Chapter6 あなたに空を
軽薄な服装をしていなかったのは幸運だった、と、通された控え室で、イチカはひとり息をつくことになる。
飾り気のないカットソーに、暗い彩りの膝下スカート。足を覆ったタイツは模様ひとつない質素なものだ。荷物を取りに戻るまでと女性警官から借りることになったその服に、地味が過ぎると渋い顔をしたことはまだ記憶に新しい。しかし、街を歩く女子高生にとっては敷居の高いそれも、“大樹”に赴く議員令嬢にとっては礼装代わりとして立派に役割を果たしてくれたのだった。
自宅で私服に着替えていようものなら、と想像するだに恐ろしい。プライドの高い“大樹”の受付嬢に、背中から冷笑を浴びせかけられるのが目に見えていた。
イチカはソファの背もたれに体を預ける。上層議員の集う場ともなれば控室の内装も上等なもので、ベルベットの絨毯には埃のひとつも見当たらない。壁に並ぶ油絵、添えられた花瓶の薔薇――前世紀の趣味を前面に押し出した意匠の部屋にも、電源の落とされた大型のディスプレイは主張することなく設置されていた。
(いつまで待たせるつもりかしら)
イチカは携帯端末を確認した。部屋に取り残されてから、はや三十分が経とうとしている。
“大樹”の正門をくぐったイチカを、最初に呼び止めたのは警備員だった。若い訪問者に険しい表情を見せた彼らも、イチカが八神榛一の娘だと知るや否や目を剥くこととなった。呆然と立ち尽くした警備員たちを早々に背にやり、対照的に眉の端さえ揺らさなかった受付嬢に話を通して、その後誰とも知れない使いの人間に先導されて。
――結論、こうして待ちぼうけを食らうまで、イチカの前に父親が現れることはなかったのだった。舌に感じた酸味を、イチカは無言で飲み下す。
(そんなことより、これからあっちがどう出てくるかの方が問題だわ)
上層議会からしてみれば、イチカは毒にも薬にも転ぶ劇薬だ。アクエスの存在が彼らにとっての極秘事項であった以上、それに通じるイチカを市民の前に出すことは避けたいのが本音だろう。下層への攻撃を果たした現状で、イチカを利用する必要があるとも考えにくかった。
(消してしまうのが、きっと一番手っ取り早い)
自身の導いた答えに、けれど、とイチカは逆説を打つ。
その場合はエイトが動く。前もって送り付けておいた声明が、レイシの協力によって都市の住民に届けられることとなるだろう。どれほどの効力を持つかは定かではないが、イチカの背後にその切り札がある限り、上層議員もおいそれと武力行使に出ることはない。
(その結果がこれなのかもしれないわね)
思考はそうして循環する。
備え付けのディスプレイが唸るようにして立ち上がったのは、イチカの苛立ちが不安を押しのけたころだった。身を凍らせるイチカの目の前で、ディスプレイは光をため込んでゆく。光の粒子は徐々に像を結び、薄型の画面に一人の男を映し出した。
仕立ての良いスーツは丹念な手入れが施され、うっすらと艶を帯びている。ワイシャツの襟は屹立し、臙脂のネクタイには些細な乱れもない。機械のように整った立ち姿に嫌味さを感じさせないのは、彼の表情に媚びる様子がないためだ。揺れない眼差し、固く結ばれた唇で紡がれる言葉が、いかに相手をすくませるものであるか、イチカは痛いほどに知っている。
「父さん」
先に呼ばねば、圧される、と思った。
「話があって来ました。父さんが……上層議会が伏せていたことも、今は理解しているつもりです」
一度言葉を切った。浅くなりかける呼吸を、強いて深いものに変えていく。震える必要はないのだと、繰り返し自分に語り掛けていた。恐ろしいのは父親そのものではない、彼に嫌われることを拒んできた自分自身でしかないのだから。
ハルイチの顔を見上げる。彼の目の色を伺うのも、逃げの一手を打とうとするのも、これで終わりにしなければならない。
「私を協約のシンボルに差し出したのは、上層の工作員を下層に送り込むためだった。海の水を流し込んで下層を沈めてしまうため。上層には一切その様子が伝えられていないし、トランスポーターはまだ閉ざされたままでいる。私がここにいることも市民には伏せられたまま……上層議会にしてみれば、私がこちらに戻ってきていることは都合が悪かったんでしょう。私は下層のテロリストによって、犠牲になった人間でなければいけなかった。上層が粛清を下すための、正当な理由にならなくちゃ」
罰が当たったのだとタカキは言った。彼の諦めが、イチカの鼓膜を掻いて離れない。
彼のみではない、上層と下層の諍いから目を背け続けた人々にも分け隔てなく水は降る。水没した下層の上で、上層の市民は口をそろえて言うのだろう――自業自得だ、と。情報統制が為された都市で、真実にたどり着く者はいない。
