肩口を開いたドレス、黒髪を束ねる花織りの髪飾り。床の模様を透かすレースにはさざ波を模した刺繍。素足を覆うシューズも併せ、それらはみな純白に揃えられている。花嫁衣装を纏うイチカの顔面に張り付いているのは、しかし、一点の曇りもない不機嫌の表情だった。
 鏡に移りこむ景色は、今日も変わらない青。硝子越しに海を眺めていた日のことが思い出された。知らず視線を落とせば、腰元のフリルが音もなく揺れる。
『お似合いですよ、イチカ嬢』カナメが耳に降り立ち、囁きかける。『まるで戦装束のようで』
「ありがとう、まったく嬉しくないわ」
 無言の女性たちによって着々とドレスを着せられ、顔と髪を整えられてから数分。イチカは身動き一つ取れないままで椅子に座っているのだった。かくりと首をかしげ、ため息をつく。
「こんな形でドレスを着るだなんて思わなかったわ。一応結婚式でしょう、私だって夢ぐらい見ていたわよ」
『それは筋違いというものでしょう。協約が予定通りに締結されていたところで、式が行われることに変わりはなかったはず』
「言わせてもらえば、どっちも本意じゃないわよ。今さら文句をつけてもどうしようもないけど」
 それにしても、と肩を回す。気を張り続けているせいか、疲労はすでに溜まり始めていた。
「あいつらもまどろっこしい真似をするわね。私を動かしたいなら、拳銃でも突き付けて脅せばいいのよ。それこそ下層に連れて来たときみたいに」
「覚えが悪いんですよ」
 イチカの呟きに割り込む声があった。
 部屋に姿を現したエイトは、イチカと出会ったその日のように、嫌みなく礼服を着こなしていた。目に鮮やかな紅のネクタイに線の細さを強調する燕尾服、シャツにはくたびれた様子もない。
 数ある礼服を手元に置くには、エイトはまだ年若い。溺れたイチカを救いあげる際に濡らしてしまったスーツも含め、下層からの援助金によって用意されたものだったのだろう、と考える。アクエスに繋がる鍵を引きずり落とすためならば金に糸目はつけなかったということだ。
 エイトはイチカを見下ろすと、わずかに眉を上下させてみせる。
「綺麗ですよ。あとは額のしわさえ伸ばしてくれれば言うことはないんだけどな」
「どの口が言うのかしら。……それより説明してちょうだい、覚えが悪いっていうのは? この期に及んで体裁を気にしているってわけ」
「そのとおりです。俺たちは常に正しくなくちゃいけない、だったら、イチカが正式にここに招待された正当な花嫁であると証明することが、なにより有効なコマーシャルになるでしょう? ここにいる理由をイチカに与えようっていうことですよ」
「……ものは言いようね」
 ひとりごちたイチカに、エイトは一笑するのみだった。
「あくまでもデモンストレーションです。泣いたり叫んだりするようであれば、慣れない環境に動転しているだけだと言ってしまえばいい。俺は甲斐甲斐しくなだめつける新郎の役を務めるだけですし、ちゃんと台本も用意してあります。それでもよければご自由に」
「親切にありがとう、できないことはしないわよ」
 イチカはついと余所を向き、暗い街並みに目を凝らす。
 エイトの言い分を信じるとすれば、カナメが伝えた下層の情勢も、粗方正しかったのだろう。市民に体裁を取り繕って見せなければならないのは、上層議員も下層のテロリストも同じであったということだ。
 ひとつ、意識をして呼吸を行う。
 見計らったかのように差し出された手も無視し、イチカはふんぎりをつけて立ち上がった。エイトが目を細める。
「ヴァージンロードには誰もいませんので悪しからず」
「最初から期待なんかしていないわ。予定通り上層で式を挙げたところで、父さんが来てくれるとも思えないし」
 新婦の父親はいない。新郎は傀儡だ。――とすれば。
 イチカはドレスの裾を翻す。挑むようにエイトを見上げた。
「式場は私の舞台よ。せいぜい見劣りしないよう振る舞うことね」
 エスコートも振り払い、開け放した扉へ歩む。苦笑の気配が追いかけてくるのも、意に介することはしないでいた。



