「二度同じ話をするつもりはない」
「それはこちらも同じだわ。……だから、議員。まずはあなたに伝えたいことがあります」
 手痛い記憶は緊張をすべて拭い去ってしまったようだった。深く呼吸をして、イチカはハルイチを見上げる。
「あなたも知っての通り、私は何度か都市の中枢機関――アクエスとの意思疎通を成し遂げています。ほとんどが彼女からの訴えかけによるものだけれど、その中でひとつだけわかったことがある。それはアクエスが意志を持ち、私を欲しているということ。彼女の声を聞くことができた私を」
 ハルイチは無言を保っていた。そうして相手の論の穴を探っているのだということを、イチカはよくよく心得ている。彼の眼鏡にかなうような弁を組み上げるには、自分が未熟であることもまた。
 しかしそれを我儘や懇願と一蹴されるわけにはいかない。納得に足る利益を持ち込めないのであれば、せめて不利益の存在を突き付けないことには帰れなかった。
「アクエスは海の底にいる。正確には上層と下層の間――海の中に。そうでしょう? 上層は彼女を人から引き剥がし、あくまでも都市機能の根源として扱ってきた」
「その通りだ。なにか不満が?」
「不満を抱えているとすればアクエスのほうです。彼女は下層を海に沈めきったあと、この上層の水面も上昇させようとしています。私を自分のもとにおびき寄せるために」
 ハルイチの瞳がわずかに曇る。
 アクエスの声を聞き得たのは、イチカや彼女に同伴したエイト、カナメを通して耳をそばだてていた警察官の一部だけだった。条件として差し出すには可能性の薄い話ではあるが、その情報の確かさすら、ハルイチらには見極めるすべがない。正念場だ、とイチカは腹に力をこめた。
「繰り返します、議員。彼女は私を求めている。そして私は彼女と会話をすることができる。……トランスポーターを開放してください。それを聞き届けてもらるのなら、アクエスには私が話をつける」
「上層市民全員を人質に取るつもりか。産まれ育ったこの場所を」
「私が産まれたのはアクエスです。同じ場所に住む人たちを一人だって見捨てるつもりはない。都市を殺すとしたら、それはあなたでしょう。私の意識と体にそうしたように、下層と下層の人々を切り捨てていくつもりでいる」
 詭弁であることはわきまえている。ハルイチの眉間にしわが寄り、曇るところのない照明がうずいたかのように思われた。そうして下りた沈黙は、ふたりの唇を一層頑なにする。
 壁に投影された時計が、ひとつ数字を切り替える。動きを見せたのは父娘のどちらでもなかった。唐突に控え室の扉が唐突に開かれ、闖入した第三者は数歩でイチカとの距離を詰める。
 かつ、と、眉間に小さな衝撃。
 押し当てられた鉄の筒に、イチカの呼吸が止まった。
「建前が必要ですか、八神議員」
 首に腕が回される。イチカの背後に回り込んだ男――エイトは、努めて平静な声でそう告げた。
「……なんのつもりだ」
「ご覧のとおりです。俺はあなたと取引がしたい」
 唾を飲み込んで、エイトの喉仏が小さく上下する。薄く吐き出された息には、微かな震えが混じっていた。揺らぎかける銃口を押さえつけて、エイトはひとつまばたきをする。
「俺は下層市民です。そして彼女を下層に連れ去ったテロリストだ。八神議員ならこの意味がお判りでしょう」
 アクエスの鍵が大切ではありませんか、と問う。その最中、彼の歯と歯がぶつかって音を立てた。
(けしかけたのは兄さんね……惨いことさせるじゃない)
 悪人を演じられるほど彼は器用にできていない。イチカを誘拐した際にさえ、エイトだけは銃器の類を握っていなかったのだ。一般人と自称した青年を人前に引きずり出したのも、慣れない脅し文句を口にさせているのも、彼の意思であったとて彼の策ではない。
 そうして彼は追い立てられ、先の見えない袋小路に迷い込むことになるのだ――お前が望んだのだろうと、うそぶく声に背を向けたまま。
「代わりの利かない“八神一花”を、あなたの一存で殺めるおつもりですか」
「馬鹿げたことを言う。それの損失はお前たちにとっても痛手だろう。軽率に撃てるわけが、」
 たあん、と音が弾ける。イチカはそれを耳元に聞いた。
 続き転がった薬莢が、忘れ物のように足元に落ちる。銃弾は床を焼き焦がしたところで動きを止めていた。ふたたびイチカに銃口を突き付けて、エイトは低い声で言う。
「俺は大局を見据えられるような人間じゃない。遠い未来の数百人よりも、たった今奪われようとしている、俺のよく知る数人が救えればそれでいい。……でもあなたにとってはそうじゃない。だから、選んでください、議員」
