遅い、と毒づかれた。
 イチカの言葉に従い、彼女と出発の時間をずらして警察署に向かったのが一時間前のことだ。署の前で右往左往していた警察官はエイトを見つけるなり、彼の腕をきつくつかんでレイシの前まで引き連れていった。目が回るような心地で執務机の横に立つエイトに、レイシは開口一番「遅い」と言い放ったのだ。
 その声色が常ならず急いた様子であったため、エイトも状況の説明を飲み込まずにはいられなかった。見れば執務室にはせわしなく歩き回る警察官たちの姿があり、それぞれに殺気立った空気を醸し出している。
 レイシは指先で机を二度叩き、言った。
「お前たちが家を抜け出したことは先刻承知だ。トランスポーターに逃げ込んだことも、そこで都市との対話を試みていたことも」
 え、と瞠目したエイトを、レイシが慮ることはない。続けざまに唇を開いた。
「野放しにすると思うか。当然監視はつけていた、今はイチカに付き添っていることだろうが」
「監視……」
 思い当たる節を辿るように、エイトはレイシの傍らに目を向ける。日ごろ彼に付き従っている女性の姿はどこにも見当たらなかった。
 イチカが迷惑げに語った内容を思い出す――REB技術によって機械虫に意識を移していた女性警官の存在を。下層にかどわかされたイチカが上層の警察と連絡を取り合っていたのも、彼女の力によるものであったという。
(気付かないわけだ)
 舌を巻く。下層、上層と、彼女は二度にわたりエイトの目をかいくぐってみせたのだ。
「お前が帰ってくるのを待っていた。あれは単身で“大樹”に向かう程度には馬鹿だが、善後策を講じないほど愚かじゃない」
「なんのために? カナメさん、と言いましたか、あの人がいた以上、俺たちの会話はまるきり筒抜けだったんでしょう。イチカを止めたいのなら、“大樹”の前で待ち伏せておけばよかったはずだ」
「あれを止めたところで現状維持にしかならん。放っておけば同じことを繰り返す」
 傾き始めた太陽が、執務室にまぶしいほどの光を差しかけていた。気を利かせた警察官がブラインドを閉めれば、部屋は薄闇に閉ざされる。
 レイシはその様子を横目に見やり、一段声を落とした。
「八神榛一という男は、理由がなければ動かない。損得勘定を潜りこませずには行動を起こさない男だ。その価値基準は、上層議会の方針に依拠している」
「……それがなにか」
「だが八神榛一を動かさないことには、上下層の亀裂は埋まらない。イチカやお前が考えた通りだ。下層はこのまま海に沈み、……都市の世迷言を本気にするのであれば、上層もやがて水没するだろう。どちらの被害も避けたいのであれば、上層議会に話を通すことができない現状、その一角を削り取ることに望みを託すしかない」
「だから八神議員をイチカに懐柔させるつもりだということでしょう。それはわかりますが――」
「懐柔じゃない、取引だ。あの男は情では動かない」
 口を挟めば跳ね除けられる。貯め込んだストレスのためもあるだろう、彼は初めから他人に会話をさせる気などないのだ。そのうえ自身で定めた順序通りでなければ、ことの説明を行うつもりもないらしい。
 エイトが渋々口をつぐむのを確かめて、レイシは続ける。
「八神榛一の腰を上げさせる。そのためには議会の利益で釣るか、不利益で脅しつけるしかない。だが、利になり得るイチカはすでにあちらの手の中だ」
「……なら脅しをかけると? どうやって」
「そのためのお前だ」
 警視、と呼び声がかかる。カナメからの連絡が入ったとの旨を知らせた警官は、エイトを品定めの目で見ていった。小指の爪ほどの大きさの通信機を耳に装着したレイシが渋面を浮かべる。
「イチカの意識が落とされた。動いたな」
 冷たい汗がエイトの背を滑り落ちていく。思わず執務机に手を置いた彼に、レイシは一瞥を投げた。
「上層議会がイチカを殺すことはない。だが奴らの手元に残されるものが、イチカである必要はない」
 言葉を失ったエイトに、REBだ、とレイシは語りかける。
「イチカの意識は消される。その存在情報だけを残して」
「そんなもの、死んでいるのと何が違うっていうんですか!」
「……だと思うなら、奪い取れ」
 エイトの腹にレイシのこぶしが押し付けられる。殴られるか、と歯を食いしばったが、よくよく見れば彼の手の中には鉄の塊が握られているのだ。男の手にに収まる大きさの拳銃――それを目に留めて、エイトは腹を殴られるよりも強い衝撃を受ける。レイシは彼を冷ややかな眼差しで見下ろした。
「光峯瑛斗。お前を英雄にしてやる」
 諧謔を弄するような男ではないはずだ。エイトは唇を結んだまま、レイシの瞳に真意を探す。しかし彼の目の奥にあるのは、凪いだ水面のような静寂ばかりだった。
「代わりに罪を引き被れ。覚悟の有無を問うつもりはない、お前が引き受けなければイチカは消えるというだけだ」
 レイシの指先が開かれる。落下しかけた拳銃を、エイトはすんでのところで受け止めた。おもちゃのように軽いそれを両手に捧げ持ってしばらく、呼吸はようやく重く落ち着いていく。
 下層を裏切った男に向かって、今度は上層を敵に回せと言うのだ。自嘲に歪んだ唇を、エイトはきつく噛み締めた。
(何を今更)
 拳銃を握り直す。力の形を取った鉄塊に意味を与える。ブラインドを乗り越えた陽光が、エイトの影を地に黒々と刻みつけていた。
「……お引き受けします、警視」
 逃げることを諦めた今、リスクを恐れることはないのだ。
 後悔も後ろめたさもみな振り切って、彼女を選ぶと決めたのだから。

