控え室に通されて早々、イチカは皮を剥ぐようにウェディングドレスを脱ぎ捨てた。クローゼットに詰め込まれた女性服の数々からワンピースを抜き出すと、躊躇もなしに引き被る。膝元の裾を手荒くいなしたところで、ふう、と息をついた。
 そこに至って姿見を見れば、手間をかけて整えた化粧や髪形の何もかもが、あられもなく崩れ去ってしまっているのだった。逡巡の末、髪を留めていたピンを端から抜いて放り投げる。形を保とうとする髪を手で梳いてやれば、剥きだしの鎖骨を毛先が撫でた。
「不細工」
 一言呟いて洗面台に首を投げ出す。放置された化粧落としを塗りたくり、くり返し水を浴びた。唇に残った感触までもかき消すように指先を滑らせる。溶け出た淡い紅が、血のように水面を濁していった。
「……うん」
 顔を上げれば水滴が胸元を濡らす。鏡を睨みつけてしばらく、イチカはふらつきながら身を起こした。化粧気のない顔に、ようやく自分を見つけたような気がした。
 エイトの唇を噛みきった刹那、胸をざらつかせていた不快感が微かに和らいだのを感じていた。あれから時を置いた今、イチカの脳裏に浮かぶのは、まるで裏切りにでも遭ったかのように見開かれたエイトの眼差しだ。ざまあ見なさいと唇に呟いて、イチカはタオルを放り捨てる。
 控え室になだれ込むまでは傍らに人の影があった。部屋の中に踏み込んでこないだけのことで、今も扉の外では監視が続けられているのだろう。イチカは備え付けの椅子に腰を下ろす。時計は昼過ぎを告げていた。
 疲労が肩に降り積もる。気を抜けば眠りに落ちてしまいそうな意識を支えていたのは、カナメによって伝えられた指示だった。
 ――イチカ嬢への指令はひとつ。できる限り見張りを引き剥がすことです。
 神妙に囁かれた“作戦”の一部であるが、イチカにそれ以上を聞きだすことは叶わなかった。他の内容はすべてカナメら警察官にのみ共有され、イチカに知らされることはついぞなかったのだった。カナメはエイトとすれ違いにふらりと姿を消したきり、以降イチカの前に現れていない。
(無理にもほどがあるわ)
 いつ、どこから、救いの手が向けられるのかも分からないというのに、囚われの身で下層市民を撒けなどと。
 傍らにカナメの姿はない。それをいいことに、イチカははばかりもせずため息をつく。無計画に逃亡を企てたところで、見張りに捕えられるのは目に見えているのだった。
 機会はあって一度――式場をあとにし、監禁された部屋に連れ戻されるまでの数十分のみだ。車に乗せられている時間を除けば、残されているのは数分足らずだろう。無意識のうちに高鳴り始める心臓を、イチカは胸の上から押さえつける。
 荒々しい足音が聞こえたのはそのときだった。廊下に問答を聞いた、と思った数秒後には、殴りつけるかのような勢いで扉が開かれる。
 押し入ったのは壮年に差し掛かるかといった年頃の男だった。顔のつくりに既視感を覚え、イチカは目を眇める。
「あなたは」
「……よくも」
 絞り出された声に、イチカがまばたきをした、直後のことだ。
 骨を穿つかのような鈍い音がした。右の頬を張られ、イチカは軽々と弾き飛ばされる。
 感覚は度を過ぎるほどに鋭敏だった。見張りに立っていた男が後ずさるのを見、遠くには慌ただしい物音を聞く。しかし椅子が引き倒され、机が揺らぎ、自身の体が床に崩れ落ちた段になってもなお、自分の置かれた状況だけは理解できずにいた。
「…………な、に」
 歯が軋み、顎が震える。口内が裂けているのか、舌先には血の味がした。
「なにが鍵だ、こんな、こんな鉄クズなんぞにうちの息子を、」
「み、光峯さん、そのあたりで……」
「俺は初めから反対だったんだ!」
 それをエイトの奴が。勝手に。親の了承もなく。どこから嗅ぎつけたか知らんが。あのひねくれた餓鬼がいらんことを吹き込んだのか、そうに決まっている――うわごとじみた文句の嵐を、イチカは呆けたままで聞いた。彼の激情が自分に向けられているらしいということを、かろうじて思考の端で悟りながら。
(光峯……。エイトの父親?)
