犯人はひとりではないのだろう、と考えていた。それは “我々”と自称したこと、彼らの中に警察の動きに目を凝らしている人間がいることからも明らかだ。ならば当然、廊下を見張る者がいてもおかしいことではない。イチカはすり足で歩きながら、わずかな物音さえ聞き漏らさぬようにと耳を澄ましていた。
「……犯人は下層市民なのかしら。それとも上層の?」
「十中八九下層の人間でしょうね。他の学校を襲っていた手合いだと思います」
 子供たちが次々と病院へ運ばれていく光景が、イチカの脳裏によみがえる。顔をしかめて言った。
「ただの馬鹿だわ。こんなの、上層の反感を買うだけじゃない。これ以上亀裂を大きくしてどうしようっていうの」
「亀裂を塞ぐだけじゃ満足できないってことでしょう」
 エイトの返答に、イチカは眉をひそめて振り返る。
「満足できない? 下層の人間は……いいえ、暴動を起こすような人たちは、上下層の差を埋めたくてこうしているんじゃないの」
「平等じゃ足りないということですよ。虐げられていた側がすべてを許せるわけじゃない。仕返しをせずにはいられない奴らもいる。報いを上層にと考える輩がね」
「虐げるなんて、そんなこと……」
「上層に自覚はないのかもしれない。でも下層には、そう考える人間が確かにいるんです」
 海の底に行き場を求めたのは、地上に居場所が見つからなかったからだ。ならば下層市民が下層に留まり続けるのも妥協案のひとつに過ぎない。彼らの求める世界は、本来上層で得られなければならないものだったのだから。
 イチカはふとエイトをふり返り、彼の視線の先を追う。光源のない廊下の端には、どろりとした夜が横たわっていた。エイトはイチカの目に気付くと、ごまかすように首を振る。
「なににせよ、イチカが同情を向けるようなことじゃありませんよ。……学校を危険にさらしたことを、恨みこそすれ。改善のきっかけを拒んでいるのは下層のほうだ」
 行きましょう、と囁いて、エイトは二歩だけ先へゆく。
 ふたりが足を向けた先はイチカの教室だった。爆音が響いた方角にあたるひと部屋は、東棟の三階に位置している。西棟一階の保健室から向かうにはいくらか距離のある場所だった。階段を上りきり、ようやく教室の前にたどりついたところで、扉の向こう側が闇に覆われていることに気付く。
 爆破の痕ではない。判断して、イチカはひそかに息をついた。
「バリケードね。内側に机が積んである」
「むしろ好都合でしょう、扉が開いても中からは気付かれない。開きそうですか」
「たぶん」
 細心の注意を払って扉を引く。鍵やつっかえ棒の類は用意されていないのだろう、普段以上の手ごたえはない。イチカは半ばほどまでを開いたところで、その場にしゃがみこんだ。
 机を重ねたやぐらの上からは、どうやら暗幕がつり下げられているらしい。視界が覆われているのはそのためだ。わずかな隙間から中を覗こうと、イチカは教室に身を寄せた。エイトがその後ろに膝をつく。
「人影はありますか」
 ようやく聞き取れるだけの問いに、イチカは首を振った。
「よく見えない。黒い、人の足かしら。あれは」
「人数に見当は?」
「見える限りで三人。それ以上はわからないわ」
「そうですか」
 はあ、とため息を耳に聞く。それがエイトの発したものであると気付くのに間が要った。
「……ぜんぶ予定通りだ。どうしてこんなにうまくいくんだろうな」
「予定通り? なに言ってるの、あなた――」
 いやに落ち着き払った声が不可解だった。
 ふり向きざまにイチカが見たものは、まず漆黒に塗りつぶされた天井と、影の落ちたエイトの眼差し、そこに映ったわずかな悔恨。そして自分に差し向けられたてのひらと、均衡を崩した足元。
「……え、」
 突き飛ばされた――そう悟ったときには、もう踏ん張りも聞かなかった。
 背に衝撃を覚える。女子高生ひとりの体重でも、机の足を払うには十分だった。支えを失ったバリケードがあっけなく崩れ落ちていくのを、イチカは騒音だけで感じ取っていた。
 暗幕は軽々と引き払われ、明度の抑えられた光が手元を照らす。しかしイチカは尻もちをついたまま。冷めた表情で自分を見下ろす、エイトの顔面から目を逸らせずにいた。
 こつり、と音。後頭部を小突いた筒の名には、確かに心当たりがある。
「彼女が八神一花です」
 滞った沈黙をエイトが振り払う。彼はイチカの頭上へと顔を向けると、一度だけうなずいてみせた。
「手はず通り連れてきました。あとの処分はお任せします」
「手はず、通りって、どういうこと」
 肩先から震えた自分の体を、なだめることもできなかった。胸はうるさいほどに鼓動を刻んでいる。まるで雑踏の中に放りこまれたように、耳元は絶えずざわついていた。
 エイトはイチカの前に膝をつく。下がった眉、細められた目から憐憫を読み取って、イチカは力なく頭を振った。
「騙していたの。私を売るために?」
 エイトが頭上に一瞥を投げる。指示を待つだけの空白の後、彼はゆっくりとまばたきをした。イチカはぎりと奥歯を噛む。
「答えなさいよ、答えなさい、光峯瑛斗! 最初から私を引き渡すつもりでいたの、全部嘘だったって言うの!? 答えなさいったら、ねえ……!」
「話なら」
 ぞっとするほどに低い声で、エイトはイチカの言葉を遮る。
「海の底でゆっくりと。今は、そうですね、……俺のことを信じてくれてありがとう、イチカ」
「……っ!」
 渾身の力をこめ、エイトの頬を張る。
 彼は微動だにしなかった。呆けた音だけがイチカの耳元に届き、掌がじんと痛みを放つ。そのひきつるような感触に、イチカはくしゃりと顔を歪めていた。
 銃口に後頭部を叩かれる。イチカは掌を下ろすと、薄く唇を噛んだ。
「せめてひとつだけ教えて。ミサキとユリは……私の友達は無事でいるの」
 エイトは意外そうに目蓋を持ち上げる。みたびの犯人との目配せのあと、彼は肩をすくめてみせた。
「校舎に残っていたのは、ほとんどが教師の方々でした。イチカのお友達に会ったというのも嘘です。ああ言えば、イチカはおびき寄せられてくれるだろうと思ったから」
 この通り、と手を広げる。その悪びれなさに吐き気がした。
 イチカをいさめるそぶりも、保険医とのやりとりも、みな芝居だったのだ。猪突猛進な魚を釣るには、友人の存在はさぞいい餌だったことだろう。悟って、イチカは濁った息を吐き出す。
 そう、と、こぼした声から、力は抜けていた。
「だったら……今のところは、十分だわ」
 目を閉じる。おい、と命じる声が耳に入って、直後首筋にちくりとした痛みが走る。視界は閉ざされたまま、意識が急速に闇に溶けていくのを感じていた。