 未来か、今か。
 イチカを切り捨てて手に入れる繁栄か、繁栄を諦めて保たれる現状かを。
 息をつめてしばらく。張り詰めた空気が動きを見せたのは、ディスプレイの映像が途切れたときだった。光と音を発することをぷっつりと諦めた画面に、イチカは瞠目する。
「っ、あいつ、逃げ――」
「……いや、逃げたわけではないでしょうけど」
「逃げたに決まっているでしょう!? 悔しい、初めから交渉する気なんかさらさらなかったんだわ、時間を無駄にした! なによ、あれだけ偉そうな口を聞いておいて!」
 きいっ、と地団太を踏んだイチカから、エイトはゆっくりと距離を取る。降伏するかのように両手を掲げたところで、自分の握っていたものに目を向けて表情を曇らせた。あの、とイチカに声をかける。
「すみませんでした、突然。こんなもの」
「いいわよ、どうせ兄さんの入れ知恵なんでしょう。それなら謝らないで。下手に追いつめられる必要もないわ。話し合いは決裂しているのに、リスクだけをあなたが負うなんて馬鹿げているもの」
「従うことを選んだのは俺です」
「同じ話だわ。結局私ひとりじゃ力不足だと思われていたってことでしょう」
 彼の両手をそれぞれに握る。こわばったてのひらには過度の緊張が見て取れた。エイトがばつの悪そうな顔で目を背けるので、イチカはこらえきれずに笑みをこぼす。
「助かったとは思っているのよ。あともうひと押しが足りなかったのは事実だもの」
「……もう二度とごめんです、こんな真似。心臓に悪い」
「うん、私も同じ気持ち。……兄さん! 話は聞こえた?」
 イチカが自ら扉を開けば、レイシは渋面で息をつくところだった。未だ静まったままの廊下は、控え室で起こったことにも知らぬ存ぜぬを通しているかのようだ。レイシの厳しい目はイチカとエイトをそれぞれ一瞥し、呆れたようによそへ逸らされる。
「議会への協力が仰げないとなればどうしようもないな」
「それでもどうにかしなきゃならないでしょう」
 鬱陶しげにイチカを見やり、レイシは「カナメ」と一声発する。イチカの目の前を米粒のような羽虫が飛んでいった。
(また尾けられていたってわけね……)
 カナメからの連絡を受けているのだろう、レイシは何度かうなずいたのち、「仕方ないな」と呟いた。
「今すぐに回せる人員は。装備はどれだけ整えられる」
「……兄さん、物騒な単語が聞こえたけど」
「――わかった、それで十分だ。すぐに動かせ」
 横やりを黙殺し、レイシはカナメを通じて署への指示を終える。最後に「話はついた」と告げてイチカを見下ろした。
「俺の独断で動かせる範囲の警察官を、警備の手薄なトランスポーターに集める。強行突破だ」
「強行突破って、相手は同じ警察官なんでしょう」
「時間があれば説得もするが、今は緊急事態だ。責任の所在を問答している場合じゃない。俺たちで管制室への道を開く、あとはお前がアクエスと連絡を取れ」
「そんな、簡単に……」
 アクエスから一方的に通信を断ち切られたのはまだ記憶に新しい。彼女がへそを曲げたままであれば、イチカからの呼びかけに答えを返すとは限らないのだ。
 しかしレイシはイチカの憂慮を鼻で笑う。
「どうしようもないと言っただろう。もとからお前に期待はしていない、ほかの可能性が断たれたからそうするだけだ」
 優先順位の高い手段から、一つずつ試しているにすぎないのだった。先立ってもと来た道を戻っていくレイシを、イチカはすぐに追うことができなかった。知らず知らずのうちに寄っていた眉を、指で懸命に解きほぐす。
「どうしてあんなに腹の立つ言い方ができるのかしら」
「妹をひとりで危険の中に放るような真似はしたくなかったから、とか」
 どうでしょうか、と苦笑するエイトに、イチカは力なく首を振る。
「天地がひっくり返ってもそれだけはないわね」
「あながち冗談とも言いきれない比喩ですね……」
「馬鹿ね。ひっくり返ったりなんかしないわよ。でも今のままにもしておけない、だから変えるんでしょう」
 ――私たちで。
 言いきって廊下を抜ける。“大樹”のロビーを後にしたとき、空はすっかり紺色に染まりきっていた。
 あちこちで点灯する夜間照明が、街並みを色とりどりに飾り付けていく。我が道を急ぐ会社員、遅い帰路につく学生たちの誰も、自らが今まさに人質にされていたなどとは知る由もない。
 それでいい、とイチカは警察車両に乗り込みながら考える。彼らの日常が滞ることなく続いていく未来、そして息苦しさを押し付けられた人々が、少しでも軽い空気を吸うことのできるようになる未来。
 イチカが願うのはそれだけだ。