遠く響いていたはずの悲鳴は、もう聞こえなくなっていた。あらかたの避難はすでに終えられたのだろう、と考えているうちに、イチカの意識はゆるやかにもとの明瞭さを取り戻していく。そっと目蓋を持ち上げれば、険しい表情でよそを睨むエイトの横顔が見えた。
砕け散った硝子を後に残し、施術室の照明は端から落ちてしまっている。廊の間接照明から差しかけられるおぼろげな明度が、倒れた施術台の輪郭をかろうじて浮かび上がらせているばかりだ。扉に並ぶ銃痕は夢の終わりにも似た気配を部屋に漂わせている。
大樹で取り押さえられてから、長く時間が過ぎたのだろう。時計は夕方を示したところで止まっていた。
「……イチカ?」
エイトが視線を落とす。不安げに問われる理由に思い至らず、イチカはしばらくその顔を見上げていた。一呼吸ほどの間の後、パズルのように記憶がつなぎ合わせられる感覚があって、イチカはああと小さな声を上げた。そうして父親の声、技師の声を、導かれるようにして思い出す――イチカの存在は、名前だけを残して削除されようとしていたのだ。
イチカは目を四肢のほうへ向ける。施術着を着せられている体はまぎれもなく自分の体、すなわち十七歳の換装日に与えられたばかりのREBのものだった。肩先にまとわりついた黒髪が、イチカの身じろぎに揺り落とされる。
「うん」初めは探るように、「ここにいる」そうして確かに、口にする。エイトがほうと息をついた。
施術室の壁際には技師の姿がある。強張った面持ちは、イチカの覚醒を悟ってかわずかに緩められた。イチカは緩慢に体を起こすと、彼へと向き直る。自力での状況把握には時間がかかりそうだと踏んで「なにがあったの」とエイトに問いかけた。
「イチカの家を出てからこちら、見張りが付けられていたようでした。八神議員のもとへ乗り込んでいったのも警視には筒抜けだったようで。すぐに助けに、と」
「それで乗り込んできたってわけね……兄さんは?」
「玄関前で指揮を執っています」
そう、と相槌を打ち、イチカは技師を見上げる。
「危害を加えるつもりはないから、一つだけ教えてください。あなたがすでに“成功”していたのかどうか」
技師が唇の端を引きつらせる。イチカは自身の疑念が確信に変わるのを感じていた。
「どんなに余裕を持ったとしても、“大樹”からここを目指すのに一時間はかからないでしょう。……エイト、今は?」
「午後の六時半を過ぎたところです」
「私が“大樹”で捕まったのが二時。単純計算で三時間の時間がありました。その間、まさか私を手つかずで眠らせていたわけじゃないでしょう。REBのアップデートのときだって、二時間もあれば中身の吸い出しは終わっていた」
REBの換装に半日近くの時間をかけるのは、意識を新たな体になじませるための調整に手間取るためだ。意識の移し替え自体には五時間もあればこと足りてしまう。
まして今回の施術は、イチカの内部情報を移し替えることが目的だった。“中身”であるイチカの意識に時間を割く必要はなかったのだ。
「あなたの優しさだと言うならそれでもいい。でも、さっきの今で信じるとは思わないで」
「終わっていたとして、どうすると?」
「私はまだ私以外であるつもりはありません。そういうことです」
可能であればデータの破壊、難しければ没収。イチカの手に負えるものでなければ兄への相談も考慮に入れていた。腹を探り合うだけの時間が過ぎ、技師は観念して首を振る。
「このまま身ぐるみを剥がされそうな勢いだな、さっさとデータを送信しておけばよかった。降参だ、降参だよ。……ほら」
技師は腰のポケットに指を差し込むと、一匹の機械虫を引き上げる。四枚の羽根や触覚まで金属でできた蝶は、彼の指先を離れひらりと舞った。面食らったイチカの胸元に留まると、そこでブローチに変わったかのように羽を休める。
「その蝶がきみそのものだ、と言ったら怒るかい。だがデータ上ではたしかにきみなんだ。今でこそ電源が切れてしまっているけれど、それを起動して、しかるべき機器にかければ、八神一花という高校生の個人情報が取り出せる」
