それを直接目にしたならば、しばらく両目は使い物にならなくなっていただろう。
 広場の一帯に光をばらまいたのは、投擲された閃光手榴弾だった。物影から苦悶の声が上がるのを、イチカは閉じた瞼の向こう側に聞いていた。許容範囲、とカナメが称した見張りの人数も、備考する者たちも含めてのものであったのだろう。下層の側もエイトをつけるだけでは不安であったということだ。
 イチカは舌を巻く――手榴弾は、足元から投げられた。
 警察所属の突入部隊は、上層から海へ潜り、下層へと泳ぎついたのだ。テレポーターが起動しない現状、上下層を繋ぐものは海以外になかった。
(人体に影響が出るかもしれないっていうのに。危険な真似をしたものね)
 隊員の被るリスクとイチカを奪われるリスクを鑑みたうえで、上層はイチカを取ったのだろう。正確には、彼女の持つ“アクエスへの鍵”を。
 なだれ込むような足音が突入部隊の着岸を告げる。怒声が轟き、あちこちから悲鳴が上がった。イチカが攫われてきたこと、それを奪還するための部隊が動いたことを、知りえなかった人々の声だった。イチカは血が出るほどに唇を噛む。
(目的もやっていることも、下層のテロリストと同じじゃない……!)
 いち早く立ち直り踵を返す。あえて地面を強く踏んだのは、自身の居場所を報せるためだった。
『イチカ嬢、広場から出る必要はありません。すぐに保護の手が向かいます』
 この期に及んで無機質なカナメの声が、イチカの神経を逆撫でする。彼女が伝える通り、視界の端にはすでに突入部隊の影があり、拳銃を構えて牽制を行っていた。ひとりがイチカを確認すると、小走りで近寄ってくる。
「よかった、お嬢さん。あとはこちらに、」
「そこ退いて!」
「……え?」
 年若い隊員の腕をすり抜ける。体勢を崩しかけながらも、イチカは足を止めなかった。
「え、おじょ、お嬢さん!?」
『イチカ嬢、どこへ向かわれるおつもりですか!』
 カナメが耳元に叫ぶ。戸惑う部隊員たちを背後に残し、イチカはふり返りもせずに広場を抜けた。街路を渡り、人をかき分け、早くも息が切れ始めたところで、初めて自身の運動不足を呪う。
『お戻りください、イチカ嬢』
「黙っていて!」
 裏返りかけた声を意地でつなぎ止める。イチカの耳には、すでに後を追う足音が聞こえていた。しかしそれが上層の手であろうと、下層の手であろうと、ふり返れば末路は変わらない。イチカの人権は鍵に付属する飾り程度のものでしかないのだ。
「ほんっとう、迷惑な、話だわ。結局、誰も私の話なんか聞きやしない……!」
 どんなに声を張り上げても、助けを叫んでも、不満を訴えても、顧みられることはなかった。諦めを覚えたのは幼いころで、気付けば誰を呼ぶこともしなくなっていた。ならば行けども戻れども、イチカの未来は声を奪われた金糸雀だ。
(もう、まっぴらだわ)
 逃げ出したいのはイチカも同じだ。諦めきれずに、見ないふりをしたのが自分自身であったのも。逃げ道はいくつも存在していて、けれどもイチカはそれを踏みつけにしていたのだ。どうしようもないプライドと、愛を求める寂しさが邪魔をした。
 すべて投げ出してしまえるなら、空は、海は、世界は、もっと広かったはずなのに。
「父さんも兄さんも、上層も下層も協約も知らないわ、知るもんですか。結局誰かが得をして、誰かが損をするだけでしょう。それなら私が通したい意地ぐらい、張り通さずにどうするっていうのよ」
『どうしてそう勝手を働くんです、学校で同じことをして捕まったのは誰だったかもう忘れたんですか、この鳥頭!』
「うるさい!」
 着替えを済ませておいてよかった、と心底思う。ウェディングドレスとミュールでは地面を駆けていくことさえままならなかっただろう。ワンピースの裾をからげて向かう先は、下層で最も天に近い場所――すなわち深い深い地の底だ。本来起伏の少ない通路を、イチカはそれでも着実に上り続ける。
 足を止めたのは、不自然に削られた丘の頂上だった。なだらかであっただろう傾斜の一角が、ほぼ直角に欠けている。ふもとに海が口を開けていることを鑑みれば、その丘が都市開発の際に犠牲となった土地であろうことは察せられた。
 海にせり出した大地は、岬であり、崖だった。侵入を阻む鉄柵を乗り越えてようやく、イチカは背中を振り向いてみせる。広場から娘を追いかけ続けていたのは、上層と下層の人間がほぼ半数ずつだ。みな揃ってあんぐりと口を開けた景色が、イチカには滑稽でならなかった。
『イチカ嬢、くり返します。お戻りください』
 切羽詰まったカナメの警告を聞き入れもせず、イチカは群衆の中にひとりを探そうとする。端から端までを睥睨したところで、無駄と悟って息をついた。
「拡声器に繋いで。機械虫だってREBの子機だもの、隊員の端末に電波を飛ばせば、スピーカーの真似事ぐらいできるでしょう」
『……何をなさるおつもりですか』
「いいから。私に声をちょうだい」
 カナメが黙りこむ。上部に掛け合うだけの間があって、了解しました、と渋い声が絞り出された。
『不適当な発言があれば、すぐに周囲機器との通信を打ち切ります。よろしいですね』
「構わないわ」
『下層突入部隊各員の連絡用端末に音声接続。機械虫の集音機能を最適化、設定変更まで残り五秒、4、3、2、1――』
 ノイズが走った。水音を皮切りとした環境音が、電子音へと色を変えていく。下層市民が不思議そうに頭上を仰ぐのを、イチカは微笑と共に見下ろしていた。
「逃げ道をあげるわ」
 いっぱいに息を吸い込んで、胸を張り、背筋を伸ばしきる。震えのない声は、揺らぎのない姿勢から生まれるものだと知っていた。そうして弁舌をふるう父の姿を、幼いころから目にしてきたのだ。
 しかしイチカは、父ではなかった。言葉を届けたい相手はただひとり――それは、彼に伝えるためだけの“声”だった。
「どこにも行き場がないのは私も同じよ。今さら上に戻っても、家に閉じ込められだけだもの」
 イチカが上層から失われて初めて、八神榛一は動きを見せた。娘を歯牙にかけることもしなかった父親が。楔を打つにはそれで十分だった。断ち切ってしまえれば、執着を抱くこともない。
 数歩、後ろへ下がる。観衆がどよめいた。鉄柵に手をかけた者たちを、イチカは一瞥で黙らせていく。
「私の抱えた寂しさも、あなたの抱いた煩わしさも、ぜんぶ捨て去ってあげる。そうするにふさわしい場所を、私はよく知っているから」
 眼下にうつろうアクア
 それは、都市が擁した情報いのちの在り処。
 電子情報としてひとは生まれ、刻まれ、物語として残される。いくつものことばたちと、それを語るための数列の渦の中で。REBに籠められたイチカもまた、同じ場所へと帰ってゆくのだろう――逃げ道を探し続けた、その終着点として。
 海はREBへと潜り込み、情報でつくられた体を溶かしてしまうという。水の中に氷を落としこむように。くり返し聞かされた警句を思えば、イチカの顎は容易く震えようとする。
 それでも、信じていた。
 笑ってみせるには、それだけで十分だった。
「だからお願い、手を取って。……呼吸を止めてしまうなら、あなたの傍がいい」
 人々が息をのむ。イチカは目を閉じて、海の中へと落ちていった。