寒い朝だった。
 寝起きの悪いミセラは、肌を刺すような冷え込みに苛立ちを感じながら体を起こす。太陽の高さを見るにまた朝食の時間には間に合わなかったらしい。はあ、とため息をつくと、勢いをつけて毛布をまくり上げ、ベッドから抜け出る。しわの残ったそれの手入れもそこそこに、木靴を履いて部屋を出た。
 廊下を歩けば修道女から笑い混じりの挨拶を受ける。ええ、うん、とおざなりに答えながら歩む足取りは重い。なんだか鼻がむずむずする、と思った瞬間にくしゃみが出た。染みついた習慣で口元にやった手も、指先まで冷えきっている。身を震わせながら進む先に目当ての青年の姿を見つけて、ミセラは足を速める。
 手慣れた様子でほうきを動かしていたアルバは、彼女の姿を見止めて顔を上げた。
「よう寝ぼすけ。この寒さで、よくもまあそんなに眠っていられるもんだな?」
「寒かったから外に出られなかったのよ」
 憎まれ口を叩きながら彼のほうきを取り上げる。アルバはやれやれと肩をすくめた。
 彼がしていた掃除は、元はといえばミセラの分担なのだった。いつまでも起きてこない彼女に呆れ、しかし起こすにも相応の勇気が必要だったため、渋々代わりに手を出したといったところだろう。
 もちろん彼にも割り当てられた別の仕事がある。その上、午後からは船乗りの仕事を手伝う手はずになっていたはずだ。船を使って海を渡るにも、さらに馬を借りて旅をするにも、路銀を貯めなければ動きようがないからだ。好きなだけ修道院にいていいからとクラウディアは笑うが、いつまでもここに住み着いているのは、アーシャラフトを飛び出してきた手前申し訳が立たない。
「……お金、どう?」
 掃除のついでを装って問えば、アルバは少し考えるそぶりを見せたあと、「まだまだだな」と答えた。
「この調子でいって、発てるのは次の夏あたりか」
「そう、……それじゃあやっぱり、冬の間には無理そうね」
 そっけなくふるまったつもりが、手元のほうきは完全に動きを止めてしまっていた。
 冬のうちに海を渡りたいと願うのには理由がある。アーシャラフトやクェリアでは見ることの叶わない雪を、年がめぐる前に見ておきたかったのだ。叶わなければ諦める、その程度の夢ではあったが、いざ諦める段になると口惜しいものだった。
「雪なら来年でも見られるだろ。もうお前にはいくらでも時間があるわけだし」
「……そのとき、あなたはいるかしら」
 ぼそりと呟いた声は、届いてほしいものではなかった。なにか言ったかと問うアルバに首を振る。
 いつまでもが許される間柄ではない。海を渡って彼の故郷へ辿りつくとしても、その後の身の振り方をミセラは決めかねていた。同じ場所に留まるか、それとも。顔に疑問符を浮かべている彼もまた、渡り鳥のように、気が付けば傍らからいなくなっている相手かもしれないのだ。
 訳がわからないと唇を尖らせているアルバの姿を見ていると、悩んでいることそのものが馬鹿らしく思えてくる。土埃をあらかた掃き集め、ふうと肩を下ろした。
「……なあ、ミセラ」
 埃を外に吐き出しながら「なによ」と答える。迷うような間があった。
「どうしても雪が見たいなら、今からでも親父さんに頼めばいいんじゃないか」
「はあ? 何言ってるの、あなた」
「何ってお前、これでも俺はな……」
 馬鹿にしきった口調が気に食わなかったらしい。アルバは憤慨する様子を見せたが、その勢いは急激にしぼんでいく。ミセラがファルツの令嬢としての権限を譲り渡したことを思い出したのだろう。
 ならばあえて口にする必要もあるまい。ミセラは腰に手をあてがい、首をかしげて見せた。
「今さらお父様のところに戻ってどうするっていうの。あなたが連れ出してくれるっていうから、私はアーシャラフトを出たのよ。私に自由を教えてくれるんじゃないの――ねえ、旅鳥さん?」
 息を詰めたアルバが、無言でそっぽを向いた。ややあって「お前、本当、そういうことを素面で」ともごもご呟くのが聞こえたので、「わざとやってるのよ」と言い返す。それ程度のことができないで、ファルツ家の令嬢など務まらないのだから。
 そのまましばらくの沈黙があった。いつまで経っても彼が立ち直らないので、ミセラは眉根を寄せる。ちょっと、なにか言いなさいよ、といちゃもんをつけようとして、窓の外を見た彼の目が驚愕に見開かれているのに気が付いた。
(なに、)
 つられるように窓へと顔を向けて、ミセラは息を止める。
 直後、ほうきを投げ出して駆けだした。追いすがる声を無視して廊下を走り抜けると、勢いよく修道院の扉を開け放つ。
「…………うそ」
 吹き込んだ冬の風に、白い花弁が舞っていた。
 女神の気まぐれか。それともどこかほかの国へと吹く風が忘れ物をしたのか。小指の先ほどもない氷の塊が、視界いっぱいに降りてくる。屋根に、海に、石畳に、舞い降りては積み重なり、町じゅうを白い幕で覆いつくす。
 クェリアの町から音が消えていた。紙袋を抱えた女性、駆けまわっていた子供、目を覚ましたばかりの老人が、空を見上げて言葉を失っている。アーシャラフトに雪は降らないと、その文句ならば誰もが知っていた。覆されることなど、ないと思っていた。
「――奇跡だ」
 誰かが言った。それは町ゆく人であったのか、それともやっとのことで追いついたアルバだったのか、魂を抜かれた心地のミセラには曖昧だった。けれどもあまりにもはっきりと耳に入った声に、彼女はゆるゆると首を振った。
「……奇跡は、それを願う人のところに起こる」
 この雪を、誰が願ったのだろう。この雪は、誰を救ったのだろう。
「だからこそ、人はそれを――神と呼ぶのよ」
 教会は謳う。
 アーシャラフトに降る雪は女神の再臨を示す神話。天地を縫いとめたノーディスと、アーシャを愛した花嫁の。薄灰色に染まった空、女神の眠る白の国は、舞い降りる雪の粒に結ばれる。
 奇跡が起こるなら、彼女のもとであればいい。そう思った。



     *



「――で、伝令っ、メリアンツ東岸より軍勢が接近! 勢力は二万……船に青円の旗を掲げています!!」