 思い出してようやく、脳は緩やかに像を結び出す。数日前にエイトと言い争っていた二人連れの片割れだ。式にも出席していたのであろう、安物の生地からなる礼服は、うっすらと光沢を纏わせていた。
 イチカはぶるりと肩を震わせる。男の眼差しは燃えるようにぎらつき、眼前の娘を今にも絞め殺さんとばかりに睨みつけている。遅れて訪れた頬の疼痛は、イチカに確かな恐怖を運んできた。
「……っ、おやっさん!」
 駆け込んだのはタカキとエイトだった。硬直するエイトをよそに、タカキは部屋を一瞥して状況を把握したようだった。咄嗟に男の腕を掴む。
「なにやってんだよ、そいつには手を出すなって話だったはずだ!」
「黙っていろ上層かぶれ! どいつもこいつも人工人体だの何だのと……下層にまで潜り込んで、毒を振り撒きやがって」
「もうやめろって、おやっさん、REBの中身は人間だって何度も言ったろ!」
再生者リバース? 再製者リビルトの間違いだろう! こいつらは人の皮をかぶった化け物だ! それに味方するお前らも、俺たちみたいなまっとうな人間を鉄クズにするつもりなんだろう!?」
 暴言を受けるタカキの顔は、倦む気振りこそあっても平静だ。エイトの父親への対応もこれが初めてではないのだろう。しかし男の方はタカキの介入によって火に油を注がれたようだった。こめかみに血管を浮き出しにして、彼のてのひらを振り払う。
 踏みとどまりそこねたタカキが、机を巻き込んで尻もちをつく。一輪挿しの花瓶から水がふりまかれ、遅れて硝子が四方に割れた。
 わめきたてるかのような音の洪水の中で、「だから」と呟く声があった。
「そんなだから、嫌だったんだ。俺は」
 男が背をふり返る。そこには立ち尽くす息子の姿があった。
「……あんたがそんなだから。REBや上層、技術を嫌うだけ嫌って知ろうともしないような、そんな人間だったから、俺はあんたのところにだけはいたくなかったんだよ」
 すすり泣きのようだった。声は今にも消え入りそうで、しかし有無を言わさず突き放すだけの棘がある。静寂の戻ってきた部屋に、青年の言葉を阻むものは見つからなかった。
「あんたはけちをつけるだけだ。人がやっとのことで積み上げたものに文句を言って、気に入らなければ横から台無しにして、やっぱり駄目だったって笑うだけ。……今だってそうだ。あんたはなにもしちゃいない。あんたが積み上げたものなんて、今の今までひとつもなかった!」
「この……っ」
「エイト!」
 タカキの警告がイチカの耳に届いたとき、男の拳はすでにエイトの顔面を捉えていた。続けざまに重い衝突音が響く。しかしエイトはその場に踏みとどまり、ぎらついた瞳をもって父親を睨みつけていた。
 二発目を防いだのはタカキだ。男を羽交い締めにして、エイトの傍から引き剥がす。
「エイト、もういい! 早くお嬢さまを連れていけ!」
 殴り足りないのは息子も同じだったのだろう。タカキの声が耳に入っていないのは明らかだった。指先をきつく握りしめ、唇をわなわなと震わせて、父親だけを見据えている。
 その姿は、まるで、泣きだす寸前の子供のようだった。
 イチカは手をついて立ち上がる。歯を食いしばればその付け根に痛みが走った。構わずに部屋を横切って、エイトの手を取り上げる。一室の全員――イチカ本人を除く皆がはっと息を飲んだ。
「イチカ、」
 エイトの呼び声を、聞き入れるつもりはなかった。制止、追及、そこにどんな意味が込められていたとしても、イチカのすることはひとつだった。
 かいくぐるように廊下へと飛び出して、彼の手を引いていく。さざなみのようなワンピースの裾が、震えようとする足を隠していた。