様子がおかしい、とレイシがひとりごちたのは、襲撃箇所に定めたトランスポーターを橋向こうに見定めたときだった。
イチカは後部座席から身を乗り出して、彼の発言の意図を確かめる。生い茂る摩天楼の合間、目的のトランスポーターはひっそりと顔をのぞかせていた。造形こそ高校の傍に打ち捨てられていたものと同じであるものの、周囲に灯ったライトはそのトランスポーターが今も活発に動作していることを示していた。
さらに目を眇めて見つめれば、付近には数台の警察車両が見受けられる。イチカは首をひねった。
「あれは兄さんの部下?」
「知らん。おかしいのはそっちじゃない、よく見ろ」
レイシは車を道路の脇に停める。イチカと共にトランスポーターを見据えていたエイトが、しばらくして目を見開いた。
「イチカ、入り口に人が」
「人?」
「何人も出てきます、民間人だ……あっ」
思わずといった様子でエイトが腰を浮かせる。レイシの一睨みで助手席に留まりこそしたものの、落ち着きなくガラス窓の先に目を走らせていた。「なんだ」と煙たげに問うレイシに、彼は眉の端を下げる。
「あそこに知人が。間違いありません、出てきているのは下層の人間です」
そこまで告げられれば、イチカの目にも異変は明らかだった。トランスポーターは続々と一般人を吐き出し、警察の誘導に彼らを任せているのだ。まるで護送するかのように人々を乗せて走り去っていくさまを見る限り、彼らがトランスポーターの強襲を命じられた警察官でないことは明らかだった。
「封鎖が解かれたの? どうして」
「……訊いてきます」
「え、エイト!?」
エイトがひとり車を飛び出していくのに続き、イチカははっとして扉を開く。おい、と声を荒げたレイシに「すぐに戻ってくるから!」とだけ伝えて背を向けた。
がむしゃらに走って数十秒、息を切らせて白塗りの橋を渡り切るころには、彼はすでにトランスポーターの傍らにたどり着いている。そこでイチカは息を呑んだ。エイトが呼び止めていたのは彼自らの両親だ。
付き添うべきか、と悩んで、いくらか離れたところで足を止める。唇を結んでいれば、彼らの声はおのずと耳に入ってきた。
「――助けてほしいとお願いしたわけじゃねえんだ。頭を下げる筋合いはねえし、金属の臭いがぷんぷんする町なんぞに暮らそうとも思わねえな」
舌打ちで口火を切ったのはエイトの父親だ。その傍らには険しい顔であちこちを眺める年配の女性の姿がある。エイトはひとつうなずいて唇を開いた。
「べつに咎めだてするつもりはないよ。REBが憎いならそれでもいい、俺もふたりの好き嫌いにまで干渉しようとは思わないから」
「だったら、また『恥をさらすな』か。お前はいつもそうだ。毎度毎度偉そうな口をききやがって、親をなんだと」
「……確かに俺は、親父の子だよ」
ともすれば、聞き逃してしまいそうなほどに小さな声。
しかし彼の唇から、確かに発された声だった。
「それでも別個の人間なんだ。光峯瑛斗、ひとりの人間としてふたりと喋っているつもりでいる。言われたことにただ従うだけなら、それこそふたりの嫌いな“鉄くず”と一緒なんじゃないか」
エイトの父親に張られた頬が、じわりと熱を帯びるかのようだった。イチカは思わずそこに触れる。指先に返るのは柔らかな皮膚の感触だ。
父親に啖呵を切ったエイトの手を引いて、逃げるように下層を脱出したのが数日前――すでにイチカの痛みは引ききって、痕のひとつも残ってはいない。消えない痣を抱えているとすればエイトのほうに違いなかった。
「俺の意志はここにある。俺だけじゃない、上層の人間も、下層の人間も、みんなそうだろう。俺たちが俺たちのままでいるのは、誰のおかげでもないんだ。だから」
息を切り、呼吸を整える。――自分自身を鎮めるように力を抜いて。
「憎いものを好きになれとは言わない、みんな嫌いなままでいい。認められなくてもいい。……でもせめて、否定しないでほしい。親父が許さなくても、生きている人たちがいるってこと」
そう、縋るように告げることが精一杯だったのだろう。エイトの視線はゆるゆると下りていく。
トランスポーターが人の波を新たに吐き出すころ、再びの舌打ちが父親の口をついた。どこか拗ねたような声色で言う。
「てめえはまだ、あの技術で機械になって、上層で暮らすつもりなのか」
「……いや。嘘をつくのはもうやめたんだ。そうやって生きるのだって、なかなか難しいってわかったところで」
