耳の間際を飛び回る、煽るような虫の羽音。体中に残る気だるい疲れと、頭をぐらつかせるかのような気分の悪さ。そのどれもがイチカに顔をしかめさせ、目蓋を開けるだけの気力さえ失わせていた。
意識を失ってから、どんな目にあったのかも定かではなかった。推測されるのは、エイトに騙され、下層市民の過激派に捉えられた後、恐らくはそのまま下層へ運ばれたのだろうということだ。イチカが薄い呼吸をくり返す傍ら、わずかな冷気が指先を這っていく。
ぶぶぶ、と羽音を響かす虫が耳障りだった。耳元に降り立ったらしいそれを払いのけようと、イチカは手のひらを持ち上げる。
『意識があるようなら、目を開いていただけませんか』
「ひ――っ!?」
しかし突如響いた音声に、一声叫んで跳び起きる。途端、照明がイチカの目を焼いた。寝かされていたベッドから転がり落ちそうになり、やっとのことでその場に踏みとどまる。ぜえ、と息をついて、イチカは眉をひそめて周囲を見回した。
人ひとりにあてがうには広い一室には、ベッドを始めとした家具が置かれている。クローゼットにテーブルやソファ、小説を中心としたデータメモリを収めた書棚が並ぶ一方で、外界に繋がる端末やテレビは設置されていない。どうやらトイレやシャワールームまでも完備されているようで、イチカがそこに放りこまれた理由は、知らされずとも明らかだった。
人影はない。だが確かに人の声を聞いた。立方体の箱に、言葉だけを几帳面に詰め込んで取りだしたかのような、女性の声だ。枕を抱きしめたイチカの目に映る生物といえば、跳び上がった羽虫が一匹のみだった。
(まさかね)
唇をひきつらせ、おそるおそる指を差しだす。羽虫はまるで心得たかのようにそこに降り立った。気味の悪さに顔をしかめつつ、イチカはおもむろに、指先を耳元へと近づけた。
『ご理解いただけたようで結構です、イチカ嬢。お目覚めですね』
「む、虫、が、喋っ」
『あなたの兄君、八神警視の命を受けて潜入しています。大声を上げないで。悟られます』
震えていた肩先が、ぴたりと動きを止める。イチカは一度扉に目をやってから、耳元の神経をとがらせた。
「兄さんの命令、って言った? ……虫が?」
『REB技術の応用です。小型の機械虫に思考を乗せているだけ。人の体は別にあります』
「だからって、なんで虫なんか」
『機動性と隠密性の確保が最優先です。これ以上機体の説明が必要ですか?』
「……結構よ」
頭が痛くなりそうだった。イチカは小さく首を振る。いくらかの安堵を抱いた一方で、機械の虫に乗り移った相棒はどうやら四角四面な人間であるらしい、とげんなりしていたのも確かだった。
『申し遅れました。警視の部下の一人、要志鶴と申します。あなたとは初対面ではありません、言葉を交わしたことこそありませんが』
イチカの眉のしわが濃くなる。兄に連れられて警察署に顔を見せたことこそ数度はあるが、相手の顔を覚えるような出会いは一度もなかった。しばらく考え込んで、思い当たったのはつい数週間前の記憶だ。
「私が熱を出したとき、兄さんと一緒に家に来た……」
『ええ、その節は。お久しぶりです、イチカ嬢。再会を喜ぶつもりは毛頭ありませんので、話を続けてもよろしいでしょうか』
「仕事熱心なことね。誰かとそっくり」
思わず吐いた呟きを、相手に聞かせるつもりはない。それで、と続きを促すと、カナメはふたたび声を発する。
『イチカ嬢は現在、下層に誘拐されている状況です。学校を襲撃したのも下層の人間と見て間違いはないでしょう』
「でしょうね。あの馬鹿がやけに低姿勢だったもの」
『あなたが人質に取られた、と聞いて……いえ、それよりも先に、警察は学校の包囲を解きました。あなたは警察の黙認のもとでここに連れ去られた、ということですね。議会からの連絡があったためだ、と警視は仰っていますが』
「議会? どうしてそこで議会が出てくるの」
思い浮かぶ顔といえば、父親の鹿爪らしい表情のみだ。イチカの問いかけに、カナメは『さあ』と言葉を返す。