     *

 イチカが専属の技師に対して知るところは少ない。妻帯者ではあるが子持ちではないということ、施術の前後に決まってブラックコーヒーを流し込んでいること、同僚との折り合いが悪いこと、同じ黒いシャツを何着も持っていること、具合のよくない話に関してはとぼけたふりをしてみせること。暇に乗じて発見した癖を数え上げれば限りはないが、それだけで彼そのものを語れるはずもない。事実、彼という技師が上層の息のかかった人間であることも、今の今まで知る機会はなかったのだ。
 ――ゆっくりおやすみ、と彼は言う。
 触覚に及ぶ刺激は曖昧なものにとどまり、体は雲の上に寝転がっているかのような感覚に包まれている。訥々と落ちてくる言葉は雨で、それを受けるイチカの意識の存在を、かろうじて証明するものだった。
 散漫になりかけた思考を繋ぎとめて、いつから、とイチカは考える。
(父さんはいつから、こうするつもりでいたのかしら)
 下層との協約締結が決まったときから、あるいは、イチカがアクエスとの接触を果たしたその日――イチカがただの一市民ではなくなったそのときからだろうか。だとしたらあまりにも皮肉だ。二人の繋がりに、イチカが八神一花である必要も、八神榛一が父親である必要もなかった。
 その血こそ、イチカが縋り付いてきたものだというのに。
(……血、だなんて。REBには父さんの血も母さんの血も、流れてなんかいないのに)
 自嘲が笑みを形づくった、ような気がした。イチカの体はもうイチカの言うことを聞いてくれないのだから、それもきっと気のせいだ。
「イチカ、眠って。考えるのをやめるんだ」
 技師が囁く。声は催眠術のようにイチカの体に染み込んで、神経を端から痺れさせていく。REB換装の際にするような薬物投与が行われていたとしてもおかしくはないのだ。技師の声がイチカの頭を巡っているうちに、足先が、てのひらが、次第に鉄の塊に変化していくように感じられる。
 人から物になるのを追体験するようで、イチカは声をあげたくなる。いっそ思考を拭い去ってしまえば楽になれるというのに、それだけは選べない。かたちをなくしても、別のものに変わり果てるとしても、まぼろしじみた“意味”を探すことだけはやめられなかった。
「イチカ、」
 ――イチカ嬢。
 浴びせかけられた声が、二重に響く。稲妻の音が光に遅れてやってくるように、その色を変えて。
 ――ですから勝手を働くなと言ったのです。尻ぬぐいをするのが誰か考えたこともないくせに、いつだってあなたは一人で先走る。その向こう見ずを、よもやREBのせいなどにはなさらないでしょうね。
 小言らしい言いようには覚えがある。カナメ、と彼女の名前を思い浮かべたところで、ため息をつくだけの間が置かれた。
 ――考えれば考えるほど、答えは遠ざかってゆくのです、イチカ嬢。あるかないかも、こちらからは確かめられないような場所へと。……自分がなにものであるか、考えずにいられないのはREBの体を得たからではない。足元の見えない暗闇で歩き続けていたのはきっと誰も同じことでした。平気なつもりでいられたのは、目を閉じていたおかげでその暗闇にさえ気付くことがなかったからでしょう。
 まさにイチカが果てのない夜の中で眠りについているように。カナメの声はその暗がりを無理やりに引き裂いて、イチカの世界へと破瓜にも似た痛みを連れてくる。
 ――イチカ嬢。だからこそ私たちは、
 ふいに雑音が走った。カナメの声はあっけなくかき消され、イチカを覆った闇もまた淡く溶けていく。無から有へ、黒から白へ、世界はゆるやかに姿を変えていこうとしていた。
「イチカ」
 硝子の割れる音がした。高い銃声が鼓膜を震わせる。電子音は氾濫を起こし、イチカを丸ごと飲み込んだ。意識さえ眩ませるような光の中、背を支え、てのひらを握るなにものかがあることに気付かされる。
「イチカ、……イチカ!」
 呼び声がイチカに輪郭を与える。点と線でつくられた器に、イチカという名前を注ぎ込んでゆく。五感が少しずつ刺激を取り入れ始める傍らで、イチカの記憶に蘇ったのはアクエスの言葉だった。
 ――あなたがそう呼ぶのなら、私はきっとアクエスなのね。
(そうね。……そうだわ)
 自分を見つめてくれる誰かを求めていた。そうしてかれの目にみずからを映り込ませずには、自分のかたちがわからなかった。ひとりでいることの孤独は、自分を見失うがゆえの孤独だ。ゼロか、イチか、それを確かめてくれるのが自分ではなかったから。
 てのひらの温度を握りしめると、応えるように力がこめられる。イチカを世界から隔てるものは、もう目蓋一枚しかなかった。
「イチカ」
 あなたがそう呼んだから、私は私になる。

 ――だからこそ私たちは、誰かに見つけてもらいたかった。