装いを変えてしまえば、イチカもエイトも、波打つ大衆のひとりでしかなかった。それが上層の令嬢であっても、それが犯罪者に加担する青年であっても、つい先ほど結婚式を男女であったとしても、アクエスはみな飲み込んで都市の一部に変えていく。広大な都市を相手取れば、人の営みは小石の立てる波紋ほどの意味しか持ちえない。
 イチカは歩調を緩めて街路を行く。その背中を、数歩遅れてエイトが追いかける。ふてくされた表情で引きずられていたエイトも、いつからか呆れたように自ら歩を進めていた。繋いでいたはずの手を離したのはどちらが先であったのか、イチカの頭はとうに考えることをやめている。沈黙がふたりを繋ぐのであれば、触れ合っている必要は見つからないのだった。
「唇」
 静寂を破ったのはエイトの方だった。うん、とイチカは背中に一瞥を投げる。
「思いっきり噛んだでしょう。人前だっていうのに。あれからしばらく血が止まらなかったんですよ」
「お気の毒ね」
 彼の非難に力がこもらないことに、確かな安堵を覚えていた。イチカは観光をするかのように足を遊ばせ続ける。背後にはため息の気配があった。
「殴られたおかげで傷口が開くし。散々だ」
 へそを曲げたようにエイトが呟く。このぶんだと頬も膨らませていそうだ、と考えて、イチカは喉の奥で笑った。くるりと身を反転させ、彼を見上げる。
「もともと小奇麗な顔だもの。傷がついたぐらいのほうが男前よ」
 エイトの足が止まった。イチカは無視して歩みを再開する。しばらくの戸惑いのあとで、エイトもまた地面を踏みつけた。
「煽るときでないと、そういうことは言えないくせに」
「それはあなたも似たようなものじゃない」
 返してやれば、青年が黙りこむ。疑問符を浮かべているのが目に見えるようだった。
「嘘をつくの、本当は苦手なんでしょう。式の途中も、噛みついてやったときも、今もそうよ。取り繕うふりぐらいして見せたらどう?」
「誰だって、ご令嬢に噛まれるだなんて思わないでしょう」
「見当が甘いわね。上層には私より凶暴な女なんてごまんといるわよ」
 かどわかされたのがミサキであったなら、顔を合わせるたび、握りこぶしのひとつやふたつ、彼の腹に叩きこんでいてもおかしくはなかったのだ。そうしていないだけイチカの抵抗もまだささやかなものだった。
「上でどう生きていくつもり? REBになったところで表情まではごまかせないわよ。あなたなら知っているはずよね、今まで私をよくよく見てきたみたいだし」
「……その話はタカキから?」
「私が名前を出したなんて言わないでよ。隠しているように言われたの」
「はあ」
 エイトはすっかり毒気の抜かれた顔で、かくりと首をかしげる。無茶苦茶な、と漏らされた独り言も、イチカは聞かぬふりを通した。
 時刻は昼を過ぎたところだ。海から漏れだした青い光が、ショーウィンドウ映りこんでいた。イチカは首筋にまとわりついた髪を払いのけ、大きく首を振る。その背にエイトが声をかけた。
「それで、どこまで吐かせたんですか」
「吐かせたなんて人聞きが悪いじゃない、教えてもらっただけよ。あなたの家庭環境と、私の誘拐に手を貸した理由と、あとは下層がばらばらで、この計画を知らない人間がほとんどだって」
「あのお喋り……」
「あなただって私の家のことぐらい調べてきたんでしょう。これでおあいこよ。まだ分が悪いぐらいだわ」
 イチカを籠絡し、下層に引きずり落とすことがエイトの役割だった。下層議会を巻き込んだ荒唐無稽な計画だ。それを現実のものとするためにどれだけの経済と情報が動かされたのかは、イチカの知るところにはなかった。
 ふたりは下層の中央部、円形の広場に踏み入れる。平日の昼どきに人影はまばらだ。波のない海に白亜の橋をいくつも渡した構造は、上層のそれに近しい。
 イチカはわずかに足を速め、広場の中央にたどりつく。そして頭上を仰ぎ見た。そこにあるのはくりぬかれた大地だ。星もなければ月もなく、海を通した陽光も地の果てまでは届かない。下層の擁した空に、光を届けるものはない。
 逃げてしまいたかった。
 いつかそう告げた青年が、表情を失くしてイチカを見ていた。
「……なら、どうすればよかったんですか。REBになるのはやめておけとでも? 聞きませんよ。やっとたどり着いたんだ、今になって手放したりしない」
「言わないわよ、そんなこと」
 エイトはあての外れたかのように口をつぐむ。だってそうでしょう、とイチカは肩をすくめた。
「上層ではREB手術は個人の自由意思に任されているもの。あなたがREBになりたいなら好きなようにすればいいじゃない。反対するならむしろ下層の人たちでしょう、私がとやかく言うことじゃないわ」言葉を切る。しゃんとと背筋を伸ばして続けた。「でも、そうね。……逃げる場所を探しているっていうなら、REBになる必要なんかないんじゃないかしら」
 エイトが眉を寄せる。相反するようにイチカは唇をつり上げた。
 羽音が届いたのはそのときだ。イチカの耳にたどりついたカナメは、囁くようにして言った。
『準備が整いました。見張りの人数も許容範囲でしょう。イチカ嬢、合図を』
 中央広場は海の真上にあった。都市の町並みのなにもかも、思えば海なくしては存在しなかった。絶えず響く水音を改めて耳に入れ、イチカは腕をかかげた。立てた指は一本、迷いなく天を指している。
「私があなたを連れ出してあげる。だから」
「……イチカ?」
「追いかけてきなさい」
 空から降り落ちた物体が、エイトの背後でからりと音を響かせる。イチカが辛うじて視認できたのは、それが握り拳大の人工物であるということのみだ。
 目を閉じる。
 直後、閃光が弾けた。