そうして仕立て上げられる水風船は、きっとあまりにも美しく、美しいがゆえにいびつな球の形をしている。欺瞞で取り繕わずには、呼吸さえ保てない未来の姿だ。
「父さん、……いいえ、八神議員。お願いします。今すぐに水の流出を止めてください。報復にはやりすぎでしょう。REB技術に対する見方だって昔とは変わっているはずだわ。下層の皆が皆、上層と対立しているわけじゃない」
REBを受け入れた下層市民がいるように、REBを拒む上層市民もいるのだろう。居場所は必ずしも、そこに立つ人々を規定しない。彼らを陽動するとすれば、政治と情報をおいて他にはなかった。
自ら生み出し、煽り立てた火種を、被害者の顔をして見上げてきた。上層と下層の対立の根拠がどこにあったのかも忘れ去られてしまった今、海を挟んで存在するのは、憎むべきかりそめの敵だけだ。
お願いします、と繰り返して頭を下げる。父親の沈黙はそのままの姿勢で耐えた。ディスプレイの発する光は、時折揺らいでイチカの影を明滅させる。
『イチカ』
しかし父の声色に、一切の変化はなかった。
知らず無言の時間を計っていたイチカは、そこに至って奥歯を噛み締める。父親が口を開いたのはイチカが腰を折ってから二十秒。ちょうど彼が議席を立ち、答弁の場に立つまでの時間と同じだけの間だった。
『お前の言い分は一方的だ。対価も差し出さずに要求を語るだけでは、議会どころか人ひとりとして動かん。我儘を聞き入れるのは子供ぐらいだ』
「……っ」
『そもそも水のせき止めは不可能だ。工作員は昨日のうちに引き上げさせている。操作盤もすでに海の底だ、操作も受け付けなくなっているだろう』
「それならトランスポーターを開放して、今すぐ下層の人たちを避難させて! 無関係の人たちだってたくさんいるでしょう!?」
『トランスポーターを封鎖したのはあくまでも下層だ。上層が解決できる問題ではない』
息を吸い込んだまま、イチカはこぶしを震わせる。せりあがった衝動の行き場がなかった。八神榛一は変わらずディスプレイの向こう側、塗り固められた鉄面皮を崩そうともしない。
建前を志と置く人間がいる。――しかしその一方で、建前を武器にする人間がいる。虚構で理を積み上げた相手に、イチカの憤りは届かない。
『上層議員がお前を持て余していることは事実だ。当然解放するつもりはない、また警察に拘束されても支障が出る』
待ちかねたとばかりに控え室の扉が開く。乗り込んできたのは一様に揃いのスーツとサングラスを身に着けた男たちだ。REB技術で同じ背格好を作り上げでもしたかのように、ひとりひとりに区別をつけることは難しかった。
一斉に向けられた銃口が、イチカの身を凍らせる。目だけでディスプレイを仰ぎ、「どうするつもり」と問いかけた。喉が引きつるのを黙殺し、無理やりに言葉を吐き出す。
「……私の生体反応が消えたら、上層の隠してきた情報はすべて都市に撒かれる手はずになっているわ。兄さんの言うことなら、少しは真実味を持つはずよ」
『殺すつもりはない。生かしているつもりもないが』
「どういうこと……」
『アクエスはお前の意識、正確には意識に付属する中枢情報を認識し、それのみに付加価値を与えている。量産の可能なREBでは代用のできないものだ。その価値、REBに収めたまま消去してしまうには惜しい』
男たちの背後に、ひとつ見覚えのある顔を見た。施術用の整備服は真新しく、常のとぼけきった顔つきを、今だけはきつく引き締めてイチカを見つめている。しかし服装や表情を整えたところで、十年以上も顔を突き合わせてきた彼をイチカが見間違えるはずもない――自分の“更新”を担当してきた、REB技師の姿を。
ひ、と喉から声が漏れる。彼の存在は、八神榛一の目論見を推測するには十分すぎるほどの根拠だった。
『難しいことではない。中枢情報を意識から分離させて、別の体に
挿入する。それが人の体である必要はないし、ともに埋め込む意識がお前のものである必要はないというだけのことだ。通常通りの更新作業と変わらない』
「そんなの……、法律に喧嘩を売るようなものでしょう! 司法が黙っているわけが」
『知らない事件をどう裁く』
斧の刃を振り落とすように、八神榛一は言い捨てる。イチカはついに言葉を失った。
『繰り返そう。お前は生き続ける。生体反応を残したまま、上層に保管されることになる。記憶情報を辿れば議会に反対する人間も浮かび上がるだろう。……それが上層議会の決定だ。長く待たせたことは詫びよう』
「……待って、嫌、父さん」
『私を議員と呼んだのはお前だ。違いないな、八神一花』
「待っ――」
映像が途絶えた。父に追いすがろうとしたイチカもまた、背後の男に昏倒させられる。振り落とされる寸前の意識が見たものは、ディスプレイに残された、無機質な青だけだった。