幾年を経て、積み重ねてきたのは自問自答だけだった。
 女神は選んだのだ。選ばれるべくして生まれた彼ではなく、暗闇に閉ざされたあの少年を。剣を握ることすらままならない、盲目のこどもを。いくら何故と問えども、その理由だけはどこで生きても得られなかった。
 そして選択は排斥を生む。アーシャでないおまえなど、と命を絶った母親も、妻や子に愛情をかけることもなく死んでいった父親も、失われた座に他人を据えたアーシャラフトも、排外的なメリアンツの空気も、気付けば何もかもが彼を否定した。
 生きるには理由がいるのだ。ならば理由を持たない自分は、もう道端の石のように、朽ちて消える命でしかないのだ。そう知って望みを捨てた。理解して笑えば呼吸は楽だった。しかし他人の生にしがみつく少女の姿は、その呼吸を乱していった。
 生きてと願う声が聞こえる。
 ――放りだした命に、名前をつけて、笑え。
 遠い昔に置き去りにされたこどもが、今になって泣き叫ぶ。
(ほんとうに身勝手だ)
 その理由、居場所すら、与えてもくれないくせに。
 手を伸ばせばそこに剣があった。息を飲んだ子供に振るおうとしても刃はなまくらだ。誰を相手に斬りつけるにも、持ち主に意志が無いならそこに鋭利さなど宿るわけがない。握りこんだ柄は、もう彼の手には違和感しか残さなかった。
 力もない。技もない。剣を振りきる度胸もないなら。
(こんな剣、投げ捨てるしかないじゃないか)
 風を切って閃いた刃が彼らの鼻先をかすめる。あたかも天地を切り裂いた少女の命のように気高く、遥かに。頭上に広がった空は、悔しいほどに澄んでいた。
 女神の愛した冬空。その断片を瞳に抱きながら、生き延びた理由を探せ。
 懐かしい声で、どこかのこどもが泣いている――。



     *



 剣を握る右腕を振り上げたまま、皇帝は動きを止めた。
 虚空を切り裂いた小型の剣が、からんと音を立てて見当外れの大地に落ちる。しかしその軌跡は、確かに彼の目の前で弧を描いていた。目的は静止だろう。投擲を用途とする刃物ではないのだから、触れたからといって怪我に繋がることはない、が。
「……どういうつもりだ?」
 地を這うような声で皇帝が問う。底冷えした瞳が青年をとらえた。
 アーシャと同じ冬空色の瞳。陽光を宿した金糸。彼を乗せた痩せ馬が揺らぎ、鳴いた。剣を放った手のままで動きを止めたカミルは、はあ、と荒く息をつく。
「恐れながら、ご報告申し上げます」
 皇帝が眉を揺らす。しかしそれは彼の発言を認めるものではなかった。
「メリアンツ北部、西部より、援軍の影を確認。メリアンツ内部にも反旗を翻す輩がおります」
「カミル」
「北部に二千、西部に三千。反乱軍を併せ鑑みれば、陛下とはいえ苦戦は必至かと」
「……カミルよ」
「どうかご再考下さい。我らの勝利が見えているとはいえ――」
「黙れ!!」
 稲妻のような怒号。皇帝の身からほとばしったものは、形を取るかと見紛うほどの怒気だった。
 唇を引き結んだカミルは、顔を伏せることなく相対する。ゆらゆらと馬の向きを変えた皇帝は、その右手に剣の柄を硬く握りこんでいた。
「……私は、いつお前に、主人に向かって刃を投げることを教えた?」
 投げ捨てられた剣が持ち主のもとに戻ることはない。丸腰のカミルは、自らに向けられてゆく刃の切っ先を見据えていた。握るもののない彼の指先は小刻みに震えている。彼はそれを押し殺すように、拳をきつく握りしめた。
 激突するかに思われた軍勢は、ふたたび沈黙を受け入れていた。メリアンツは動揺を、アーシャラフトは困惑をもって、誰もが中心に立つ者たちの一挙一動を見守っている。
「答えろ、カミル」
 剣が角度を変える。距離を置けども水平に構えられた刃は、持ち主の意図次第でたやすく喉笛を切り裂くだろう。カミルの乗る馬が、均整のとれた皇帝の馬の疾走に敵うはずもない。笑みを浮かべようとしたカミルの口元は、ただ引きつるだけだった。ぱくぱくと口を開閉させた後、彼は目を細める。
「どうか退却を、陛下。ここには、命を投げ打ちたい人間など一人としておりません」
「もういい、つまらん。黙れ」
 メリアンツは剣の国。剣を振るう者が讃えられ、馬を駆る者が崇められる武の国だ。剣も鎧も持たない青年の声が主君に届くことはない。皇帝は鼻を鳴らし、刃を下ろした。一歩、また一歩と、馬は距離を詰める。逃げることを諦めたカミルは、迫りくる剣に瞳を閉じた。
「……だめ、よ」
 ソニアはひとりでに呟いていた。被害の及ばない位置まで退いた馬からではその声も届かない。ならばと身を乗り出した。ためらいが無ければ体が動くのは早い。
「花嫁様、なにを……っ!」
 がむしゃらに飛び降りようとする彼女に気付いたエリーゼは、よろめいた馬を操り、その逃げ道を塞ぐ。転んででも、落馬してでも、と体をひねるソニアだが、揺れる馬上では思うように動けない。ぐらりと体が傾いでも、次の瞬間にはエリーゼが馬の身を翻して体重を支えてしまう。
「――カミル!」
 続く言葉が何であったのか、発したソニアにもわからなかった。
 けれどカミルはぴくりと肩を揺らし、ソニアに顔を向ける。そこでようやく彼女の存在に気付いたとでもいうかのように目を丸くし、それからラクスを一瞥して、皮肉げに笑った。言葉を失った少年が、彼の名前を口の中で呟く。
 止める者はいないまま、皇帝の剣は振り上げられる。
 一秒、二秒。あるいはそれ以上――刃は、いつまでも首を切り裂かない。空中に掲げられたまま、時間が止まったかのように静止していた。恐る恐る顔を上げたカミルがその理由に気付き、ぽかんと口を開ける。
「……なんだ、これは?」
 思い出したように呟いたのは、皇帝だった。