エイトは素知らぬ顔で床を踏み、窓際まで歩み寄る。「見えますか」と指し示したのは、青に満たされた景色だった。
 上層が青と白をたたえた街ならば、下層は青で黒を包んだ街だ。光源となるのは点々と取りつけられた電灯と、建物からこぼれ出す明かり、そして足元の海が放つ、ほの暗い青の光だけだった。
「海から太陽の光が漏れているんです。頭上にあるのは地面で、足元にあるのが上層……イチカの住んでいたところ。俺たちの空は海の底にある」
 ステンドグラスを踏み歩いているかのような光景は、上層に産まれ育った者の目を釘付けにするだろう――状況が状況でなかったならば。イチカは無言を保ったまま、エイトを見つめていた。
「いつか見せたいと思っていました。気に入ってくれるといいけど」
 言ってから、エイトはイチカをふり返る。そこに敵意を読み取ってか、怖いな、とひとりごちた。
「下層の人間だって気に入ってなんかいませんよ。息が詰まってどうしようもない。だから上層に穴を空けようとしているんです――海の底に押し込められた人間が、背を伸ばして住めるだけの穴を。そのためにイチカが必要だった」
「今度はわたしを人質にして、上層議員に言うことを聞かせようっていうの」生憎だけど、と継いでイチカは首を振る。「父さんひとりだって、私のためには動かないわよ。私が貴重がられていたのは協定のためだもの。その協定が反故にされようとしているんだから、今さら私なんか助けたところでどうにもならないわ」
 卑屈であるとともに、正論でもあったはずだった。しかしエイトの顔色は変わらない。なによ、と唇を尖らせたイチカに、彼は首を振ってみせた。
「下層が求めているのは、八神議員の娘なんかじゃありません。正真正銘、あなたが欲しかったんだ。イチカ……あなたの持っている、セキュリティへの優越権がね」
 棄てられたトランスポーター、イチカを受け入れたセキュリティ。呆けたようなロック解除の電子音を思い出し、イチカは渋面を浮かべる。
「……この体のこと、あなたたちは最初から知っていたっていうの」
「もちろん。俺たちはその上でイチカを求めました。あなたが“何故か”セキュリティに弾かれないことも、それが上層にとっての鍵であったことも理解して」
「鍵?」
 イチカの問いを受け、エイトは間をおいて、こころなしか丁寧にその名を出す。
「アクエス、のことを知っていますか」
「知っていますかって、都市の名前でしょう。私たちの暮らしている場所」
「ええ、その通り。アクエスが都市であることを、誰もが知っているし疑いもしない。でもこの都市がどう成り立っているのか、どうして動いているのか、誰一人として知らないんだ」
 イチカの沈黙を、エイトはほほ笑みをもって受け入れる。指の節で窓を叩いて、青の町並みを示した。
「下層の重力を反転させているものは? トランスポーターを稼働させているものは? 機能や仕組みなら、少しぐらい調べれば誰にでも知ることができる。でも原動力はどこにも見つからないでしょう」
「それは、人の手が届かないよう機密情報にされているから……」
「だとしたら、いったい誰であれば情報にアクセスできるっていうんです? ……わからないでしょう、俺たちはそういう都市に暮らしているんだ」
 機密で塗りたくられた張りぼてこそが都市だという。ぞっとするような囁きに、イチカは身を硬くした。エイトは窓に背を向ける。
「都市の動力も、トランスポーターも、なにもかもすべて、作られたものじゃない。初めからそこにあったものだった。そうでしょう。情報は機密のもとに隠されて、誰が触れることもできない場所に置かれている――下層の人間はおろか、上層の人間、“大樹”の人々であっても。そうしたセキュリティの向こう側に、都市アクエスは棲んでいる」
 イチカ、と呼びかけられる。
「あなたはそれに会うための鍵だ。俺たちが唯一アクエスから許された、彼女の居場所を示す鍵」
 沁み込むような寒気に、イチカは指先を握りこむ。
 下層に届くのは太陽の光のみだった。熱はあらかた海に飲み込まれて、冷淡な青を吐き出している。頭を押さえつけられるように感じたのは、イチカが上層しか知らないためばかりではないのだろう。
『……ならばなぜ、上層はイチカ嬢を手放したのでしょうね』
 黙りこんでいたカナメが口を挟む。尋ねろ、ということだ。イチカは疑問を自分の中で噛み砕いてからエイトに投げかける。
「私が大切だっていうなら、それは上層にとっても同じことでしょう。協約の証だなんて公の場所……それも下層に触れるような場所に、差し出す理由はないんじゃないの」
「イチカは賢しいですね。俺もあまり顔を合わせるべきじゃないのかもしれないな」
