「やれやれ、肝を冷やしましたな」
 マティアスの自室に入るなり、そんな言葉をかけられた。
 所在なさげに漂った視線はやっとのことで老爺のもとに辿りつく。その薄い唇が、申しわけない、と小さくこぼした。
「手紙を頂いて以来私も手を尽くしたのですが、やはり使節を送るほどの時間の余裕は無く。このような形になってしまいました」
 深く頭を下げようとする男を、マティアスは首を振ってとどめる。
「貴方のご尽力は承知の上です。そうでなければ、やすやすと二万の軍勢を送れはしないでしょう」
「……あれは、その。手紙には一万で十分だと伺ったのですが、あちらの皇帝陛下は、恩は倍返しが基本であると仰って。また、気前の悪い国であると思われても癪である、とのことで」
「それはまた、随分と器の大きなお方だ。私も一度お会いしてみたいものです」
 冗談混じりの言葉に、いつかお伝えしておきますと男は苦笑する。
 会話の切れ目を縫って部屋のなかを見つめていた目が、ふたたびマティアスのもとへ戻った。その顔に刻まれたしわを思うところのある様子で眺め、目蓋を閉じる。
 気付けば十五年。海を越え、彼方で過ごし、縋るようにして辿りついた国だった。アーシャを諦めたときから、どんな努力も実を結ぶことは無いのかもしれないと屈折する癖は抜けていなかった。彼を支えていたのは他でもない、光を託された息子と、故郷を守る妻の姿だ。
 ゆるりとまばたきをして、長い年月を思いながら息をつく。
「マティアス殿。私は一度、故郷に戻ろうと思います。あまりに長く留守にしていたものですから」
「そうなさるとよろしい。奥方はいつまでも待っておられるでしょう」
 大きくうなずいたマティアスが満面の笑みを浮かべる。そうすると好々爺にしか見えないのだから不思議なものだ、と男は思う。
 他愛のない会話をいくつか交わしたあと、それではと背を向ける。その去り際にマティアスは語りかけた。
「……遠方はどうでしたかな、ライナルト。我が友よ」
 目をしばたかせた男は、少しだけ考えこんで。
「妻も子もどこにもいない。寂しくて、たまりませんでしたよ」
 言って、笑った。