「それじゃあこれからどうするつもりだ。下層は水に沈んじまうぞ、上層だって今こそ優しいふりをしていやがるが、どうせ俺たちを食い物にするつもりなんだろう」
「これからは――」ちら、とよそに向けられた目が、イチカのそれとかち合う。エイトはにわかに相好を崩し、父親にいま一度向き直った。「そうならないように頑張っている人の、力になりたいと思う。だからここにいる」
凪いだ海に、星の光が下りていく。かれらは下層の照明と入り交じり、水面を金銀の粒に満たしていた。
男は苦虫を噛み潰したような表情でエイトの視線を受け止める。イチカはその顔色を、既視感を覚えながら眺めていた。浮かべる顔のかたちこそ異なるものの、父ハルイチが通信を拒絶する直前に見せた表情と同じものに違いなかった。
「勝手にしろ、俺は関わらんからな」
「わかってる。……警察がついているなら大丈夫だろうけど、道中気を付けて」
「うるせえ」
男は吐き捨てて、よどみなく流れていく人波に紛れるようにして去っていく。早足で追いかけた女性とふたり、彼らが警察車両に消えていくのを見送って、エイトはほっと息をついた。
「状況はわかったのか」
低い声を投げかけたのはレイシだ。エイトはうなずいて、走っていく車両の群れから目を逸らす。
「警察には行政側から話が下りてきたそうです。特例ということで、この地域のトランスポーターだけが解放されたようで」
「この地域……?」
「兄さん、ここって確か二十一区よね」
イチカの確認を受けて、レイシは眉間に指を寄せた。そうして兄妹は揃って唇を三角に結ぶ。そうだな、とやっとのことでレイシが答えるので、イチカはとうとうため息をこぼす。困惑するエイトに、笑みにならない笑みを浮かべて言った。
「“大樹”の議員は、それぞれに市の管轄区を割り当てられているの。悠長に議会を開いて議決を待つ余裕がないときに、いくらかの独断が認められるってことね。今がその有事にあたるわけだけど」
「じゃあ、二十一区の管理議員は」
「……父さんよ。八神榛一議員」
馬鹿みたいだわ、とイチカは首を振る。空回りをした気分だった。安易にことを受け入れられなかった父親による意趣返しを疑った末、そこにエイトの父親と同じ頑固さを見出す。
「従うなら従うって言ったらどうなのかしら、いい歳して可愛げのない」
「プライドも肥大化すると面倒だな」
口を揃えて不平を漏らすふたりをしばらく見つめて、エイトは一言「似た者親子だと思いますよ」と苦笑する。すぐに眉を吊り上げたイチカから、逃げるように体を逸らした。
トランスポーターを取り囲んでいた警備員たちは、レイシの端末に表示された身分証を確かめると道を開けた。続々と流れ出す人の群れに逆らうようにしてスロープを下っていけば、すぐに円筒状の一間にたどり着く。
アクエスに遍在するトランスポーターは、どれをとっても同じ形状をしている。イチカの入り浸っていたものとの違いをあえて取り上げるとすれば、せいぜいが正しく機能している照明ぐらいのものだった。
警備員からの連絡が入ったのだろう、イチカたちがその部屋にたどり着くころには、下層からの人波が一時的に押しとどめられていた。静寂を取り戻した一部屋で足音を止めれば、靴音は高く反響する。
「管理員と話をつけてくる、ここを動くなよ」
「はいはい」
管制室へと入っていった兄を一瞥で見送って、イチカは肩の力を抜いた。
「……トランスポーターにも縁があるわね」
壁際に佇むエイトの隣に並んで、イチカは濃紺の海を仰いだ。硝子張りの壁に手をついて、その冷たさに目を細める。イチカ、とためらいがちに名前を呼ばれるので、うっすらと笑ってみせた。
「REBを換装するときも、こんな感覚なの。さっと手足が冷たくなって、少しずつ感覚がなくなっていく。でも意識だけはずっと冴えているから、いつまでも考え事をしているのね。次の日の授業とか、友達との約束とか、私を繋ぎとめておいてくれるもののことを」
声を上げることも、手探りに闇の先を確かめることもできない。感覚器から遮断された世界で、イチカの存在はひどくちっぽけなものだ。
「ほとんど無意識だったけど、きっと、そうしていないと不安になるんだわ。眠ってしまうのが……目覚められなくなるのが怖かったから」
――いなくなってしまうんじゃないかって。
そう、囁くように付け足す。数ヶ月前であれば過ぎた妄想だと唾棄できた。しかしそれが現実に起こりうることを知ってしまえば、昔のようには笑えない。
「次に目蓋を開いたら、私は私じゃなくなっているかもしれない。もしかしたら目蓋だってもうなくなっていて、小さなデータメモリの中で、生きているつもりでいるのかもしれない」