 雑然とした情報が行き交う都市の中、宗教は似非科学と同義で語られる。紛い物と跳ね付けられるだけの悪辣さも、ふり仰ぐだけの信憑性もないままで、宙ぶらりんになったのが神の存在だった。人々が縋りつくものは、むしろ、形骸化した信仰心がもたらした数多の習慣でしかない。
 ドレスを繰って、一歩、踏み入れる。
 鼓膜を撫ぜるようにせせらぎの音がした。下層随一の教会が、その足元に水を通しているせいだ。海は束の間川となり、まだら模様の石畳の狭間を、闇に咲く花々の傍らを、淀みなくくぐり抜けていく。宝石をちりばめたような床の彩りとは対を為すように、そっけなく組み上げられた人工石材の壁はいっそ武骨なほどだった。
 波を象るようにあしらわれた窓から差し込むのは、無論自然光ではない。明度の抑えられた間接照明によって礼拝堂は淡い暗闇に包まれている。そこにあってなお濃い影を落とすのは、険しい表情で椅子につく下層市民の参列者だった。彼らの瞳に映った値踏みの色を、イチカは強いて意識の外に置く。
 足を進ませる最中、視界の端にカメラを捕えた。コマーシャル、の一語を思い出して、イチカの唇は嘲笑に歪みかける。
「よそ見をしないで」
 囁きは傍らから伝わった。ぎこちない足取り、こわばった声色から、イチカはエイトの不安をたぐる。
(……下手くそ)
 そうして内心でひとりごちていた。気が抜けて軽くなりかけた歩みには、変わらない足音をと心がける。
 思えばエイトの緊張も当然のことだった。彼の両親がどんな思想を抱いていたところで、彼自身が一般家庭の出であることに変わりはないのだ。義務教育で幕を閉じた学生生活も、彼と他人を結び付ける機会を奪ったに違いない。ともなればエイトという青年が衆目にさらされた経験など、数えるほどもあったかどうか。
 独壇場だ――自覚して、イチカは唇の内側を噛む。産まれてこの方、八神榛一の娘でありつづけたイチカからすれば、人の目は空気も同然だった。
(馬鹿ね)
 彩られた指先で、人知れずエイトの手首を掻く。反射で向けられたエイトの顔に「前よ」と告げて足を進めた。
 自分を迎えた祈りの文句は、数列を眺めるような心地で聞く。微動だにしないエイトをとってもそれは同じだったのだろう。
 くちづけを、と命ぜられ、吐息は一度、確かに冷えた。
 顔を上げる。流線状の窓からは光がこぼれていた。呆けた白さえ目を焼くようで、イチカは思わず目を細める。狭められた視界の中央、エイトがイチカに向けたものは、もはや惰性に他ならなかった。
 臓腑を絞られるような痛みを覚えて、イチカは指を握りこむ。
(そうよ、馬鹿。救いようもない馬鹿だわ。……エイトだけじゃない、私だってどうしようもない大馬鹿者だった)
 海のような瞳に映して見ていたのは、所詮光が築いた虚像に過ぎなかった。あるいは単に鏡を覗きこむのと同じ、自分自身を見つめ返していただけだ。その奥に水底があることに、思い至りもしないで。
 名前を呼ばれた気がした。気がしただけだった。エイトの口元は、端から動いていなかったのだ。視界を覆っていたヴェールがたくし上げられれば、静寂が流れ込んでくる。
 唇が重ねられる。
 まるで、プラスチックに触れるようだった。
(本っ、当に、どうしようもない――!)
 腹を内側から叩いたのは、やり場のない苛立ちだ。
 歯に、皮膚を突き破る感覚があった。噛んだと認識したのは舌先に鉄の味を感じたあとのことだ。どちらともなく息を詰める、その一瞬後にエイトが大きく身を引いた。
「っ……」
 青年の唇を血が這った。そこに確かな充足感を覚えて、イチカは自身の口元を拭う。
 式場に囁き声が伝播する。なにが、と勘繰る者こそあれ、イチカのささやかな反撃を見咎める者はひとりとしていなかった。エイトが上半身をのけぞらせたことも、当人以外の瞳には、奇怪な行動としか映らなかったのだろう。
「続きを」
 イチカに促され、式は粛々と元の様相を取り戻していく。やがて鳴り渡った拍手の雨の中、イチカは毅然と踵を返した。
 身を凍りつかせたままの新郎を、慮ってやる道理もなかった。