 からかうように言ってから、エイトは表情を引き締める。あくまで推測ですが、と前置きをした。
「上層もまたアクエスを探している、と考えています。けれど海の上のどこを探しても、彼女の手がかりのひとつも見つけられなかった。次に探すとすれば下層でしょう。だからイチカを餌にしたんだ。正当な理由をつけてあなたをこちらに向かわせるのが目的だった。こうして捕えられた以上、その思惑も泡と消えたわけですが」
 エイトは息をつく。もういいでしょう、と首をかしげた。ベッドに近づくと、困ったように腰に手をやる。
「まずは安心してください、イチカ。セキュリティを突破する力がある限り、下層の誰もあなたに手出しはしません。食事も服も、望みのものを用意します。自由だけはあげられないけど、それは上でも同じだったはずでしょうし」
 癇に障る言い方をする。イチカは知れず眉を寄せた。
「そう、それが本性だってわけ。うまく猫を被っていたものよね」
「人聞きが悪いな。あなたのお父さんやお兄さんより、俺はずっと優しかったでしょう?」
 わなわなと肩を震わせたのは、今度こそ寒さのためではない。ベッドのシーツを握り、イチカはきつくエイトを睨みつける。
「――上等だわ」
 口をついたのは負けん気だった。
 エイトの首根を掴むと、その顔面を引き寄せる。彼の驚きには目もくれず、イチカはただ怒りだけを瞳にぎらつかせていた。
「勝負をしましょう、エイト。今にあなたを骨抜きにしてみせる。私のことしか考えられないようにしてあげるわ。……見ていらっしゃい」
 崩れた虚勢の先を見るのは愉快だった。言いきって、イチカはようやく襟首を解放する。一歩を後ずさってから、エイトはこわばった笑みを浮かべた。
「楽しみにしていますよ。イチカに嘘がつけるとは思わないけど」
 足早に去っていった青年を見送り、イチカはふんと鼻を鳴らす。嘘、と言いきられたことには苛立ちこそ覚えたが、彼の意表をつけたのであれば十分だ。
 ややあって、耳元にため息の気配が立つ。
『実際にどうなさるおつもりで?』
「考えているところよ、黙っていて」
『……そんなことだろうと思いました』
 暗に向こう見ずだと言われる。むっとしたイチカに、カナメが弁解を返すことはない。代わりに「それにしても」と言葉を継いだ。
『私が口を挟むことではありませんが、よくもあんなことが言えますね。あなたの中身だけが目当てだと言われたも同然でしょう。彼を憎むのが当然の反応では』
「セキュリティのこと? それなら上層部の議員さん――父さんたちだって同じことでしょう。兄さんがどうだったかまでは知らないけど、あいつだけを恨むのはお門違いだわ」
 議員の娘に生まれついた以上、利用されることに苛立ちは覚えない。エイトに腹を立てるとすれば、イチカに向けられた言葉のすべて、偽りであったと明かされることに対してだった。
 イチカは膝を抱えこみ、腕の間に頭を埋める。着せられたままの制服さえ場違いなものに思えていた。
「自分が何者なのか、知る機会でもあるわけだもの。そうでも考えないとやってられないわ」
 それに、と呟いて顔を上げる。声にはいくらかの拗ねが混じった。
「嘘だったとしても、私を――私自身を好きだなんて言われたのは初めてだったの。……好きになっちゃったんだもの、仕方ないでしょう」
 イチカの孤独は、誰の目にも明らかな場所に置かれていたのだろう。歪な硝子玉を目に捉えても、触れるような人間はどこにもいなかった。それを磨くことさえ忘れたまま、イチカはひとりで膝を抱えていたのだ。
 どんな意図があろうと、エイトが硝子玉を拾い上げたことだけは真実だった。容易くほころぶことを知って初めて、心のやわさに気がついた。
(本当に馬鹿だわ。後悔していないところが一番)
 深いため息をついて、そこで不自然な沈黙に意識が向いた。なんとか言ったらどう、とカナメに声をかけたところで、イチカははっと息を飲む。――彼女はあくまで、連絡役に過ぎない、と言っていた。
「ねえ、ちょっと、もしかして今の」
 わざとらしい羽音が響く。イチカの顔から血の気が引いた。
『イチカ嬢の発言や対話の内容は、余すことなく警察署の捜査本部に伝えられています。お気の毒ですが』
 それまでの苛立ちへの意趣返し、とばかりに、カナメは平然としたそぶりで答える。イチカの喉元からは引きつった声が漏れた。
 すべて筒抜けだったということだ。仕事本位の兄の耳にも、彼の同僚たちにも。耳にはかっと熱が上る。今すぐにでも叫び出したい思いに駆られながら、イチカは枕をベッドに叩きつけた。
「人のプライバシーをなんだと思ってるのよ、もう……!」