「そんなことは、」
「ねえ、エイト」
海を見つめたままで呼ぶ。彼の顔をふり向くことができなかった。なんですか、と問い返す声の、そのやわらかさだけで泣きそうになる。
「私が私でなくなっても……REBの体を失って、もう動けなくなっても、なにも喋れなくなっても。それでもまた、私を見つけ出してくれる?」
密閉されたトランスポーターに、さざ波の音は聞こえない。彼方の水面には月の陰影が移ろい、水中に揺らめく光を溶かし込んでいた。知らず息を詰めていたイチカは、ふいに訪れた沈黙に恐る恐る顔を上げる。
訝しげに眉を寄せられるなら、煙に巻いてごまかすつもりでいた。言わんとすることを秘めたままの問いかけはあまりに卑怯だ。案の定エイトはきょとんとイチカを見下ろしていた。失敗したとほぞを噛み、イチカが反射で口を開こうとしたとき。
――もちろん、と小さな声が降った。そうして彼はくしゃりと笑う。幾分かの幼さを纏わせて、エイトはイチカを見下ろしていた。
「約束します。どこにいても、どんな姿をしていても、必ずイチカを探し出す。だから」
「だから?」
「呼んでいてください。あなたがあなたであることは、俺がちゃんと憶えています」
名前を呼ばれて、初めてイチカはイチカになった。代用の利くREBの体に、イチカという意味が与えられることで。
震えた唇をきつく結んで、声が漏れないようにと呼吸を堪える。けれども思わずこぼれた吐息だけは、押し殺すことができなかった。もごもごと口を開閉させた末、やっとのことで言葉を返す。
「もうひとつだけお願いがあったの。……わざわざ口にするのは、ちょっと恥ずかしいんだけど」
ええと、あの、と指先をすり合わせて、イチカは結局親指を握り込む。耳の裏側に登り始めた熱を、押し留めようと必死だった。言い訳をするようによそを見る。
「アクエスが何よりも欲しがっているものを、私は持っている。第二史実が始まってから、ううん、あの子が作られてから、今の今まで欲しがってきたもの。私だけがあの子に渡してあげられるもの」
そらを、と望んだ都市の、透明な声を思い出す。海に落ちた幼いイチカを助け上げたのはアクエスだった。ならば彼女には、イチカを生かし続けるだけの理由があったのだ。
「もしもまだアクエスが私と接触を持とうとするなら、あの子はきっとそれを求めてくる。それがあの子にとって、唯一の私の価値だから」
「……それが何かは教えてくれない?」
「止められるのが目に見えているもの」
肩をすくめれば、エイトは瞳に険を宿す。
「止められるようなことをするつもりなら――」
「聞かないわよ。それに、希望がないわけじゃないんだから」
大丈夫、と伝えてやったところで、信用がないことは百も承知だ。それでもイチカは笑ってやるほかに方法を知らない。上手に嘘をつくだけの器用さだけは、結局手に入れることができないままだった。
「ちゃんと傍にいるわ。どんな姿になっても。……だから、その」
カーディガンの裾を握っていた指をほどき、ためらいながら胸の前に差し出す。
「手を、握っていてくれる?」
頼りない約束でも、信じられているという証がほしい。イチカを繋ぎ止めるてのひらがあるなら、きっと自分を忘れずにいられる。
エイトは顔面に不満をあらわにした後、けれども効果がないことを早々に悟ったのだろう、大仰にため息をつく。呆れを眉に見せれば、すでに平素通りの彼の顔だ。トランスポーターに滞っていた冷えた空気も、いつからか呼吸が容易なほどに軽くなっていた。イチカの手はひょいとすくわれて、存外に大きなてのひらに包み込まれる。
拗ねの混じった視線に、くすぐったくなって笑い声を響かせる。トランスポーターが駆動音を鳴らしたのはそのときだった。
「……兄さん?」
イチカは声を低くする。レイシが管制室に向かったのは、管理の人間に席を譲らせるためであったはずだ。探るように部屋の内部を見渡して、管制室と海上へ続く扉が揃って閉ざされているのに気付く。
イチカ、と呼ぶレイシの声を聞いた。ロックのかけられた扉の向こう側からだ。その急いた声色に、イチカはただならぬものを悟る。
「兄さん、じゃない……? じゃあ誰が」
硝子張りの壁の向こう、海がうねって波を立てる。散らされた月の光を、イチカは腹を殴られるような心地で目に留めた。
「――アクエス、」
そう口にしたのが最後。
イチカとエイトの姿は、塗りつぶされるようにしてトランスポーターからかき消えた。