「……私のコピー」
「そう、あくまでも複製。元のデータはそこの彼がさっき処分してしまったから、そいつが最後の生き残りだ。……非合法も非合法な代物だよ」
イチカは胸元に手をかざし、蝶を握りつぶそうとして、触れるだけにとどめる。数秒それをじっと見つめた末に、エイトを振り返った。
「行きましょう、時間がない」
「あの技師は」
「人を裁くのは私の仕事じゃないもの。あとは兄さんの部下がどうにでもしてくれるわ」
イチカの答えを裏付けるように、急いた足音が廊下に響いた。遅れて駆け込んできた警察官は、室内の様子をぐるりと見渡してからイチカを目に留める。
「八神のお嬢さん?」
「ええ、私です」
「そうか、無事でよかった。八神警視がきみを呼ぶようにと」
先まで耳をついていたはずの銃声は、いつからかどこにも聞こえなくなっていた。警察が施設を統制下に置いたことの証だ。イチカはエイトと視線を交わしてから、警察官と入れ替わりに施設を後にした。
施設脇の駐車場には小型の警察車両がいくつか停められている。そのうちのひとつに寄りかかっていたレイシが、イチカの姿を目にして顔を上げた。
「乗れ。着替えは後部座席にある」
「どこへ行くつもり」
「“大樹”に乗り込む。説明は車でする、早くしろ」
八神礼志という男の頑固さを思い出しながら、イチカは促されるまま後部座席に身を押し込んだ。エイトが助手席に座るのを待って、車は滑るように走り出す。
イチカは暗がりの中で足元を探る。押し込められたカーディガンを拾い上げて渋い顔をした。
「制服って……もうちょっとどうにかならなかったの」
「私服を見繕ってきたところで文句をつけるんだろう。それで十分だ」
「今朝のことをまだ根に持っているの? 仕方ないでしょう、大人の服なんて似合うわけがなかったんだから」
趣味も合わなかったし、とぶつぶつ呟きながら、無造作に施術着を脱ぎ捨てる。ブラウスのボタンを一つ一つ留め合わせ、ハイソックスを持ち上げて「タイツじゃないし」とひとりごちた。スカートのホックを繋いだところで、運転席からはレイシのため息が漏れ聞こえる。
「議員の件だが、直接の対面はかなわないと思え。公務と言って通せる部分と通せない場所がある、モニター越しに話をするのが限度だな」
「それをして痛い目に合ったところなんだけど」
「大方我儘で振り回そうとしたんだろう。要望を叩きつけるだけなら子供でもできる」
「……その言い方、父さんにそっくりだわ」
カーディガンの背から髪を払い出し、胸元に機械の蝶を止まらせて、ようやく席に身を落ち着ける。夜を迎えた上層が、しかし下層のように青に沈むことはない。続々と黒に塗りつぶされていく都市群の中、遠くそびえる“大樹”に点々と灯る照明は、夜のアクエスを象徴する景色でもあった。
息詰まるドライブの末に車を降り、イチカはふたたび“大樹”を見上げる。天を突くかのような塔の最上部は、上層が海に浸かったところで、決して沈むことはないのだろう。
「話は通してある。行くぞ」
イチカの一件を黙認のもとに通したのだろう、ロビーを行き来する人々の姿は、相も変わらず川の流れのように淀みがない。受付嬢が一礼する脇を通り過ぎ、レイシは慣れた足取りで控え室へ向かう。扉の手前で立ち止まり、入れ、と促した。イチカはたちまちに顔をしかめる。
「兄さんが話すんじゃないの。私だけ? エイトは」
「また捕まりたいのか。俺たちはここを抑えている。……いいな、イチカ。“交渉”をしろ。議員を相手取るつもりなら」
「……何度も言わなくてもわかったわよ。あっちに聞く耳があることを祈ってちょうだい」
レイシがとうとう無言で部屋を差す。聞く耳を持たないのは兄も同じだ。
イチカは渋々一歩を進み出て、滑らかに開いた控え室の扉をくぐった。たった数時間前に目にしたばかりの光景を苦々しい思いで眺めることになる。違いを見出すとすれば、設置されたディスプレイの中、すでに先客が待っているということだった。
「お久しぶりね」
皮肉をひとつ。ハルイチが画面越しに眉をひそめた。