしまっている。……それでもいいなら、僕の、花嫁になってもらえないか」
 そのとき、確かに彼は、ソニアを見ていた。
 胸の奥のほのかなひかりに名前をつけるなら、きっとそれは、いとおしいという感情だ。そのひとのためになら駆けていけると思う心だ。手を握り、生のともしびが消えかけるときすらも共にありたいという切なる願いだ。
「なまえ」
「……ん?」
「名前を、呼んでもらえませんか。わたしの名前を」
 そう言ってソニアはまぶたを閉じた。ラクスの声に耳を澄ませて、眠りに就くように。
 闇に落ちた世界ももう怖くはなかった。彼が生きていて、そこに寄りそっていられるなら、心に灯ったひかりを信じて生きていける。温もりを抱きしめて歩いてゆける。
「ソニア」
「……はい」
「ソニア」
「はい」
 そして。
「ソニア、……僕と、結婚してほしい」
 ひしと衣を握って、彼の拍動に包まれ。
 確かにはいと答えたソニアのまなじりから、涙のしずくがはらりと落ちた。