Chapter4 プラスチックに噛みついて
 日を通して明るさの変わらない下層にあって、イチカに時を告げる機器といえば、部屋に備え付けられた旧式の時計ぐらいのものだった。
 アクエス上層において広く用いられているのは電波時計だ。ねじ巻き式の時計を目にするとすればデータバンクの中でのみ、当然触れる機会は一度もなかった。イチカはためつすがめつ針の動きを観察したうえで、これが見られただけでも儲けものかしら、とベッドへ戻る。そうでもしなければ胸がささくれだって仕方がなかったのだった。
 食事は日に三度、決められた時間にエイトの手で運ばれる。部屋の明かりが消えるのは夜の十一時、点けられるのは朝の七時。学校に通っていたときと同じ生活習慣だ。登下校や勉強の代わりとなったのは、余暇の供にと用意されたのであろうデータファイルを読みあさることだった。
 初めこそイチカと共に文字列を追っていたカナメであるが、これといった情報が得られないと知るや、ひっそりと部屋を出ては帰ってくることが増えていった。せわしなく飛び回る彼女を尻目に、イチカの日々は安穏と過ぎていく。
 変わりばえのしない生活に影が差したのは、イチカが下層で目を覚ましてから、ちょうど五日目を数えた晩のことだった。



(……遅い)
 時刻は夜の八時を回っている。普段であれば七時半きっかりに運ばれてくるはずの食事が、この日に限って届けられていなかった。不審感がわいたとしても、イチカには原因を確かめるすべもない。
 膨れ顔がひいたのは八時過ぎ。それまで微動だにしなかった扉が開かれたときだった。イチカは開口一番に責め立ててやろうとして、部屋を訪れた相手がエイトではないことに気付く。
 代わりに入ってきたのは、短髪を獣のように逆立てた青年だった。食事の乗ったトレイをテーブルに下ろしてから、彼はイチカへと手を差しだす。
「どうも、お嬢さま。仁科孝貴ニシナタカキです、よろしく」
 銀の指輪が三つ、節くれだった指にはめられている。硬い骨格をした手を取れないまま、イチカはソファに身を固めていた。
 彼は気を害した風もない。空の腕を背に回し、ひとつ息をついた。
「顔を合わせるのは初めてか。俺も一応上層にいて、お嬢さまの脱走騒ぎのときはエイトに手を貸していたんだけどな。その節は世話になりました」
「……ああ」
 居場所を探り出されるのが、やけに早いとは考えていたのだ。協力者がいたのだとすれば納得がいく。イチカの肩からわずかに力が抜けたことに気付いたのだろう、タカキはふんふんとうなずいた。
「エイトとは多少付き合いがあってな。今日はあいつが来られないって言うから、俺が代わりに来たってわけだ。聞いた話じゃ、あんた、随分つんつんしてるみたいだけど」
「つんつんも何もないわ。手ひどく裏切っておいて何様のつもり」
 タカキから目を背けると、彼は違いないなと笑う。そのままよどみなく吸われた息には、会話を続けようとする彼の意志が感じられた。
 しかし唐突に立ち上がったイチカが、タカキの声を遮った。食い入るように見つめたのは眼下の都市だ。朝も夜も薄暗い街並みを、通り抜けていく青年の影があった。
(……エイト?)
 彼は重い足取りで数歩を行った先、二人連れの男女の前で立ち止まった。壮齢にさしかかるであろうという年頃のふたりの顔立ちは、よくよく見ればエイトに似ているのだ。しばらく会話が続いた末、彼らは表情に険を露わにした。
「あれは……」
 ひとりごちたイチカに、タカキが並ぶ。窓の外を眺めるや、げ、と声を漏らした。イチカは勢いよくふり返る。
「ねえ、あれは誰なの。エイトはここには来られないって言っていたけど」
「あいつには所用があって……俺が代わりに連絡を、」
「質問に答えなさい。あれは誰」
「だから」
 イチカの堪忍もそう長くは続かない。タカキの髪を掴み上げれば、彼は苦悶の表情を浮かべた。
「誰、なのって、聞いているのよ!」
「――ってえ、あんたほんとに人の話を聞かねえな!」
「あなたの相棒に比べれば断然まともよ! ほら、答えなさいったら! 髪を引き抜いてほしいの!?」
「なんつうじゃじゃ馬……っ、わかったよ! 話すからやめろって!」
 イチカはタカキを解放してやると、ふんと腕組みをする。タカキは臭いものを見るような目でイチカを一瞥したきり、逃げるように身を引いた。
「見たままだよ、あいつの親父さんとお袋さん。エイトは一人息子」
「喧嘩をしているように見えたけど?」
「……あのさ、頼むから、俺から聞いたって言わないでくれよ」
 タカキは頬を掻き、渋りながら口を開いた。
「エイトの親はちょっと過激でさ。大昔も大昔、下層市民のご先祖様が上層を出たときの考えを、そっくりそのまま頭に残しているんだ。REBは敵だ、それを生み出す技術も、それに関する機械も、なにからなにまで人類の生への冒涜だってな」
「無茶苦茶じゃない」
「あんただってちょっと前までは、下層市民全員がそんな人間だと思っていたんだろ?」
 返す言葉がない。口ごもったイチカを、タカキは揶揄するでもなく続ける。
「過激派なんてのは一握りだよ。それもあのふたりみたいなのは。自分たちの子供が技術に触れることさえ許せなかったらしい、あいつを高校にも行かせないで家に閉じ込めちまった」