     *



 大陸東岸に船をつけた新たな勢力は、メリアンツの支配下にある港町を瞬く間に占拠した。長いひげを蓄えた容貌が住民の畏怖の対象になったのか、無抵抗のままで港町は制圧されたという。
 朱塗りの大型船には数頭の早馬が乗せられており、アーシャラフトへの接触はそれに乗った伝令によって行われた。彼による拙い大陸語は、その勢力がアーシャラフトへの援軍であること、そして以降の外交を約束する使節でもあること、その上で軍の総指揮権をアーシャに託すことを伝え、伝令は最後にたどたどしく女神への祈りを捧げて見せた。
 初めは目を丸くしていたラクスだが、やがて納得したようにうなずき、丁寧に感謝を述べる。元来た道を駆けていった馬の足音を見送って、ふたたび皇帝に向き直った。
 舞う雪が視界を眩ませる。行く手を遮るもののない雪は、気ままに風に揺られたあとに平原を染めあげてゆく。神聖なほどの静けさに包まれた戦場の中央で皇帝は頭上を仰いでいた。右手はいつしか下ろされ、手綱を引く左手に力はこもっていない。
 虚ろな目が閉じられる。皇帝の肩は微かに震えていた。それは寒さからくるものでなければ、怯え、怒りを宿したものでもなかった。
「……っくく」
 喉の奥から笑声が漏れる。それはやがて、ソニアの耳にもはっきりと届くほどになった。ひとしきり笑い終えた彼はぐるりと馬の向きを変える。その目が自らに注がれたことに、ソニアは遅れてぎょっとした。
「これは、貴女の差し金か?」
 言葉の意味が取れずに沈黙する。それをどう受け取ったのか、皇帝は首を振った。
「なるほど、これがアーシャラフトの花嫁か。アーシャラフトのみならず他国の徒をも動かし、敵国の皇帝の側近をして主君に刃を向けしめ、しまいには天にまで奇跡を起こしてみせる! ……ふん、よく分かった。親父が手間取るわけだ」
 喉をつく笑いは衝動であるようだった。心底楽しそうに、皇帝は口角をつり上げる。彼にもう戦闘の意思は見えなかった。そのことに肩の力を抜いたのはソニアのみではないだろう。鹿爪らしい表情のままでひとつ息をついたラクスへ、皇帝は顔を向ける。
「今回は軍を引く。貴方の大事な大事な花嫁殿も連れていくがいい。近日中にそちらへ使いを送らせていただこう、これでは協定も仕切り直しだ」
「寛大な判断に感謝する」
「よく口のまわることだ。まったく、つまらないことこの上ない」
 頭を乱暴に掻いて、最後に皇帝が見据えたのはカミルだった。こわばった表情で主君を見上げる彼に冷ややかな目を送る。
「さて、お前の処遇だ。お前は皇帝に剣を向けた。それが何を意味するか分からぬほど子供ではないな?」
「……どうか、如何様にも処断を」
「処断! はっ、まだ直々に断罪を受けられるとでも考えているのか! 思いあがるなよ小僧、貴様の首を落とす剣が汚れるだけだ」
 呆然とするカミルに、皇帝は虫を追い払うように手を振るう。
「貴様の顔などもう見たくもないわ。国外追放だ。二度とメリアンツの地を踏むことは許さん」
「……っ、陛下!」
「呼ぶな、虫唾が走る」
 吐き捨てて、皇帝は剣を鞘に納める。メリアンツの軍勢のなかへ消えようとした背をラクスが呼びとめた。
「ならばその男、アーシャラフトに引き入れても?」
 いくつもの目が一斉にラクスへ向かう。
 その視線に気づいているのかいないのか、彼は薄く笑んだまま首をかしげていた。皇帝は馬を止め、わずかに首をひねる。
「我が帝国には必要ない。貴方の好きになさればいい。もっとも、いつ裏切らんとも知れぬ男だがな」
 言い残し、今度こそ皇帝は人の群れのなかに飲みこまれていく。
 やがてほうぼうから退却の指令が響き、平原を鈍色に染めていたメリアンツの軍勢は、端から切り離されるようにしてアーシャラフトに背を向けていった。もし衝突していたら、と今になってソニアはぞっとする。それは戦争ではなく、虐殺であっただろう。
 地平を埋めつくす人の群れが粒のように遠くなったころ、ラクスは近寄ってきたカミルに顔を向けた。
「これで貸し借りはなしだ。礼を言われるいわれはないし、僕が言うつもりもない。監視も兼ねて思う存分こき使ってやるから覚悟するんだな」
「……はっ、あいも変わらず、くそ生意気なガキだよ」
「おまえと同じ血が流れているからな」
 ひととき言葉に詰まったカミルが、言ってくれるとばかりに眉を寄せて笑った。
 もう苦しくはないのだろう。彼はどこか、憑きものが取れたような顔をしていた。ラクスに向ける目に憎悪がこもることはない。わだかまりは残るかもしれないが、それもいつかは薄れていくものだろう。
 カミルは笑いの余韻の残る顔でソニアを見ると、「そうだ」と思い出したように声を上げた。その目は悪戯を思いついた子供のようににやにやと細められている。そこはかとなく嫌な予感を受け取って、なに、と問う声は自然と硬くなった。
「俺、まだ諦めるつもりはないよ。あんたのこと」
「……な」
 言い返すのが遅れる。彼の告白を思い出した瞬間、頭が沸騰した。
(だ、だって、あのとき!)
 あれは諦めるという意味ではないのか。それとも諦めたのは亡命のことだけで、彼の心のほうは。ぐるんぐるんとめぐる思考は答えをはじき出すのに手間取り、結果ソニアは口をぱくぱくとさせることしかできない。はっとして視線をそらすと、その先に顔面を硬直させた少年がいた。
(よりにもよって……!)
 そこまでが彼の思惑の上であったのだろう。時間を置いて、ラクスは軋んだ音を立てそうなほどに固くこわばった唇を動かす。
「……おい、カミル?」
「っと、怖い怖い、アーシャがお怒りだ。俺は先に行かせてもらうとするか」
「ちょ、ちょっと!」
 ラクスの怒りを煽るだけ煽って、一人逃げ出すつもりだ。ソニアが呼び止める前に、彼は馬を駆って遠くへ行ってしまった。ははは、と軽やかな笑声が響いていくのを、アーシャラフトの騎士たちが不思議そうに見送っている。
 もう、と頬を膨らませたソニアの背後で、エリーゼが低い声で言った。
「アーシャ。あの青年には少しばかり、きつい仕事が必要ではないかと」
「分かってる」
 続いて、深いため息。本来ならば教会の人事の総括はマティアスに委ねられているはずだが、ラクスがそれに口を挟む未来はありありと想像できた。彼の向かいで、まぶしいものを見るようにほほ笑んでいるマティアスの姿も共に。ああでもないこうでもないと、本人のいない場所で。
 その想像のなかに、もうひとり。自分の姿を付け足した。
 笑っているといい。困ったように笑って、けれど幸せであればいい。傍らの温もりを信じて、満ち満ちる安寧にまどろんで。与えられた居場所を、自ら選びとった場所へ。降り注いだひとつひとつを抱きしめて、自分の愛した唯一に変えてゆけばいい。
 見上げれば、雪が降る。視界を覆う白の奥に、彼の瞳と同じ色を見た。
「ソニア」
 行こう、と言う。この世にただひとりの花嫁に。
「はい、ラクス」
 帰るところはただひとつ。女神の愛する白い国。守護者が住まう、その地の名はアーシャラフト。

 手を差し伸べてくれる人がいる。
 冬空の下で、少女がわらっていた。