「さあって、あなたね」
『不可解な部分が多いのは、私たちにとっても同じことです。犯人の目的も未だ定かではありませんから、聞き込みを行う必要がありますね』
「待って、それは誰が」
『イチカ嬢が、に決まっているでしょう。私はあくまでも上層との連絡に立っているだけです。この機械虫が見つかれば、孤立するのはあなたのほうですよ』
まるで強迫だ。イチカは苦い唾を飲み込んで、苛立ちを抑え込む。
「わかったわ。続けて」
『ご理解いただけたようで結構です。ではこちらが知り得る限りの情報を……そうですね、まずは現状を。現在上層と下層は、隔離された状態にあります。イチカ嬢、トランスポーターの所持権に関わる抗争のことはご存知ですか』
「上層と下層がトランスポーターを巡って揉めたって話でしょう? もう何十年も昔のことだわ」
被害者の数は多数にのぼり、議会を内包する“大樹”は日夜騒動の中心にあったという。アクエスの傷跡として深く刻まれた一件ではあるが、イチカにとっては産まれる前のこと、すなわち見知らぬ歴史の一角に過ぎない。
カナメにとってもそれは変わらないのだろう、ええ、と冷たい声が肯定を示す。
『あれ以来トランスポーターは、上下層を繋ぐ“海”同様に相互不可侵領域であったはずでした。ですが今回、イチカ嬢が誘拐されてからというもの、その交通が一方的に断ち切られています』
「上層からこじ開けることはできないの?」
『試みていますが、結果は芳しくありません。しばらくはイチカ嬢の単独行動が予期されます』
「単独行動、って言ったって、この状況じゃない」
イチカの籠められた部屋には、当然ロックがかけられているのだろう。セキュリティに干渉する端末が部屋の中に備え付けられていない以上、イチカをもってしても脱出は不可能だ。ふてぶてしく足を投げ出して、ふんと鼻を鳴らす。
唯一外に繋がるものはといえば、部屋に取りつけられた大窓のみだ。開閉の不可能な作りとなっているうえ、部屋はどうやら二階に位置しているらしい。窓の向こうに広がっているのは、どこにも足場のない海の青だ。窓を叩き割って飛び出したところで溺れ死ぬのは目に見えていた。
「首輪がかけられていないのが不思議なくらいだわ。馬鹿馬鹿しい」
『心中お察しします、とは申しませんが』言葉の切れ目に、カナメの冷淡が滲む。『扉が備え付けられている以上、外部からの干渉は行われるでしょう。なるべく話を引き出して、こちらに情報を流すよう心掛けてください』
「……それが兄さんの指示、ってことね。了解」
『それから、先に申し上げたように、私は連絡役としてあなたに付いています。警視からの指令があればお伝えしますので、くれぐれも早計なご判断はなさらないでください』
暗に学校での一件を責められているのだ。嫌味、とイチカは唇の端をつり下げる。
兄が差し向けると言っていた警察の人間とは、すなわちカナメのことであったのだろう。校舎が封鎖された状況に飛び込めるのは、人型を棄てた彼女ぐらいのものだ。イチカが保健室を飛び出してさえいなければ、カナメは無事本来の役目をこなしていたに違いない。
『私の存在は決して他言しないようお願いします。ご自分の無事が大切であれば』
「わかったわよ、わかったってば」
空いたままの手を振りながら、イチカは冷めた印象の美人が小言をたたみかける様子を想像する。カナメが人間の姿をしていたとして、ここに至るまで、彼女が顔色ひとつ変えていないであろうことは伺えた。
会話の切れ目にかすかな足音を聞く。指を離れた羽虫は、そのまま耳の中に居場所を見つけたらしい。ぞわりと立つ鳥肌に顔をしかめながら、イチカは扉をふり返った。
音もなく開いた自動扉に、すらりとした影が立つ。
「おはようございます、イチカ。ご機嫌は?」
「最悪よ。あなたのおかげでね」
幼稚なあてこすりが通じるはずもない。ありったけの酷薄を頬に張りつけて、エイトはにこやかに笑んでいた。