 ――俺の場合は、親が教育費を出す人間ではなかったから。
 エイトがそう苦笑していたことを思い出す。
 イチカは思わず窓の外に目を向ける。言い争いが収まったのか、もしくは場所を変えたのか、親子の姿はどこにも見つからなかった。
「本人からも似た話を聞いたわ。エイトに勉強を教えた友達っていうのは、じゃあ」
「俺のことだな。……下層にも色んな人間がいるってことさ、あんたを誘拐してきた奴らの中にも、外にも。上層に私怨のある奴もいれば、REBそのものを嫌っている奴もいる。単に下層にいたくないだけの奴だって」
「あなたは……」
「これだけぺらぺら喋ってるんだ、わかりそうなものだけどな。俺もエイトも、ご大層な理想になんて興味はないよ。ただここを出ていきたいだけだ。あんたを売り払って――その代わりに偽物の身分証と、REBの体をこしらえて」
 とねぶるような視線を向けられる。イチカは舌に苦みを感じていた。
「そうやってずっと、嘘をつき続けて生きていくつもり」
「真っ暗闇に閉じ込められたままよりはずっとマシだろ」
「……そうね。そのとおりだわ」
 少なくとも、彼らは決して、自分を見失うようなことはないのだろう。大昔に放った矢が自分の胸に刺さるようで、それ以上の言葉を吐き出すこともできなかった。
 途端に舞い降りる沈黙が、部屋の冷気に溶け込むようだ。タカキは居づらそうに身じろぎをくり返し、ややあって息をついた。
「やっと静かになったな。連絡のためにここに来たってのに、ずいぶん手間取っちまった」
「連絡?」
「今後の話さ。あんたにはよくよく着飾って、エイトの隣を歩いてもらわなきゃならないんでな」
 きょとんとするイチカを見るなり、タカキは馬鹿にするように肩をすくめた。次いで放たれる一言に、イチカは今度こそ絶句する。
「楽しい楽しい結婚式ごっこだよ。よかったな、花嫁さんってのは女の子の憧れなんだろ?」



 自分を捕えた人間は、意地でもアクエスへの鍵を外に出したくないらしい。イチカはげんなりした顔で天井を見つめていた。
 タカキがイチカの部屋を訪れた夜から、日を跨いだ翌日の午前中。彼同様に押しかけた下層の女性たちによって、ドレスの採寸は静寂の中で執り行われた。もちろんイチカの抗議が意味を為すことはない。ぶしつけに伸びる手に為すがままにされていたのは、まだほんの十分前のことだ。
 ほうぼうの体で服の乱れを整えたきり、イチカはベッドに寝転がる。視界を横切っていく虫の影ひとつ、目で追う気にはなれなかった。彼女――カナメはイチカの耳元に下りると、呆れたように声をかける。
『イチカ嬢。まだ起きたばかりでしょう』
「放っておいて。ごっそり気力を絞り取られたんだから」
 どんなに呼びかけたところで、女性たちは返事のひとつもしないのだ。イチカが抵抗すれば濁った瞳で睨まれるばかりだった。
「ひどい扱い。私を人間だなんて思ってなかったわ、あの目」
『三食と寝床が与えられているだけ高待遇では? そもそも人間扱いを受けないのは当然でしょう。あちらが欲しているのはイチカ嬢自身の人格ではないのでしょうし』
「……あなたの言い方も大概ね」
『事実ですから』
 そっけなく言ったところで、カナメの中でその話題には決着がついたらしい。イチカの渋面も意に介さず、彼女は『下層の件ですが』と話を変える。
『数日間、可能な限りで街中の偵察を試みていました。あなたが電子書籍の空想の情報に夢中になっている間に』
 イチカの「嫌味」という呟きを無視して、カナメは続ける。
『トランスポーターを動かす手立ては見つかりませんでしたが、別の情報をひとつ入手しました。どうやら一般の下層市民は、あなたが誘拐されてきたことを知らされていないようです』
「知らない? まさか。あれだけの騒ぎを起こしておいて?」
『情報の隠蔽が為されたのでしょう。結果、あなたは自ら望んでこちらに移住したことにされています。先ほど彼が言っていた、結婚式とやらもそのためかと』
 ようやく理解が回り始める。イチカ誘拐の全容を知り得ているのは下層市民の中でも一握り、アクエスの鍵を求める急進派だけなのだろう。彼らは他の下層市民を前にデモンストレーションを行おうとしているのだ。かねてからの予定通りに協約は果たされていること、すなわち、下層にはただひとつの非も存在していないことを示すために。
「だから結婚式“ごっこ”ね。悪趣味だわ」
 吐き捨てて、イチカはごろりと寝返りを打った。カナメは迷惑そうに跳び上がった後、ふたたびイチカの耳元に舞い降りる。
『あなたが彼、光峯瑛斗にどのような感情を向けていようと、こちらが関与することではありません。結婚式を受け入れようが受け入れまいが、イチカ嬢のお好きなように。ですが私たちにはあなたを救出する義務があります。可能な限りで傷のないまま、あなたを上層へと連れ帰る義務が』
「……なに、改まって」
 カナメの声の調子は変わらない。だがそこには確かに毅然とした響きがあった。イチカが知らず呼吸を抑えたところで、カナメは告げる。
『今しがた対策本部が動きました。これより指示をお伝えします、イチカ嬢。くれぐれもお聞き逃しのないように』